愛のゆくえ   作:島流しの民

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フライン・ハイ

 

 

 

 鼻腔を擽るコーヒーの匂いで意識が覚醒していく。土曜日の午後というのは、得体の知れない眠気と戦う時間帯でもある。

 カウンターに座る僕の目の前で、叔父が楽しそうにコーヒーを淹れている。特にすることがなく、だからといって部屋に篭りっぱなしもいかがなものかと思いカフェスペースに下りてきた僕に、ちょうど何かの準備をしていた叔父がコーヒーを淹れてくれているのだ。

 

 のの字を書くようにゆっくりとポットを回しながらお湯を注ぐ姿からは、なるほど、喫茶店のマスターの風格が滲み出ている。ぽたりぽたりとフィルターを通して落ちてくる、微かに色のついた雫が喫茶マービンの陰鬱な空気を消しとばしていた。レコードプレイヤーは先ほどからマーヴィン・ゲイの『無へのさけび』を流している。

 

 

 “Rockets, Moon shots(月へ打ち上げられたロケット)...”

 

 

 悲しげな声と共に紡がれる歌詞は、僕の心をわずかに掠めていく。月へと打ち上げられていくロケットを想像してみる。その中には誰が乗っているだろうか。

 この曲を聴いた時、僕は一匹の犬のことを思い出した。惨めで哀れな、一匹の犬を……。

 

 

 

 小さな頃、まだ父が優しかった頃、何かの番組でその犬について見た。

 ライカ、それが彼女の名前だった。1957年に初めて宇宙へと旅立った、使い捨ての宇宙飛行士だった。

 

 1957年の10月4日に、ソ連が人類初となる人工衛星、スプートニク1号の打ち上げに成功した。この成功でさらに調子づいたソ連は、自国の革命記念日までに何か違うものを打ち上げるようにと、ソ連宇宙開発チームに告げた。

 急な要求に、宇宙開発チームは犬を乗せた人工衛星を打ち上げることにした。革命記念日は11月7日で、一ヶ月の猶予しかなかったので、作業は全て突貫工事だった。その乗組員として用意されたのが、ライカだった。ペタンと少し垂れた耳が特徴の、可愛らしい犬だったことを今でも覚えている。 

 ライカは自分が直径64センチ、長さ80センチの身動きの取れない小さなアルミ部屋に入れられ、宇宙に放り出されることなんて知ってはいない。彼女はただの野良犬だった。

 狭い場所に慣れるための訓練や、センサーを取り付ける手術などが行われ、ライカは宇宙飛行士として作り上げられていった。

 そして、1957年11月3日に、打ち上げが決定した。体にセンサーやアンテナを付けられ、狭いカプセルに押し込められたライカは、果たして何を思っていたのだろうか。自分を殺そうとする研究員たちに、彼女は尻尾を振っていた。

 予定通りに打ち上げが始まった。白黒の映像の中で、一つの小さな命を乗せたロケットが、彼女の意志とは関係なくゆっくりと空へ飛んでいく。小さな窓が取り付けられたカプセルの中の彼女の顔は見えない。空へと飛んでいったライカは、そのまま一週間ほど宇宙を旅して、安楽死させられた───ということになっていた。しかし実際は、カプセル内は地獄だった。

 ライカを乗せた、スプートニク2号は、予定通り地球の周りを回っていた。しかし、スプートニク2号が地球を三周した際に帰ってきたデータは、研究者たちの頭を悩ませるものだった。

 カプセルの断熱材の一部が破損して、カプセル内の温度が41度にまで跳ね上がっていたのだ。ライカに取り付けられたセンサーが、彼女が狭いカプセルの中で暑さにあえぎ必死にもがいていることを研究員たちに知らせた。しかしそれは無意味な報告だった。彼らにできることなど何一つなかった。

 約一時間半後、ライカの生存反応は消えた。打ち上げからわずか五時間程度のことだった。

 

 どれほどの恐怖だっただろうか。どれほどの痛みだっただろうか。

 僕には想像できないことだ。しかしなぜか、このライカが、僕たちを表しているような気がしてならなかった。

 

 僕達はライカだ。急拵えで用意され、行き先のわからない、大人達が指し示す方向に勝手に飛んでいくロケットに乗せられる、哀れな犬。どれだけもがき苦しんだって誰も助けてはくれない。

 

 “Oh, make me wanna holler(叫びたくもなるだろ、) the way they do my life(彼らが僕にしていることに。)

 

 目の前にコップが置かれた。なみなみと注がれたコーヒーには、眉根の寄った僕の顔の上半分が映っていた。静かにゆらめく湯気が、少し目に沁みる。

「ちょっと酸味が強いかもしれないけど、美味しいよ」

 

 叔父に礼を言い、コーヒーを飲む。程よい酸味が舌を撫で、喉へと滑り込んでいく。今日も喫茶マービンに客はいなかった。

 

「この店、お客さんとかくるんですか?」

「来るよ、時々。珍しいよね」

 

 店主がそれを言っちゃおしまいだ。僕は熱いコーヒーを一気に飲み干した。

 

