「答え、決めてくれた?」
大雨だった。いくつもの大きな雨粒が校庭の土を穿っていた。
僕の目の前には希望がいた。その目は真剣なものだ。
ピロティの下で向かい合う僕たちは、帰宅する生徒たちからすればおかしな二人組に見えることだろう。しかし幸運なことに、大雨に遮られ、僕らの姿は誰にも見えていない。
答え、と彼女は言った。それはもちろん、この前の告白の答えなのだろう。
しかし情けないことに、僕はいまだにその答えを持ち合わせてはいなかった。希望のことを考えようとすると、必ずと言っていいほどに香澄の顔が現れるのだ。二人の顔が出てきた瞬間、この問題は僕にとって解決不可能な難題となってしまうのだった。
黙り込んでしまった僕を見て、希望が少しだけ悲しそうな表情を浮かべた──ような気がした。
本当に情けない。できることならすぐにでも答えてあげたいが、答えがわからない。好きと言われて、本当に嬉しいと思った。初めて僕という存在を見てくれる人間が現れたような気がして本当に救われた。しかしながら、彼女のことを好きかどうかと尋ねられたのなら、僕は答えに窮してしまうのだ。
「まだ、わからない?」
囁くように希望が尋ねた。手探りで探すようなその尋ね方に胸が痛んだ。
彼女はボイジャーだ。答えがあるかどうかわからないものを求めて何もない場所を彷徨い続ける、悲しい生き物なのだ。
だとしたら、僕も同じではないのか? 香澄に対する感情の名前を求めて、どこかもわからない場所をふらふらとしている探査機、それが僕だった。胸に秘めたレコードを見せる相手は見つからない。
「私のこと、好きじゃないの?」
「そんなこと、ない……好きだよ」
痛みに耐えるような声を聞いて、反射的にそう答えてしまった。好き、その言葉を使ったというのに、僕の心は全くと言っていいほどに動いてなかった。
多分、彼女もそのことを理解していたのだろう。好きと聞いても、彼女の表情は沈んだままだった。
どこかで雷が鳴っている。いよいよ雨は強まってきた。
桜の木は既に花を散らし柔らかな緑が生い茂っている。いつもは生徒の憩いの場となっている明るい木の下も、大雨に打たれ暗く沈んでいる。
希望はじっと、こちらを見つめている。光に照らされると明るい茶色になる瞳も、ピロティの下の薄暗い中では吸い込まれるような黒色だ。
「じゃあ、私のこと、愛してるって言える?」
「…………」
愛。その言葉は不思議な響きを持っていた。
様々な記憶が浮かび上がっては消えていく。
アルバムの中にしか存在しない母の笑顔、父の沈んだ顔、揺れるライカの尻尾、叔父の優しそうな顔、そして香澄の泣き顔。一体何が愛で何がそうでないのだろう。
僕らの間に浮かぶ沈黙を、雨音が削っていく。
何かを言おうとしても、言葉が出ない。口の中がカラカラに乾いていた。
希望は微かに笑っていた。それは、諦めの笑みだったのだろうか。
「じゃあね」
それだけ言って、彼女は踵を返した。大雨の中を、傘もささずに歩き去っていく彼女の後ろ姿を僕はただ黙って見過ごすことしかできなかった。
折り畳み傘を鞄から出す。
悲しみも、痛みも、こんな風に好きな時にだけ取り出せたらいいのに。
そんなことを思いながら、僕は雨のカーテンの中に入っていった。
愛とはなんなのだろう。僕は誰かを愛したことがあるのだろうか。
そう考えれば考えるほど、思考は泥沼へと陥っていく。結局のところ答えなんて出ないのだ。
商店街は閑散としていた。静かな道を一人歩いていると、心の内で響く寂しさの音が聞こえてくるようだ。古びた自転車に乗ったおじいさんが、僕の横をすり抜けていった。車輪が軋む音に、寂しさの音はかき消された。
「屋根あるじゃん……」
今更気づいたが、拱廊状になっている商店街のおかげで傘をさす意味は全くなかった。
雨粒がコンクリートと激突する音が遠くから聞こえてくる。自転車のけたたましいブレーキ音が響く。それ以外の音は商店街に存在していなかった。
商店街を通り抜けて暫く歩くと喫茶マービンに着く。珍しく今日は店を開けているようだ。
ドアを開けると、ベルの音が店内に響いた。コーヒーを淹れている叔父と、カウンターに座る一人の女性が見えた。
「あ、おかえり」
カウンターに座る女性は特に用事もなさそうにコーヒーを淹れる叔父を見つめていた。
ただいまと返事だけをして、部屋に戻る。
