夢を見ていた。
睡眠時に微睡みながらぼんやりと体験する夢でも、こうなりたいと確固たる意志を持って立っていたわけでもない、たった一つの小さな夢。
叶えばいいな、もしかしたら叶うかもしれない、叶えば嬉しいな。そんな曖昧な、小さな、願い。
目を閉じれば彼女の顔が浮かび上がる。記憶の中の彼女は少しだけぼやけていて、カラーも鮮明には思い出せない。はっきりと思い出せるのは、彼女のオレンジ色の髪留めの色だけだ。水色のプールバッグも持っていたっけ? いや、ピンクだったような気もする。
今まではっきりと覚えていると思っていたものは、ただの幻覚だった。無理やり彼女の顔を思い出そうとすると、僕が密かに想像していた、大きくなった彼女の顔と混ざり合って、ちぐはぐな顔になってしまう。
それでも夢を見ていた。
いつか彼女と再び出会って、その燃えるような瞳に射抜かれたまま彼女の歌を聴きたい。
小さな願いだった。叶いっこないなんて事実、考えなくてもわかっていた。それでも、捨てることはできない夢だった。
捨てられなかった。
だが、夢の方が僕を捨ててしまったらしい。
『歌うのが苦手って言ってた』
あの時の沙綾さんの言葉は、はっきりと僕を貫いた。
言葉は針だ。簡単に、少し使い方を誤るだけで人を傷つけることが出来る凶器。戸山香澄は、僕が振るったこの針によって、呆気ないくらい容易く傷ついた。
輝いていた彼女の姿の輪郭がぼやけてしまうことが多くなってきたが、彼女の涙だけは未だに鮮明に思い出せる。その痛みを、その涙を、今なら少しは理解できる気がする。理解したところで、もう遅いんだけど。
沙綾さんは、カスミ、とはっきりその名前を口にした。
もちろん、同じ名前なだけで全く別人の話をしていた可能性だってある。たまたま同じ街に住んでいて、たまたま好きなことが一緒だっただけの別人の可能性だって大いにあるわけだ。
だが僕は、沙綾さんが言っていたカスミが、僕の知っている戸山香澄であることを確信していた。
何か証拠があるわけではない。沙綾さんに問い詰めたわけでもない。だが、確信した。どう説明すればいいかわからないが自信があった。まるでまだ見かけたこともない彼女の輪郭をなぞったかのような、よくわからない安堵感。そして喪失感と絶望感。
戸山香澄がこの街にいるという事実は、少なからず僕を恐怖させた。もし彼女が僕を覚えていて、あの虐めに関与していた人間の一人だと知っていると考えると、恐ろしくてならなかった。
底知れぬ恐怖の崖の縁に寝転がっているような、実体はないが終わりのない恐怖に僕は囚われていた。このまま彼女と一生出会いたくないとさえ思ってしまう時もあった。しかし、それと同時に僕はいつか香澄に会うことになるだろうと、直感的にそう思っている自分もいた。
沙綾さんの友達であるカスミは、口下手で暗くて、歌うのが苦手な女の子らしい。僕の知っている記憶の中の香澄とは似ても似つかない、真反対の特徴だ。
もしあの日の涙がそれ以降の彼女の人生に大きな影響を及ぼしていたのならば、僕は一体どれほどのことをしてしまったのだろうか。一人の人間の人生を大きく狂わせてしまう罪ほどに大きな罪がこの世界にあるのだろうか。
彼女の涙の意味は僕にはわからないが、その涙の重々しさは理解しているつもりだ。あの涙によって、彼女の人生は狂ってしまったのだろう。
僕はそんなことも知らずに、自分自身で傷つけた彼女の歌に憧れていたのだ。なんという道化だろうか。なんという悪人だろうか。
心に根差した罪をこそぎ落とす方法がどこにあるのか、僕にはわからなかった。このままこの罪と共に人生を歩んでいくことに耐えられる気がしない。罪の重責に潰されてしまいそうだった。むしろ、潰されたかった。潰されてそれで終わるなら、一刻も早く潰されてしまいたい気分だった。
だが潰されない。日に日に自分が嫌いになるだけで毎日が終わってしまう。全部嫌いなままで愛されたがるだけの悪役に、生きる意味なんてあるのだろうか?