 この街に戻ってきて、早いものでもう数週間の時が経っていた。少しずつ慣れてきてはいるが、やはりふとした瞬間の違和感はそう簡単には消えてくれない。

 小学生の頃の記憶がなんてことないことで呼び起こされたりした際は、僕はここにいていいものなのかと、苦しくなったりもする。特に、あの日香澄の歌を聞いた河原なんかは、近づくだけで苦しくなってしまい、頭の中に思い浮かべるのも避けていた。

 なんだか、僕の人生の全てが香澄と結びついているような気がしてならなかった。何をするにしても香澄の面影がちらつく。一体どうしてしまったのだろう。香澄を目指して飛び立つスプートニク2号に無理やり乗せられ、小さなカプセルに閉じ込められる自分を想像して見た。ひどく滑稽で、誰にも言えないような想像だった。

 

 “This ain’t living, this ain’t living.(こんなの、生きてるって言わないさ。)

No, no baby, this ain’t living.(こんなの、こんなの……。)

 

 こんなの、生きてるって言わないさ。そう呟いてコップを持ち上げるが、コーヒーは既に飲み干してしまっていた。行き場のないカップは、再びカウンターに着陸した。

 

「ちょっと、出かけてきます」

「うん。あ、じゃあ明日のパン買ってきてくれない?」

 

 カランコロンと鳴るベルを跨ぐと、街の音が忍び寄るように集まってくる。喫茶マービンは雑踏に塗れた世界の中で唯一の静謐だった。

 五月の空は何かが物足りない。春のように陽気な空気ではないし、梅雨のように寂しい湿気でもない。いわば中途半端な存在だ。空には雲が一つ浮いている。僕はふらふらと、何かに導かれるように歩き始めた。

 

 高校に入り、ある程度友人もできたことによって、この街の情報もかなり仕入れることができた。もちろん小学生の頃から変わっていないものなどは教えられなくても大体わかっているのだが、どうしても最近出来たもの、あるいは小学生の頃には行く機会がなかったところなどに関しては全く知らないに等しい。そういったところへ行くと、新しい街に来たような気持ちになれるので、かなり楽しかった。

 

 友人から教えられた場所の中に、一軒、僕のお気に入りになった店があった。

 ヤマブキパン、小さなパン屋だった。友人に勧められて行ったことがあるが、雰囲気もよかったし味も良かったので、時々足を運んでいる。まあ、友人達の目当てはパンというよりかは、店員の女の子なのだろう。

 個人で経営しているであろうヤマブキパンは、ほぼ毎日同じ店員が店番をしている。一人は具合の悪そうな中年の男性で、もう一人が若い、僕と同い年くらいの女の子だった。元気で明るく、そして可愛らしい女の子だ、男子高校生にとってはそれだけで用事もないパン屋にわざわざ足を運ぶ理由にはなるだろう。

 もちろん僕も可愛らしいとは思うが、その店員のためにわざわざパン屋まで行けるかどうかと尋ねられたら、首を横に振ってしまうだろう。事実、僕は彼女の名前すら知らないのだ。お互いの名前すらもわかっていないのに、顔を見るだけのために店に通うなんて、馬鹿馬鹿しくてやってられない。

 

 今日は女の子の店員だった。数人の客が店内を歩き回っており、彼女はニコニコと笑いながら接客をしている最中だった。一つにまとめたポニーテールが楽しそうに揺れている。

 

「いらっしゃいませー」

 

 目が合う。にこりと笑うその顔は、どことなく香澄に似ているような気がした。

 

「あ、また来てくれたんだ。ありがとうねー」

 

 そう言われて、どこか居心地が悪くなる。なんだか、僕も彼女目当てでこの店に入ってきた人間みたいに思われていそうだ。いや、まあそう思われていたからといって僕には関係ないことなんだけれど。

 

 適当に返事をして、店内をうろついてみる。相変わらず個性的なパンが多い店だ。

 特にレッドホットドッグ(チリペッパー味)や、メタリカあんぱんなど、明らかに元ネタがありそうなパンなどがずらりと並んでいる光景は、見る人によっては不気味に思ってしまうほどのものだ。

 明日の朝ごはんのパンということだが、叔父はいつも夕方や夜になったらおやつ感覚でパンを食べ始めるので、少し多めに買わなくてはいけない。手に持ったトングを唸らせ、幾つものパンをトレイに乗せていく。

 

「今日はいっぱい買うねー。どうしたの?」

 

 ふと、声をかけられる。女性店員──山吹さん(仮)だった。あ、けど店員全員が山吹さんなのか。なんと呼べばいいか、少し戸惑ってしまう。

 気づけば店内は僕と彼女だけだった。少し気まずい。

 

「明日の朝ごはんの分も買うんで、ちょっと多めに買ってる」

 

 少々ぶっきらぼうな返答になってしまったことを心の中で悔いる。敬語を使うのは少し幼稚っぽいという、僕の幼稚っぽいプライドからきたものだった。しかし彼女は特に気にした様子も見せない。

