レコードとは、振動のアルバムのようなものだ。
僕らはいつも音を聞く。その音は、空気の振動が波となって僕らに届くもの。レコードは、簡単に言ってしまえばその振動と同じ形の溝を掘り、細かく振動する針をその上に乗せることによって、自分が出したい音を出すというものだ。
この街は、僕にとってレコードのようなものだった。僕が迷いながら歩くその道の上に、僕の見知った傷がある。その傷に触れた途端、僕の中で眠っていた記憶が鮮明に蘇るのだ。レコードのように、回りながらも、結局は同じ溝に行き着いてしまう。
母の記憶、父の記憶、その他の様々な記憶、そして香澄の記憶。僕の中に積もっていた多くの傷が、この街を歩く毎に苦しくも懐かしい痛みとなって心に襲いかかる。迷いながらも傷を閉じ込めていたこの心に……。
川面が煌めいていた。銀河の輝きを思わせる河川敷は、あの日と何も変わってはいなかった。もう夕暮れ時だった。
頬を撫でる風は少し雨の匂いがする。もうすぐ雨が降りそうだと黄金色の空を眺めながら思った。
僕の人生はここで変わってしまった。良くも悪くも、この場所で僕の人生は香澄と結び付けられてしまったのだ。
この感情を何と呼ぶのか、僕にはまだわからない。恋と呼ぶには汚すぎて、憧れと呼ぶには幼すぎる、この小さくも燃えるような感情。
土手を歩きながら、あの日のことを思い出す。あの日のことを思い出そうとするたびに胸の底を舐め尽くす痛みの炎が僕に纏わりついていた。
もしかしたら、香澄を傷つけたのは僕ではないのかもしれない。もしかしたら、香澄が歌うことを苦手と思い始めたきっかけと僕は何の関係もないのかもしれない。
しかし、そんなことはどうでもよかった。関係の有無に関わらず、今の僕には苦しみが必要だった。
誰かのための苦しみでも、社会のための苦しみでもない。苦しみが必要なのは他の誰でもない、僕なのだ。
悩み、悲しみ、苦しみ抜いた先に、この罪は赦され消えると僕は信じていた。犯してもいない罪を自白し、苦しみを受けようとしたミコールカのように、僕を痛めつけているこの苦しみこそが、僕を罪から解放してくれるものであると、心のどこかで思っていた。僕が犯した罪に対する罰は、ただ僕が苦しみ続けることなのだ。
Mercy, mercy, me. 僕は口の中で言葉を転がした。一体誰に向かって赦しを乞いているのだろうか?
ふと、部屋に置いてあった聖書に想いを馳せた。果たして神が本当にいるのなら、神は僕を赦してくれるのだろうか。このような罪に溢れ、それの本質に気づいてさえいない僕を、神は見捨てないだろうか。
しかし、もし苦しみ抜いた先に罪からの解放と赦しがあるとするのならば、聖書の意味はなんなのだろう。神の存在する意味とはなんだろう。
土手を進んでいくと、大きな橋が見えてきた。土手から階段を上がると、すぐにその橋を渡れるようになっている。しかし橋は通らず、その下を通り抜ける。少しだけ開けた場所になっている。
ここだ。ここで僕は戸山香澄の歌を聴き、彼女に圧倒されたのだ。あの日彼女の歌声を聞くために腰を下ろした石はもう見当たらないが、はっきりと、鮮明に思い出すことができた。
痛みの針が僕の傷をなぞっていく。彼女の歌声が、
夜が近づいていた。山の峰に溶けていく夕日は最後の光を僕たちに落としている。
帰ろう、そう思い橋に続く階段を登ろうとした──その瞬間だった。
姦しい声が聞こえてきた。橋を渡ってこちら側に来ている声は、何やら学校での話をしているらしかった。
その中ではっきりと、僕はこの耳で聞いた。
「──かすみんは、どう?」
かすみ、その三文字が聞こえてきた瞬間、僕の体は硬直した。勘でも当てずっぽうでもなく、はっきりと脳が理解した。これは、彼女を指すあだ名であると。この橋の上にいるのは、彼女であると。
須臾にして永遠の時間が僕の足を固めていく。一段目を踏んだ右足は、もう動こうともしない。段々と声が近づいてくる。かすみんと呼ぶ声は何度か聞こえてくるが、肝心の香澄の声は全く聞こえなかった。
歌うのが苦手って言ってた。
沙綾さんの言葉が僕の項を固くする。全身を固定されたまま、僕はただ彼女達が通り過ぎるのを待つことしかできなかった。
橋の下は既に夜になっていた。結局彼女達が通り過ぎた後も、僕は暫くの間動くことはできなかった。
怖かったのだ。彼女の瞳に貫かれることが。
苦しみの末に解放があると思っていたが、彼女の存在を実際に感じた瞬間、それが間違いであったことに気付かされた。僕が今まで正しいと思っていたことは、全て自己満足の馬鹿げた空想でしかなかったのである。
橋の上にいた彼女はどんな表情を浮かべていたのだろうか。
笑顔? 困惑の顔? 怒った顔? それとも……泣き顔? 泣き顔? なぜ涙なのだろう?
