酷く気分が悪かった。雨雲が四方から集まってきて、ぽつぽつと雨が降り始めていた。
その中を、ぼんやりと歩いた。自分が雨に打たれているということすらも気づいてはいなかった。
なんだか頭がぐちゃぐちゃになってしまった気がする。
先ほど希望から告白されて、彼女の目を覗いてしまった時から、僕の心の中は曖昧で不安定になってしまった。
むず痒いような、それでいて痛みを伴うような倦怠感。なんだか不思議な気持ちだった。この感覚にいつまでも身を任せていたいと感じたかと思うと、次の瞬間には何もかもぶち壊して再びすべての感情をリセットしたいと思う。そのような、波のような感情に揺さぶられながら歩く帰路はどこまでも静かだった。鞄についたストラップの、かちゃかちゃ揺れる音だけ聞こえていた。
希望に告白された。文面に直すとこれ以上ないくらいにシンプルだ。ややこしくしているのは、僕の頭に他ならない。
未だにわからない。彼女は僕の何を見ていたのだろうか。僕には、所謂「僕らしさ」というものが存在していない。すべて誰かの真似をしている、出涸らし人間なのだ。彼女が僕を見て魅力に感じたものがもしあったのだとしたら、それは僕が誰かから受け継いだ、劣化した魅力であって、この世界にはそれ以上の魅力がたくさんにあるに違いない。だからこそ、彼女のまっすぐな瞳が理解できなかった。
通りのショーウィンドウに映る僕は滑稽なほどに惨めだった。香澄に会いたい。ぽつりとそう思った。
「会ってどうするんだよ」
雨音に掻き消された。声も、答えも。
一台の車が近くを走り去っていった。はね上げられた水飛沫が微かに頬を掠める。
あーあ。そんな声がつい出て、思わず笑ってしまった。何に対してのため息だったのだろうか。
どこまでも歩いて行きたい気分だった。そのくせ、今すぐにでも家に帰りたい気分でもあった。相反した感情が渦のように僕の中で蠢いている。
不意に、体をしとしとと濡らしていた雨が止まった。雨を弾く軽い音が辺りに響く。傘がさされていた。
「どうしたの?」
振り向くと叔父がいた。その顔が妙に懐かしく思えて、言葉が浮かばなかった。
「傘ささないと冷えちゃうよ」
そんな一言が驚くほどに暖かかく感じる。
叔父はヤマブキパンの紙袋を片手で抱えていた。彼の笑顔のふるさとは温かいパンの香りだ。その良い香りに、僕のぐちゃぐちゃになっていた頭も解されていく。
「少し、考え事をしてました」
「考え事をするならコーヒーを飲みながらにしよう。その方がいい」
雨は弱まっていた。傘を受け取る時に彼の指に少し触れた。ごつごつした、暖かい指だった。記憶の中に横たわっている父の手もこんな手だった。少しだけ頭の中の叔父と父の関係性が近づいた気がした。
二人で街を歩く。雨に沈んでいた街が、少しだけ賑やかになったようだった。
濡れそぼった僕を心配してか、叔父は頻繁に喋りかけてくれた。その優しさに感謝したし、実際考え事をしても答えが出るどころか混乱してしまうだけだったので、その心遣いはとても有り難かった。
しかし、笑顔で僕を見つめる彼の瞳は、希望のように真っ直ぐなものではなかった。
結局、彼も僕を本当に愛してはいないらしい。まあ、別に、いいけど。
喫茶マービンは今日も閉店だった。
濡れたままの姿で店を汚すのはダメなので、叔父にタオルを持ってきてもらった。白く綺麗なタオルで頭を吹いていると、頭の中にあった様々な問題たちも一緒に拭き取られた気分になれた。
叔父はアーモンドの鉢に水をあげていた。水やりをする横顔は優しく、そこには確かな優しさが見え隠れしている。
「コーヒー淹れるから、少し待っててね」
そう言いながらも、彼はコーヒーではなくレコードをかける準備をし始めた。彼の中ではコーヒーとレコードが一つにくっついてしまっているらしい。レコードはいつもと同じ、マーヴィン・ゲイのWhat’s Going Onだった。
ミルで豆を挽く音と、レコードのチリノイズが絡み合い、少しだけ店内の平安を掻き乱していた。しかしその掻き乱された平安こそが、この喫茶マービンの求めている平安であった。
服を替えるために自分の部屋に帰る。部屋に入る際に棚の上の聖書が目についた。この本を見るたびに、自分自身の心のうちにあった罪が刺激されるような気がする。人々を救うための本が、救う対象である人間の罪悪感を沸き起こすというのは、一体どういうことだろうか?