 

「へえ、そうなんだ! あれ? そういえば今日学校は?」

「え? 今日、土曜日だけど」

「あ、ほんとだ。うっかりしてた。ずっと店番だったら曜日感覚狂うんだよねー」

 

 照れ笑いを浮かべ、山吹さんは頬を掻いた。照れ笑いも、記憶の中にある香澄のものと似ているような気がした。

 平日と土日がわからないとなると、彼女は学生ではないのだろうか? 聞いてみたかったが、流石にプライベートなところまで首を突っ込むのは良くないだろう。彼女からもどことなく何も聞いてくれるなという雰囲気が漂っている気がした。

 

「そういえば、あなたはどこの学校の生徒なの?」

 

 トレイをレジカウンターに置き、会計をしている際にそんなことを尋ねられた。

 

「○○高校だけど……」

「え、じゃあ花咲川高校と結構近いね!」

「そうだね、電車で数本だった気がする」

「私、その高校の生徒なんだー」

 

 パンをナイロン袋に入れながら、山吹さんは言う。慣れた手つきの中に一種の美しさがあった。

 

「山吹さん、学生だったんだ」

「一応そうだよー。というか、沙綾でいいよ。一家全員山吹だし!」

 

 快活な笑みで、沙綾さんは言った。やはり彼女の笑みは、どことなく記憶の中の香澄を彷彿させる。

 しかしなぜだろうか、香澄と似ていると思っている一方、彼女を香澄と同じだとは思えなかった。言うなれば、何かが足りていないような、そんな感じだった。

 多分何かが足りていないのは僕の方なんだろうな。そんなことを思いながら会計を済ませた。

 

「ねね、学校、楽しい?」

「楽しいよ。沙綾さんは楽しくないの?」

「え? 私は、楽しいけど……うーん」

 

 それは明らかに触れてほしくなさそうな反応だった。しかしながら、ひた隠しにするその態度から何かを察して欲しがっている、そんな気がしてならなかった。空虚な沈黙だけが僕らの間を埋めていった。気まずい沈黙に思わず目を逸らした。ガラス戸の向こうの通りに、一本の桜の木が植えてある。

 

「私、花咲川の定時制コースに通ってるんだ」

 

 唐突に、沙綾さんがそう言った。何か大事な秘密を打ち明けるように。あるいは自分自身の弱点を晒すかのように。

 

「あ、けど定時制でも高校はすごく楽しいよ! 友達もできたし!」

 

 そうなんだ、と面白くない返事をする僕に対し、言い訳するかのように沙綾さんが付け足す。友達、彼女はそう言った。止むに止まれず定時制コースに通っている生徒がそんなにいるという事実が、なんだか悲しく思えてしまった。

 彼女はどういった理由で定時制に通っているのだろうかと、そんなことを疑問に思ったが、次の瞬間彼女の口から発せられた名前を聞いて、僕の頭は真っ白になった。

 

「カスミちゃんって子と友達になったんだ! 歌とギターが大好きな、すごくいい子」

 

 かすみ、歌。その言葉を聞いて、鼓動が激しくなる。出るとは思っていなかった名前が彼女の口から出たことによって、僕は形容し難い恐ろしさに襲われた。

 しかしそれと同時に、この数週間の中で心のどこかで妄想していたことが、急に現実味を帯びてきた。

 もしかしたら、もう一度彼女に会えるかもしれない。

 

 そんなことを本気で考え始めた自分に呆れ返る。

 会ってどうするつもりだろうか? 何を話すのか? 果たして僕が彼女に話しかけることは、許されるのだろうか。

 いや、許されるわけがない。彼女に何をしたか、忘れてしまったのか? 

 今も思い出の中でキラキラと輝く彼女の歌、僕はそれに触れる権利なんて持っていないのだ。

 

 

 

 ──しかし、もし許されるのなら、もう一度彼女の歌を聴いて見たい。太陽みたいに輝く彼女の瞳を、再び見たかった。

 

 

「どうしたの? 大丈夫?」

「あ、いや、大丈夫です」

 

 いきなり黙り込んだ僕を訝しんだのか、沙綾さんが首を傾げた。自分が敬語を使ってしまっていることも気づいてはいなかった。

 もう夕方だった。商店街は賑わい始めて、どことなく寂しさが濃くなっている。

 

「その、香澄って子は、どんな人なんですか?」

「カスミちゃん? えっとね」

 

 ほんの僅かな期待を滲ませ、そんなことを聞いてみる。あるいは、僕は許されたかったのかもしれない。自分自身が犯した罪から、そして、彼女の傷から。

 許されて、真っ白な状態で、再び彼女の歌に耳を傾けたいと、そう願っていたのかもしれない。

 しかしそんな僕の淡い期待は、あっけなく切り裂かれた。

 

「うーん……人見知りで、歌うのが苦手って言ってた」

 

 

 わたしは、歌なんて好きじゃないです。

 

 その言葉が、銃声のように脳裏に響いた。

 ガラス戸から見える桜の木に、花弁は一枚もついていなかった。

 

 

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