やけに疲れていた。今すぐぐっすりと眠りたい気分だったが、そういうわけにもいかない。荷物を置き、床に座る。何かが手に触れた。それは本棚から落ちたであろう聖書だった。
何を思ったのか、それを手に取ってみる。ずしりと重い、紙以上の何かが詰まっている重さに驚いた。
部屋の電気をつけて、ページを捲ってみる。小さな文字がずらりと並んでいる。
開いたはいいものの、僕は聖書についての知識も全くと言っていいほど持っていない。どこを読めばいいのか、また何から読めばいいのかも全然知らないのだ。
パラパラと適当に開いて読んでみる。するとある一箇所に目を奪われた。
“愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることがない。しかし預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう”
「愛……」
ここに書かれていることが愛なのだろうか。だとすれば、この世に住む全ての人はこのような感情を抱いて生きているというのか。
さらにページを捲っていく。今まで見たことのないような言葉が、いくつも書かれていた。それらは僕の視界を少しずつ広げてくれるような気がした。
以前、この小さな部屋が懺悔室のようだと考えたことがあるが、それは間違いだった。
ここはコックピットだ。
愛という、どこにあるのかわからない物を探し続ける僕を収容する、小さなコックピットだった。僕はここに知らず知らずのうちに閉じ込められ、目的のわからぬままに無限よりも広い言葉の海の中を彷徨い続けている。ボイジャーのように、ライカのように。
「愛……」
再び呟いてみる。得体のしれない力を持っているその単語は、やはり僕を目的地へと導いてくれるものであるような気がした。
目的地はどこだろうか? 残念なことにそれがわからなかった。
もしここに書かれているものが愛なのだとするのならば、僕は
だが香澄はどうなのだろうか? 僕は香澄対し、これほどの感情を持っているのだろうか? そもそも、この愛というものは何に対する愛なのだろうか。
「晩御飯、出来たよ」
うんうんと唸っていると、叔父の声が聞こえてきた。どうやら数十分以上も悩み続けていたらしい。
階段を下りる。先ほどの客は既に帰っていた。
テーブルの上には相変わらずオムレツが置いてあった。ケチャップで『元気出して!』と書いてある。何の元気を出せばいいのやら。
「コーヒー飲む?」
「あ、飲みます。ありがとうございます」
今日は珍しく、店内にレコードは流れていなかった。
暫く待っていると、叔父がコーヒーを持ってきて僕の目の前に置いてくれた。香ばしいコーヒーの香りが、ケチャップの酸っぱい匂いと混じり合う。
「いただきます」
レコードの音がない店内はやけに静かに思える。窓を叩く雨粒の音だけが響いていた。
「美味しいね」
叔父はやけに機嫌がよかった。機嫌が良い、といっても表情などはいつもと同じだ。ただ、わかる。言葉や表情では言い表せない何かが、叔父と僕の間で共有されていた。
窓枠の中が一瞬光り、数秒置いて大地が震えるような音がやってくる。雨は更に強くなっていた。
「随分近くに落ちたんじゃない?」
雨が吹き込むのも構わずに叔父が窓を開ける。雷の残滓はどこにも見当たらないが、サッシ枠に当たり砕けた雨粒が水飛沫となって入ってくる。
「大丈夫かな」
窓の外を見ながら叔父が呟いた。一体誰の心配をしているのか、まあ、大体予想はついた。
箸が食器に当たる音がレコード代わりだった。レコードの音がないだけで、僕と叔父はまるで別人のように気まずくなるのだった。
気まずさを拭うために、わざと明るい声を出してみる。
「そういえば、僕の部屋にある聖書は誰のなんですか?」
「聖書? ……ああ、あれか。僕のだよ。昔買ったんだけど、結局読まずに物置部屋に置いちゃってた」
恥ずかしそうな顔を浮かべた叔父は、誤魔化すかのようにグラスに注いであった飲み物を飲んだ。多分、ワインだと思う。
「マーヴィン・ゲイがクリスチャンだったって聞いたから気まぐれで買ったんだけど、僕には早かったね」
「早いとか遅いとかのものなんですかね?」
「読んだの?」
「読みました。全く意味がわからなかったですけど」
「確かに」
楽しそうに叔父が笑った。酔いのためか、少し顔が赤い。どこを読んだの? と聞かれたので、先ほど読んだ箇所を覚えている限り口に出した。
「あー、そこか……どこだっけ?」