いけない、思考がぐちゃぐちゃになっている。頭を振り、階段を上る。夜は橋の上にまで及んでいた。香澄たちの後ろ姿はどこにもなかった。
もし彼女が、沙綾さんが言っていたように、本当に歌うことが苦手な、暗い性格の持ち主になってしまっていたらと考えると、本当に恐ろしかった。
なぜ性格が変わった香澄を見ることが恐ろしいのだろうか? 僕がしでかした罪を見せつけられることが怖いからか? 彼女に責められることを恐れているのだろうか?
いや、そんなことはない。もっと他に、根源的な理由が存在するはずだ。
まさか僕は──
遠くから、電車の走る音が聞こえてくる。薄暗い世界にいるのは僕一人だった。
頭がおかしくなりそうだった。いや、既におかしくなってしまったのかもしれない。
くだらない想像を頭から振り落とし、歩き始めた。橋を渡り少し坂を下ると公園が見えてくる。いつもは通り過ぎるだけだったが、どういうわけか、今日は公園のベンチで一息つきたい気分だった。
公園は薄暗く、誘蛾灯以外の光源はどこにも見当たらない。木で作られたベンチは湿気で少し湿っていた。
ベンチに腰を下ろし、息を吸い込む。土の匂いが近づいてきた。懐かしい匂いだった。
考えなくてはいけないことがたくさんあった。逆に、考えない方がいいこともたくさんあった。それらが混ざり合って余計に訳がわからなくなっていた。
何も考えずに無になってみる。なってみる、と言ってもそれはただぼうっとしているだけだが……。
過去や未来を忘れ、現在のことをほっぽりだしながら無になっている時間、僕は限りなく死に近付いているのだと思う。生と死の境界線がぼやけて滲み出す。
そんな仮死状態の僕の頭を、こつんと何かがつついた。振り返ると、手をぱくぱくと動かしている沙綾さんが立っていた。親指が下顎でその他の四本の指が上顎の得体の知れない生物は、続けてその口で僕の頬に噛みついてきた。
「や、こんなとこで何してるの?」
「沙綾さんこそ、何してるの?」
「噛み付いてるの。厄が落ちるかなーって」
「厄?」
そう、厄。と、沙綾さんは手をぱくぱくと動かしながら答えた。一体彼女は何をしているのだろうか。よく見ると、彼女の格好はいつもの私服ではなかった。
「学校だったの?」
「うん。ちょうどさっき終わってね。帰ってるとこ」
制服姿の沙綾さんは随分と新鮮だった。こうして見ると、彼女もただの高校生なのだとわかる。
「それで、厄って?」
「なんか暗い顔してたからさー。噛み付いて厄を落としてあげなきゃってことで」
「ありがとう?」
「どういたしました?」
会話が上滑りしているようだった。このようなくだらない会話を彼女は楽しんでいるようだった。
「実はさ、もうすぐ商店街で祭りをするんだけど、私それの獅子舞するんだよね」
「獅子舞……」
「いいでしょー。獅子舞に噛まれると厄が落ちるんだよ」
「あー、なるほど。だからさっきから噛みついてたのか」
「そう。厄落ちた?」
「どうだろう……」
噛まれただけで落ちる厄なんてこの世には存在はしない。だが、彼女と話しているうちに自分の悩み事が馬鹿馬鹿しく思えてきたことは事実だった。そういう意味では、沙綾さんの獅子舞はとても役に立ったのかも知れなかった。
「それより、こんな時間に何してたの?」
「帰ろうかなって思ってたところ」
「座りながら?」
「……ちょっと休憩してから帰る予定」
「おじいちゃんみたい」
くすり、と沙綾さんは笑った。ちらりと揺れた健康的なポニーテールは、梅雨の中に隠れている夏だ。