本当に救いようがない。僕は自分自身に呆れ返ってしまった。これも、茶番。
目の前には木製の机が広がっている。今日も俯いたまま一日が終わっていた。
無意識のうちに手に鉛筆が握られており、卓上に走り書きをしていた。
『ねえ、聞こえてる?』
馬鹿馬鹿しくて笑ってしまう。
沙綾さんは、自分の机の上に書かれたこの文章を通してカスミと知り合ったらしい。もしかしたら僕のこの問いかけも、香澄に届くのではないかと思って書いてみたが、冷静に考えると届くわけがなかった。消しゴムで走り書きを消すと、滲んだ醜い痣のようなものが机に残った。
沙綾さんからカスミという名前を聞いた日から、僕は無意識のうちに彼女の姿を探すようになった。街を歩いている時や、人混みの中、駅のホームにショッピングモールの中など。
どこでも人が多い場所に行くと、無意識のうちに辺りを見渡して、その姿を見つけようと試みた。しかしそのくせ、実際に花咲川の制服が目に入ったりすると、ぎくりと焦ってつい目を逸らしてしまう。
なんという間抜けだろうか。こんなの全くもって
五月も終わりに近づいていた。春の優しい暖かさは段々とじめじめとした湿気に変わっていく。それでも空は晴れ晴れとしていた。青一色の空に雲が流れている。
つまらない毎日だった。戸山香澄から切り離された僕という存在は全くもって無価値だ。となると、僕にくっついていると思っていた戸山香澄の幻想こそが、僕を僕たらしめていた根源だったのだろうか。だとすると、僕はなんて意味のない人間だろうか。
笑った顔は母親に似ていて、生きている理由は全て戸山香澄と直結している人生。本当に、くだらない。
なら僕の友人が見ていた僕は、沙綾さんが見ていた僕は、果たして誰なのだろうか。僕という存在は、他人からどのように見られているのだろうか。考えれば考えるほど僕という存在が薄れていく感じがした。
今までは、ぼんやりとだが香澄と会ったら何をしようかと考えていた。
何を話そう。何をして遊ぼう。どんなことで笑い合おう。
くだらない夢。馬鹿げた妄想。
しかしそんなことが楽しかった。
布団に入って眠るまでの短くて長い時間の中で、確かに僕は香澄と混ざり合っていた。混ざって、混ざって、次第に一つになる。そうすると僕らの境界線は薄くなっていく。そうすることで、僕は香澄の全てを理解した気になっていた。
だがそれは全て、僕の独り相撲でしかなかったようだ。
「好きです。付き合ってください」
そんなある日、クラスメイトに告白された。
目の前にはぺこりと丁寧に下げられた頭がある。彼女の旋毛は左回り、そんなことをぼうっと思っていた。
そこまで仲が良いわけではなかった。ただ友人やクラスメイトと遊ぶ際にたまに輪の中にいたクラスメイト、それくらいの印象だ。だから、一体彼女が僕のどこを見て告白してきたのかが全く謎だった。
「えっと……」
少しだけ困惑してしまう。僕は決して明るい人間でも、トークが面白いわけでも、気が利くわけでもない。そんな全てが平均以下の人間に注目する人物がいるとは全く思ってもいなかったので、少し疑ってしまう。
もしかして僕を揶揄したり弄ぶためにわざと告白するふりをしてきたのだろうか。
全く馬鹿げた想像だ。僕は頭を振ってそんな思考を振り払った。
「なんで僕に?」
「え、なんでだろう……フィーリング?」
なんとも馬鹿げた答えだろうか。告白とはそんな簡単に行えるものだったのだろうか。
困っている僕の顔を見て、目の前の彼女──名前は確か、
「それでさ、どうかな……?」
希望が、はにかみながら僕を見た。染められた茶髪が風で少し揺れた。僕の目を真っ直ぐ見つめる彼女の目は真剣なものだった。思えば誰かに目を見つめられるということは、僕の人生において初めてのことだったかもしれない。これまで、僕の目を真っ直ぐに見て僕のことを好きだと言ってくれた人間なんていなかった。
だが、僕は答えることができなかった。彼女から向けられる好意に、僕は返事をすることができなかった。
果たして、彼女は僕のどこを見て告白してきたのだろうか? 母に似ているこの顔だろうか、それとも父に似たあまり喋らない性格だろうか、それとも香澄に憧れて彼女を追いかけ続けていた、僕の生き方だったのだろうか。
彼女が告白してきた僕は、一体どの僕なのだろう。どの僕なら、誰かに好かれることができるのだろう、誰かを好くことができるのだろう。
好きと言われた、それは素直に嬉しいことだ。
だが、やはりわからない。僕は希望のどこを見て彼女のことを好きになればいいのだろうか。もし好きになれたとして、それは本当に彼女自身なのだろうか。僕みたいに、誰かに影響された彼女ではないのか。そう考えると、好き、という言葉の意味がよくわからなくなってしまった。
人を好きになるとは、一体どういうことなのだろうか。
「あー、えっと、保留でいいよ! 保留!」
黙り込んだ僕から何やら不穏な気配を察知したのか、希望がそう言った。彼女の目は本気だった。本気だからこそ、それに応えられない自分が情けなかった。
「いつでもいいから、わかったら教えてね!」
「うん、ごめん」
「いいって、いいって! いきなり告白したのは私だからねー」
希望の明るい笑い声は、少し陰鬱な五月終わりの空にからりと響いた。その笑い声は最後の五月らしさだったのかもしれない。
じゃあねと手を振って駆け出した希望の背中を見ながら、僕は彼女のことをぼんやりと思い出した。
そういえば、この前友人とカラオケに行った際に彼女も一緒に着いてきていた。随分と歌が上手くて驚いた記憶があった。一瞬、ほんの一瞬だけ、彼女と香澄が重なった気がした。
それでも僕は、彼女のことを好きになれそうにはなかった。
何かが違う、何かが足りない。頭の中で繰り返し呟くその声は、ひっきりなしに希望と香澄の相違点を提示してくる。
何が違うのか、何が足りないのか、それがわからないことが一番僕を絶望に陥れた。
五月の中途半端な空模様が、梅雨に押し出され僕の心に逃げ込んできたようだった。
ああ、本当に救いがない。俯いた僕の目の前の地面に、ぽつりと黒い模様が一つできた。