「えっと、かりんとうみたいな」
「……ああ、コリントか」
「愛って、なんなんでしょう」
哲学的だね、と、叔父は優しそうな笑みを浮かべて窓を眺めていた。愛を知っている顔だった。
「叔父さんは、説明できますか?」
「難しいな……まあ強いて言うなら、生きる意味、だね」
「生きる意味……」
「そう。マーヴィン・ゲイもそう言ってる。
叔父の言葉や思想は全てマーヴィン・ゲイと繋がっている。だとすれば、本当の彼はどこにいるのだろうか。彼は母や香澄の搾りかすのような僕と同じなのだろうか。
だとするのならば、二番煎じである人間も、愛があればそれだけで生きていけるのだろうか。
僕には何もわからなかった。
「わからない、って顔してるね」
「…………」
「誰かを愛したことがないの?」
「……ない、と思います。叔父さんはありますか?」
やけに小っ恥ずかしい会話だった。こういった話題に興味を持っていると思われたくないという思春期特有の思考も頭の中にあったが、それよりも聞かなければならない答えがあるという思いが強かった。
叔父ははにかみながら、
「まあ、人並みにはあると思うよ」
と答えた。
(この人の中に僕に対する愛は残っていないんだな)
既に二人とも食べ終わっていたが、不思議と部屋に帰ろうという思いはなかった。
「愛ってどういうものなんでしょう」
「コリントの愛は僕らが考えている愛とはまた違う愛だよ。あれはアガペーの愛、まあ神が人間に向ける無償の愛みたいなものだからさ」
「僕らが一般的に言う愛はなんなんですか?」
「エロスの愛」
「…………」
なんだかエロスと言われると、愛と呼ばれているものが一気に世俗的に感じた。穢らわしいとさえ思ってしまった。
「エロスっていっても、ただ単に性的な愛ってわけじゃないよ。愛っていうのは浅いように見えて実は深いんだ」
「じゃあ、叔父さんが考える愛を教えてください」
その言葉に、叔父がぴたりと止まる。
僕はマーヴィン・ゲイでも聖書でもなく、叔父の意見を聞きたかった。彼が体験した愛、そしてそこから学んだものや感じたことを全て僕に教えて欲しかった。
「僕がかぁ……難しいなあ」
「…………」
「僕が考える愛は、自分を変えてくれるものだと思うな」
「変えてくれるもの?」
「そう。誰かを愛したり何かを愛するっていうことが、自分を変えることに直接的に繋がるんだ。何かのために自分までも変えようとする、これが愛じゃない?」
それが、叔父が考える愛なのだろう。彼は何かを愛し、そのために自分を変えた経験を持つのだろうか? だとするのならば、その結果はどうなったのだろう。彼が注いだ愛の行く末はどうなったのだろう。
僕の考えを汲み取ったのか、叔父は言葉を続けた。
「愛はその人がいる時にだけ続くものじゃないんだ。その人がいなくなっても、ずっと自分に影響を及ぼす存在……それが愛だと、僕は思うな」
「……いなくなっても」
「そう。愛する存在であるマミー・テレルを喪ったマーヴィン・ゲイが、彼女の死をきっかけに新たな音楽の扉を開いたように、愛の前では別れなんてものは意味を持たないんだ」
「…………難しいです」
「難しいよ、難しい。僕だってはっきりはわかってないんだから」
「愛していた対象がいなくなっても続く愛なんて、あるんでしょうか?」
「僕は信じてるよ」
自分が変わってしまうほどの、または変えようと思えるほどの愛……。
やはり僕の頭の中に浮かび上がるのは、香澄だった。
思い出せば、僕の生き方が根本から変えられたのは、彼女の歌を聞いたあの日になるのだろう。
彼女の歌を聴き、また彼女の涙を見、彼女から離れた後も、それを忘れることはできなかった。
彼女が歌っていた歌を歌った。彼女ならこうするだろうと、想像上の彼女の行動を真似した。僕の言動の全ては香澄とどこかしらで繋がっていたのだ。
(そうか、僕という人生は、香澄に出会った日からとっくに変えられてしまってたんだ)
「愛……」
小さく呟く。その言葉の手触りの中に、確かに香澄の存在を感じた。
(ああ、やっぱり僕は香澄を愛してたんだな……)
しかし、今更気づいたところで、もう手遅れだ。ずきりと胸が痛んだ。
一瞬のうちに目頭が熱くなり、一筋だけ、たった一筋だけ涙が流れた。この涙の跡が傷跡となり、いつの日かレコードの溝になるのだろう。
雨は未だ止む素振りを見せない。
アーモンドの花は、かろうじて枝に繋がっていた。