「あ、一番星」
空を見上げた彼女がぽつりと呟く。つられて空を見上げると、梅雨にはめずらしい雲ひとつない夜だった。一番星が公園の樹木の隙間から見えた。小さな、小さな、星。
「いいよね、星。見てるだけで気持ちいいし」
「……そうかな、私はそんなに好きじゃないな」
「なんで?」
「…………」
返事はなかった。僕らは黙って、一番星を見続けた。空ばかり見ていると、だんだんと自分の足が地から離れ、中空に浮いているように思えてくる。
視界の隅を鳥が横切った。
「ね、君は、宇宙に行ってみたいと思う?」
突如、沙綾さんに尋ねられた。
「宇宙に?」
「そう、宇宙。宇宙船に乗って、空を飛ぶの。それであの一番星までひとっ飛び。どう?」
「僕は嫌だな」
「そうなんだ……私も」
静かな夜だった。蒸し暑さが頸に溜まっている。沙綾さんを見ると、彼女の瞳は真っ直ぐに空へ向かっていた。誘蛾灯の優しい明かりがその瞳の中で輝いていた。
「昔、聞いたことがあるんだ。死んだ人は空で星になるって。けどそれって、嫌じゃない?」
「…………」
「見たこともない場所で、誰にも会えずにずっと光り続けるなんて、私は嫌だな」
彼女はどこか寂しげだった。その寂しさは、油断していると僕にまで伝染してしまいそうな妖しい寂しさだった。
「宇宙船だって同じだよ。ずっと目的もなく何もない空を飛び続けるなんて、かわいそう」
「それが宇宙船の生まれた目的じゃないの?」
「そんなの、生きてるって言わないよ」
その言葉に心臓を掴まれる。僕自身が否定された気分だった。
誘蛾灯に、一匹の蛾がぶつかり続けている。
「ねえ、ボイジャーって知ってる?」
「衛星、だっけ」
「探査機だね。太陽圏を飛び出して誰も知らない宇宙を旅し続けてる探査機」
「それがどうしたの?」
「ときどき考えるんだ。もし私がボイジャーだったら、って」
「自分がボイジャーだったら?」
それはまたおかしな妄想だった。自分自身を命の篭っていない機械だと想像することなんて、僕にはできないことだった。だが彼女の表情は真剣そのものだった。
「一人で宇宙を探査することだけを目的に作られて、もう何十年もひとりぼっちで宇宙を彷徨ってるんだよ。それってとっても、悲しいことじゃない?」
僕はその言葉に対する返答を持ってはいなかった。結局のところ、それをするために作られたのだから、当たり前のことだと感じたからだ。
「自分を作った人も、自分を応援してくれる人も、数十年のうちに死んじゃうかもしれない。それにずっと宇宙にいたら、みんなから忘れられちゃうかも。自分だってそのうち宇宙で死んじゃうかもしれないし……」
「死ぬことが怖い?」
「怖いよ。君は怖くないの?」
「怖いよ。怖い」
「そうだよ、死ぬのは怖いんだよ、とっても……」
彼女は死を極端に恐れているようだった。しかし、死を恐怖することは当然のことだ。だって死んだら、もう誰にも会えなくなってしまうのだから。
アルバムの中にしかいない母と父を思い浮かべる。結局、彼女はだんだんと忘れ去られることしかできないのだ。そう考えると、死や別れという存在がとても恐ろしいものに感じた。
「たとえば、みんなにとって一番大切な日に私が死んじゃったらどうなるのかな、なんて思っちゃうと、本当に怖くなるんだ。みんなと会えなくなるものもちろん辛いけど、それよりもみんなに迷惑かけて、それでそのうちみんなの記憶の中から私っていう存在が薄れていくんじゃないかていうことが、すっごく怖くなるの」