手早く服を替え階段を降りると、叔父が何やらコーヒーのための準備をしていた。
「シティローストでいい?」
よくわからないことを言っている。適当に返事をした。
砕かれた豆がペーパーフィルタに入れられる。電気ケトルが音をたてながら、お湯が沸いたことを知らせてくれる。コーヒーを抽出するのに一番適温なお湯を沸かしてくれる代物だと、叔父が嬉しそうに説明していた。
ペーパーフィルタの中の粉を平らにし、少しだけ真ん中を窪ませる。コーヒーを淹れるだけなのに、これほどまでしなくてはならないのかと、いそいそと用意をする叔父を見ながらそんなことを考えた。
ケトルのお湯を、窪ませた部分へとゆっくり注ぐ。すると、粉全体が面白いくらいに膨らんだ。それと同時に、今まではほんのりとしか感じなかったコーヒーの香りが、部屋中に広がった。
叔父は楽しそうに、
「新鮮だね、この豆」
と言った。何を言っているのか、僕には意味がよくわからなかった。
ぷっくらと膨らんだコーヒーの粉は、今か今かと次のお湯を待っているようにも見える。それなのに、叔父は全くお湯を注ごうとしない。むしろ楽しそうに粉が膨らんでいる様子を観察している。
レコードの音が一瞬止み、次の曲が再生された。
「それ、何してるんですか?」
「これ? 蒸らしてるんだよ」
「蒸らしてる?」
何気なく質問をしてみると、聞き慣れない言葉を返された。コーヒーを抽出とか、ドリップとかは聞いたことがあるが、蒸らすなんてことは聞いたことがなかった。
「こうやって膨らませてから抽出したら、もっと美味しくなるんだ」
「なんでですか?」
僕の質問には答えず、叔父がお湯を注ぎ始めた。ゆっくりと、円を描くようにお湯を粉に注ぐ。注ぐというよりかは、置く、と言った方が正しいほどに丁寧な手つきだった。
ぽたりぽたりと赤茶の雫がサーバーに落ちていく。ゆっくりと時間が進んでいた。
「ガスを抜いてるんだ」
「へ?」
突如、叔父が言葉を漏らした。その意味がわからず聞き返すと、叔父はお湯を注ぐ手を止めて。
「蒸らす理由でしょ? 豆に含まれてるガスを抜くと上手に抽出できたり、豆本来の味を出せたりするんだ」
「ガスを……」
「意外でしょ? 豆にガスが含まれてるなんて」
何となく膨らんでいる粉を見つめてみる。この中に粉全体を膨らませるほどのガスが含まれていたとは、到底信じられなかった。
「熱いお湯を注ぐことで、ガスが放出されるんだ。膨らみが大きければ大きいほど、豆が新鮮ってことなんだよ」
再びお湯を注ぎ始める。ガスが放出された後という知識を得たからか、濡れて深い茶色になってしまった粉は、お湯を注ぐ前よりも大人しく見えた。
「僕らも一緒だよ。悩みや問題がある時は、熱いコーヒーでも飲んで一休みすればいいんだ。そしたらガスも自然に抜けていって、落ち着けるだろ?」
目の前にコーヒーが置かれた。
これを飲めば本当に悩みのガスがなくなっていくのか、それは定かではなかったが、とにかく口に運んだ。熱すぎて、とても一口では飲めないようなコーヒー。
「なんか……この前飲んだコーヒーよりも、苦いような気がします」
「この前……ああ、あの土曜日の時のね。あの時よりもじっくり抽出したからね」
そう言って、叔父も自分のカップにコーヒーを注ぎ、ゆっくりと飲んだ。
「うん、フルーティだ」
コーヒーをフルーティと説明する味覚は僕にはよくわからない。もしかするとコーヒーを飲み続けていればそのうちわかるようになるかもしれない。
再びコーヒーを飲んでみる。深いコクと苦味と微かな酸味。どこにも果実らしさは感じられなかった。
なぜこのような苦味に瑞々しさを感じることができるのか。人生経験の差が成すものなのだろうか。このコーヒーをフルーティだと言える叔父ならば、僕が抱えている問題にも美しさを見出したりすることができるのだろうか。
僕にはできないことばかりだ。
コーヒーを再び飲んでみる。先ほどよりかは温度も下がっており、そのまま嚥下することができた。飲み込んだというのに、濃厚な苦味は口内に残り続けていた。
レコードはいつの間にか最初の曲に戻されていた。アルバムのタイトルにもなっている、What’s Going Onが静かに流れていた。
“Mother, mother”
“There’s too many of you crying”
