目を覚ますと、夏が来ていた。
昨日までの大雨は消え去り、地面に残る水たまりだけが雨の記憶をのこしている。
開け放たれた窓からは静かな熱気がしのびこみ、湿気と混じりあって居心地の悪い空間を作り上げていた。
「あっつ……」
呟いたところで涼しくなるわけなどなく。夏の到来に僕は静かに目を閉じるのだった。
遠く、地平線の向こうから潮騒のような音が聞こえてくる。蝉の声だった。汗が一筋こめかみを流れていった。
夏の始まりを感じさせる今日という日は、商店街で祭りが開催される日でもあった。つまり、香澄が皆の前でライブをする日というわけだ。
「You ain’t livin’ till you’re lovin’……」
宙に浮かんだ言葉は、風鈴のような音がした。
全てが虚しい気がした。愛によって得られると思っていた答えは、更なる混乱を僕にもたらしただけだった。
香澄を愛していたのだと思った。しかしよく考えると、それはおかしい話なのだ。
僕が香澄を愛しており、彼女のために自分を変えたのだというのなら、不可解な点が一つ出てくる。それは僕の現在の感情だ。
もし僕が小学四年生の頃に香澄を愛し始め、彼女のために生きてきたというのなら、なぜ僕は香澄に会いたいと、この瞬間にも微塵たりとも感じないのだろうか。
いや、感じていたはずなのだ。この街に来てから僕は心の隅で香澄に会うことを望んでいたはずだし、その感情と向き合ったこともある。
しかし今はどうだろう。そういった気持ちは全く消えており、むしろ彼女に会いたくないとすら思っていた。それはいつからだろうか。
はっきりとわかる。沙綾さんから、今の香澄について聞いてからだ。
沙綾さんから聞いた香澄の情報は、僕から彼女に会いたいという気持ちを削ぎ落とすのにじゅうぶんすぎるものだった。
何が僕の感情を変えてしまったのだろうか。もし彼女を愛しているのならば、その愛はどこへ行ってしまったのだろう。
僕が彼女に対し罪を犯したからだろうか? いや、違う。それだけではない。
いい加減認めてしまおう。
僕は、戸山香澄が変わってしまったという事実から逃げ出したいだけなのだ。
僕の記憶の中で今も色褪せず輝き続けている戸山香澄が、変わり果てて劣化してしまっているのではないかという想像が、僕を怯えさせている。
楽しそうに歌っていた香澄と、人を恐れて歌えなくなった香澄を同一人物として扱いたくない。そんな人間、戸山香澄ではない。そんな自分勝手な思いが、彼女に会いたいという気持ちを殺してしまった。
僕が今香澄に会ったとして、彼女が沙綾さんが言っていた通りに暗く人見知りで歌えなくなっていたとしたら、僕は今までと同じ感情を持って彼女に話しかけられるだろうか。
枕に顔を埋める。息苦しく暗い世界が広がる。僕だけの世界だった。緩やかに死んでいく世界では油蝉の鳴き声が響いている。
果たして僕は戸山香澄を愛していたのか、それとも彼女を愛していると思い込んでいる自分を愛していたのか……考えれば考えるほど、思考は凝り固まっていく。
悩みの中に沈んでいるうちに、再び眠気が襲ってくる。責められるような暑さのなか、僕は再び眠りに落ちた。
これは夢だ。目を開けた瞬間、そう気づいた。
僕の目の前には香澄が立っている。彼女はギターを持っており、やぐらのような小さなステージの上から僕を見下ろしていた。
夢ではあるが、今目の前にいる香澄は現実の香澄と全く同じであると、なぜか僕には理解できる。僕が勝手に作り上げた想像上の香澄なんかではなく、実際に存在して、今もライブのためにギター練習をしているであろう香澄が目の前にいた。
彼女は独りでやぐらの上に立っている。ギターを持つ手は震えていた。
「……いて……い。…………です」
緊張しているのか、か細い声は震えており、僕のいる場所にまで届いてきていない。顔は真っ赤で、目には涙を溜めている。
(なぜ堂々としない? なぜ自信を持って歌わない? なぜ……)
涙目の彼女を見て、同情でもなく、憐憫でもなく、怒りが湧いて出てくる。僕が知っている香澄はこんな哀れな人間ではない。僕が憧れた香澄は、こんな惨めなものじゃない。
これは誰だ。これはなんだ。誰が彼女をこんな風にした? 僕か?