まるで雪によって地面が隠れるように、記憶というものは何か新しいものによってすぐに上書きされていく。
ふと、父と共に数年間住んだ土地のことを思い出した。
片田舎だったあの場所は、車で走っていてもしばらくの間畑しか見えないほどに寂れた場所だった。そんな畑道の端っこに、一つ大きな看板が立っていた。大きな舌を出してこちらを見るあの写真は、確かにアインシュタインのものだった。アインシュタインは滑稽な表情でこちらを見ており、その横に吹き出しで「広告募集中」と書いていた。
小学四年生の頃の僕にとって、アインシュタインとは広告を募集しているおじいさんという存在でしかなかった。
中学生になり、アインシュタインという人物を授業で習ってからも、どうしても僕の中では彼は広告を募集している人間だというイメージがこびりついてしまっていた。
死んでしまうということは、そういうことなのだろう。だんだんと人々の記憶の中から自分が消えていき、最終的には存在しなくなるか、曲解されたままその人間の中で生き続けるか。
もし僕がボイジャーで、誰に会うかもわからない宇宙に放り出され、何十年も旅をすることになったらどうなるだろう? 存在すら知られていない未知のものを発見するための、途方に暮れてしまうような旅に。
僕がロケットになる想像をしてみる。目的地はどこだろう? 僕は何を目的として、どこへ行けばいいのだろう? 何もわからない。コックピットには哀れなライカが乗っている。
何かから逃げるように、誘蛾灯を眺める。先ほどの蛾はすでにいなかった。
「そういえば、知ってた? ボイジャーには金色のレコードが搭載されてるんだよ」
不意に沙綾さんがそんなことを言った。レコードと聞いて、喫茶マービンの少し古くなったレコードを思い出した。
「レコード? 何のための?」
「地球の文化とかを伝える音が入ってるんだって。地球外知的生命体とか、未来の人類に見つけてもらってそれを解読してもらうために載せてるの」
「そんなことしてなんになるんだろう」
「さあ? 自分達がいたって証拠を残したいんじゃないかな」
なるほど、レコードというものは、過去を現在に持ってくるだけではなく、過去を未来に持っていくこともできるのか。そう考えると、レコードという存在がますます重要なものであるような気がしてくるのだった。
僕の中に存在するこの傷も、いつかは誰かに見せる時が来るのだろうか? 来るのだとすれば、それを解読する存在は、どう思うのだろうか。そんなことを考えると、ますます死ぬのが恐ろしくなってくる。
「それか、ボイジャー作った人のお気に入りの曲が入ってるのかもね! 異星人におすすめするために」
暗くなり始めた雰囲気を和やかにするためか、沙綾さんが明るい口調でそう言った。地球人のおすすめの曲を聞くタコのような異星人の姿を想像してしまい、笑ってしまった。
あ、そうだ、と沙綾さんが思い出したようにこちらを見て、言った。
「曲で思い出したんだけど、さっき言ったお祭りで、カスミちゃんたちがライブするんだって。見に行ってみたら?」
先ほどと同じ蛾が、誘蛾灯に戻ってきたレコードの針が僕の傷の上を滑っていく。先ほど頭の中で思い浮かべた香澄の表情が、次々と浮かんでは消えていった。
結局はレコードのように、同じ場所へ戻っていくんだ。そう呟いた僕は、自分自身の無力さを嘆くことしかできなかった。
ほっぺたにがぶってしてくれる山吹沙綾どこ?