曲の始まりの、疲れた囁き声のようなマーヴィン・ゲイの歌声が心を少しだけ締め付ける。
モンタージュのように、アルバムの中の笑顔の母の顔を歪ませて泣かせてみようと試みるが、うまくいかなかった。
叔父の中でコーヒーとレコードが繋がって不可分な存在になっているように、僕の中で母と笑顔は固く結びついてしまっていた。彼女には笑顔以外の表情が存在しないとさえ思ってしまっていた。
「この曲って、どういうコンセプトなんですか?」
叔父はとっくにコーヒーを飲み干して、ヤマブキパンで買った菓子パンを頬張っているところだった。
「What’s Going Onのコンセプト? 僕に語らせたら長いよ?」
何の宣告なのか、叔父は菓子パンを傍に置いて、二杯目のコーヒーで口の中を整理した。
「このWhat’s Going Onってアルバムは、社会情勢について歌った、画期的なコンセプトアルバムでね。貧困、差別、ドラッグ問題や反戦的な曲なんかの、まあ言っちゃえばあんまり話題に出しづらいようなトピックをアルバムにしたって感じだね」
「社会情勢……」
頭の中でマーヴィン・ゲイの顔を思い浮かべてみようとしたが、アルバムカバーの、冷たい雨に打たれながら遠くを見つめる、悲しみの混じった表情をの姿しか思い出せなかった。曲を書きながら、彼はこの世界を憂いていたのだろうか?
「アルバムのタイトルでもあるWhat’s Going On、今流れてる曲は、反戦曲だね。ベトナム戦争に行っていた弟から戦争の様子を聞いたマーヴィン・ゲイが、その苦しみと悲しみを歌った曲なんだよ。タイトルの通り、何が起きてるんだ? って感じだったんだろうね」
「この、最初の歌詞の部分は、どういうことなんですか? この母親は、何に泣いてるんでしょうか」
雨が再び強くなってきた。ガラス戸の向こうの通りには、人は一人もいない。どんよりと暗く厚い雲だけが見えていた。
レコードが静寂を奏でる。すぐに次の曲になった。
「Mother mother, のところ? これは戦地に送り出される息子のことを心配して母親が涙を流してるんだ」
「息子のことを思って、涙を流す?」
「そう、自分よりも大切なものを手放してしまう母親の辛さが、この一文に表れてるんだ」
息子のために涙を流す母親と考えて、僕の頭の中に浮かび上がってきたのは、教室で涙を流す香澄だった。
思えば、香澄も涙を流していた。静かに、それでいて激しく、激しく。
皆に揶揄われ悲しかったから泣いたと担任に説明されたあの涙。
僕にはその涙の意味が、今になってやっと理解できた。
香澄は自分が大切にしていたものを失ってしまったから、あの時涙を流していたのだ。生きて帰れるかわからない戦地に愛する息子を送り出す母親のように。
『わたしは、歌なんて好きじゃないです』
彼女が愛していたものを、彼女が大切にしていたものを、彼女自身で踏み躙ってしまったから──いや、僕たちが彼女に踏み躙らせてしまったから、彼女は耐えられなくなり、涙がこぼれ落ちてしまったのだ。
心が締め付けられる。息が上手くできない。僕たちは──僕は、なんてことをしてしまったのだろう。
罪深い人間、悪に塗れた人間。自分自身がただのシミに見えてしまうほどに、どうしようもなかった。涙が出そうだったが、少し堪えるとすぐに引っ込んでいった。
それはそうだ、だって僕は、何も失ってなんかいないんだから。
マーヴィン・ゲイの歌声が流れる。打ちのめされた僕は、静かにその曲に耳を傾けていた。
“And all he asks of us is we give each other love, oh, yeah”
河原で聞いた彼女の歌声。その歌声に魅了された。
“Don’t go and talk about my Father”
わたしは、歌なんて好きじゃないです。
“’Cause God is my friend”
泣きじゃくる声。立ち尽くす僕。油蝉の声。
“He loves us whether or not we know it”
うーん……人見知りで、歌うのが苦手って言ってた。
“He’ll forgive all our sins, oh yeah”
こんなの、生きてるって言わない。
こんなの、こんなの。