全てに怒りが湧いてくる。僕を捨てた母に、僕を愛さなかった父に、見せかけの愛しか持たない叔父に、香澄のことを知らせてきた沙綾さんに、震えて歌えない香澄に、そして変わり果てた香澄を愛することができない、僕自身に。
僕が彼女の歌を聴いた時に抱いたあの感情が愛だとするのなら、一体その愛はどこへ行ったのだろうか。僕の中で一体何が起こっているというのか。愛が枯れて萎んでいく。
(こんな香澄、存在しない方がマシだ)
もし彼女が変わり果てていると知らなければ、僕の中の戸山香澄は今も変わらず人を惹きつける歌で僕を魅了する、僕の人生そのものだったはずだ。
だというのに彼女は変わった。変わってしまった。
今の香澄に魅力なんてものはカケラも存在していない。こんな彼女、いっそのことズタズタに引き裂いてしまいたかった。
衝動的な感情に突き動かされる。やぐらの上に乗った僕を、香澄はただただ怯えた表情で見つめていた。
手を振り上げる。ギターを持った香澄は手で顔を防ぐこともできない。ただ、ギターのボディに置いていた右手を少しだけ持ち上げたが、それも顔よりはずっと下の方だった。
手に持っているものはなんだろうか。斧だった。
斧? 僕は斧で何をしようというのか。
まさかこの斧で──
あまりの悪夢に飛び起きた。
心臓は激しく脈打っており汗で全身がびっしょりと濡れていた。そのくせ寒気が体中を走り回って、頭はずきずきと痛んだ。
恐ろしい夢だった。思い出すだけで体の芯から震えてくるような、嫌な夢だ。
しかし恐ろしい理由は、ただ内容がひどかったからというだけではない。この夢を見たことによって、はっきりと理解したからだ。
僕が香澄に抱いていた愛はとうに消え去ってしまった。しかもただ消え去っただけではない。ただ消えただけならばどれほど良かっただろう。
夢の中で僕は変わり果てた香澄に怒りを抱いた。こんなの香澄じゃない、こんなのが香澄なわけがないと。
そして夢から覚めた瞬間、僕は悟ったのだ。この感情は夢の中だけのものではないと。夢の中であろうとなかろうと、僕は変わり果てた香澄を許すことができない。
何かから逃げるように部屋を出る。フローリングの冷たさが全身にまで及ぶようだった。
叔父は家にいなかった。どうやら僕が二度寝している間に出掛けたらしく、喫茶マービンの一階は暗く静かだった。誰もいない喫茶マービンは埃のにおいがした。
いつもは悲しげな音を鳴らしているレコードは、綺麗に掃除され蓋を閉められている。ふと、アーモンドの花が散っているのが見えた。
僕の手元には何も残ってはいなかった。
十五時を回っていた。ガラス戸の向こうに見える輝いた世界は、薄暗い喫茶マービンと断絶されているように思える。
通りに出ると茹だるような暑さが旋毛を焼く。夏の暑さで梅雨が焼け消えていた。人々は日傘に掴まりながらなんとか影の中で生きていた。
なんとなく人通りが少なく思えるのは、やはり頭の中に過ぎる商店街の祭りの存在のせいだろうか。
小さな街の小さな祭りだ、そんな人が集まることはないだろうと思いながらも、僕の足は商店街へと向かっていった。
わたしは、歌なんて好きじゃないです。そう言った彼女は、一体どのような顔でライブをするのだろうか。足を一歩踏み出すたびに心が重くなっていくようだった。
いつの間にか僕の中の戸山香澄は涙の人間になっていた。太陽のように輝き僕に光を落としていた河原での彼女はぼやけて滲み、その代わりに夢で出てきた、やぐらの上で震えながら僕を見る香澄が浮かび上がる。
今や僕の中での戸山香澄を戸山香澄たらしめるものは涙以外の何物でもなかった。彼女は涙で、涙が彼女。本当に腹立たしい。
『人間、泣かなくちゃならない理由なんて本質的にないのだってことを論理的に説得さえすれば、泣くのをやめるんです』
これは誰の言葉だったか。もう忘れてしまったけれども、そんな風に割り切れるなら生きていくのはなんと容易いことか。
涙は人を強くするなんて言葉は詭弁だ。僕は香澄の涙によって全て狂わされて、香澄自身も僕たちに嘲られ流した涙によって、癒えない傷を負ってしまった。
もし涙を自分で操ることができるのだとしたら、今僕らが生きている意味なんてものは存在しなくなってしまう。
僕らは涙によって歪んで、歪んだままここまで生きてきたのだ。
商店街に近づくにつれ、どんどんとすれ違う人が増えてきた。小さな商店街は夕方になる前だというのにかなり繁盛しているようだった。ふらりと立ち寄ってみたが、ヤマブキパンは臨時休業だった。よく見ると、ほとんどの店が閉まっていた。
さらに商店街を進んでいくと、少し広い道になってくる。いつもは自転車やゴミが放置されているだけのスペースだったが、今日は道の左右に屋台が並んでいた。とはいっても所詮は小さな商店街なので、店の数は二十もいかないほどだったが。
日曜日だからか学生が多く、屋台を冷やかしていた。ちりんと、屋台につけられていた風鈴が夏を知らせる。射的の前で小さな男の子が泣いていた。
なんだか居心地が悪い。僕は踵を返し来た道を引き返し始めた。ふと、屋台の前にいた一つのグループが目の端に映った。
たこ焼きの屋台の前で楽しそうに談笑しているグループの一人、横顔しか見えないが、確かに希望だった。Tシャツにジーパンと、ラフな格好でたこ焼きをつっついている。
余計に居心地が悪くなり、逃げるようにその場を去った。情けなくて仕方がない。
何をするでもなく商店街付近をうろついていると、いつの間にか十八時になっていた。商店街の小さな広場に設置されたスピーカーがノスタルジックな音楽を流していた。だんだんと日は傾いて、地面で息を潜める僕の影は音もなく長くなっていく。
再び屋台のある道へ戻る。既に希望はいなかった。代わりに先ほどよりも多くの学生や子供たちが屋台に押し寄せていた。
たこ焼きの屋台の目の前を通る時にむっと熱い空気を感じた。夏だった。
ヤマブキパンの屋台も見えたが、沙綾さんはいなかった。以前見た時よりも心なしか元気になった中年男性(沙綾さんの父だろう)が、大きな笑みを浮かべながら客にパンを渡している。その笑顔は沙綾さんが見せるものとよく似ていた。
笑顔が、似てる。その言葉を聞かなくなってから、もうかなり時が経った。僕と母の似ているところを知っている人間はもう叔父しかいないだろう。
それならば大丈夫だろう。叔父はもはや僕の笑顔や母のアルバムになんて興味もないはずだから。
喜んでいいのかわからない。だがしょうがない。愛って、そういうものだから。
屋台のある道を通り過ぎしばらく歩くと小さな空き地に着く。そこがライブ会場だった。今は商店街の会長らしき人物が頑張って練習したであろう手品を一生懸命に披露している。だが悲しいことに見物人はわずか数人だ。
いよいよ日が暮れてきた。
どこかでカラスが鳴いた。
ぱっと、吊るされていた提灯が一斉に明かりを灯した。
僕は空き地の入り口に隠れるようにして、ステージを見つめていた。夢で出てきたものととてもよく似ているやぐらだった。
会長がステージを降りる。眠そうな拍手が彼を迎え入れる。
静かだった。真っ赤な空に太陽が溶けている。
小さな足音の群れが聞こえてきた。次々と運び込まれる楽器とマイクたち。小さなライブ会場は、たった数分で出来上がった。
ついに演奏者たちがステージに上がる。
四人の少女たちがステージに立ち、それぞれの楽器の位置へ歩いていく。
しかし僕の視線は、たった一人に固定されていた。
(香澄……)
ステージに立ち、観客席をじっと見つめる彼女の輝く瞳は、河原で見たあの時のものと全く同じだった。
香澄が小さく咳払いをする。マイクを通して聴く彼女の咳払いは、記憶の中の声より少しだけ大人びて聞こえた。
「ねえ、みんな! 一緒に
ライブが始まった。