「ねえ、みんな! 一緒に
その高らかな声を聞いて、僕は瞬時に理解する。
彼女は僕が知っている香澄だ。僕が憧れ、僕が愛し、僕の人生になった香澄だ。
重く沈んだ暑さを吹き飛ばす音が夕暮れの空に響く。
数少ない観客の眠気を切り裂いた音は、衰えることなく続いていく。軽やかなキーボードに重く響くベースの音、そしてそれらをかき混ぜるようなギターの音が、夏の籠った空気をさらに濃いものへと変えていく。
音が溢れ流れ込む。沈黙から解き放たれた爆音は、恣に空き地を荒らし、人々の心を惹きつけていく。
全ての音が最高潮に到達する。香澄たちが、ちらりとアイコンタクトを交わした。次の瞬間、音が止んだ。耳が痛くなるような一瞬の沈黙が一瞬流れ、今度はその沈黙が最高潮に到達するかしないかのタイミングで、四人は再び音を奏で始めた。今度は無秩序な音の洪水などではなく、れっきとした曲のイントロだった。
どこかで聞いたことがある曲だ。しかし思い出せない。
すると空き地の近くにいた子供たちが、そのイントロを聞いて目を光らせながら走り始めた。釣られるように他の子供たちも空き地に雪崩れ込む。
子連れの母親や、微笑ましい光景を見にきた商店街の人々も集まってきた。
あっという間に小さな空き地は人でいっぱいになる。香澄はその人々の真ん中で煌めいていた。
思い出した。香澄たちが弾いている曲は、今子供たちの間で流行っている幽霊メダルのオープニングだ。
「みんなー! 最高のメダルがほしいんでしょー!」
香澄が観客に向かって問いかける。子供たちによる返答がくるが、あまりの熱狂ぶりに何と言っているのか全く聞き取れない。だが、子供たちが夢中になっているということだけははっきりとわかる。
彼女の声を聞き、思い出の表面が撫ぜられていく。そういえば、彼女はこんな声をしていた。そういえば、彼女はこんな顔だった。そういえば、彼女はこんな髪型をしていた。
彼女にはえくぼがなかった。
沙綾さんに言われていた、人に怯え歌を歌うことをに苦手意識を持っている香澄など、どこにも存在などしていなかった。
そこに存在していたのは、圧倒的なカリスマをもって一瞬で子供たちのアイドルになった、僕が愛した香澄だった。
あまりの興奮にじっとしていられなかったのか、一人の子供が飛び上がって踊り始めた。すると一人、もう一人と踊り始め、ついには空き地にいる子供全員が飛び跳ねながら踊り始めた。
子供たちの歓声が提灯を震えさせる。熱気の渦が人々を飲み込み、空き地の外にいる僕にまで届いていた。
ふと横を見ると、獅子舞が立っていた。
(沙綾さんか?)
獅子舞は、何をするでもなく、ただぼうっとステージの上で輝く四人の少女たちを見つめている。彼女の胸の内では、レコードが回り続けている。彼女は自らの内に秘めていた黄金のレコードを見せる相手を、やっと見つけたのだ。
香澄の動きに合わせて宝石のような汗が飛んでいる。派手なスポットライトに照らされた彼女は、太陽のようだった。
空には一番星。誰も消せない光を、静かに夜空と共有していた。
何かを求めて宇宙を彷徨っていたライカは今、愛を見つけ着陸した。
幽霊メダルのオープニングが終わると、今度はポップで可愛らしい曲を弾き始めた。この曲は僕も知っている。『オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ』だった。
聞いたことのない曲だというのに、子供たちは未だに興奮冷めやらぬままに叫び続けている。燃え上がった炎が消えるのには時間がかかるのだ。
子供を後ろから見守っていた大人たちは曲がわかっているので、懐かしさに頬を緩めている。
“Ob-la-di, ob-la-da, Life goes on, brah La, la, how the life goes on”
”オブラディ・オブラダ 人生は続く。ラ・ラ・人生は続いていく”
香澄たちが奏でる曲の中で、僕らは一つになっていく。溶け合って、溶け合って。
僕はただ、香澄によって叩きつけられた愛に打ちのめされて、佇むことしかできなかった。
誘蛾灯がついた。
気づけばライブは終わっていた。
ライブが終わっても、人々の興奮は冷めやらない。空き地を出る人々の顔は興奮で赤らんでおり、汗が彼らを美しく彩っていた。
ステージの上には、もはや何も残っていない。人々の熱気だけが、忘れ去られたようにうねっていた。
しばらくの間、動けそうになかった。すれ違う人々は皆笑顔だ。今日のこのライブは、ここに集まった観客の宝物の一つになるのだろう。
十分もすると空き地は空っぽになった。どこかで花火が鳴っている。浴衣姿の子供が一人、屋台へ続く道を走っていった。水ヨーヨーと団扇を一緒に握る右手には、夏の楽しさが詰まっている。
どこまでも続く静寂の中、何となく自分の鼓動に耳を澄ませてみる。力強い、心臓の音。
「Ob-la-di, ob-la-da, Life goes on, brah La, la, how the life goes on……」
人生は続く。僕はこれからも歪んだまま、歩き続けるんだろう。
大きな花火が鳴った。心臓も鳴っていた。
帰ろう。そう呟いて、歩き始めた。
屋台へと続く道を歩いて、しばらく行くと先ほどまで僕が時間を潰していた広場が見えてくる。
そこに、香澄はいた。
何をするでもなくただ夜空を見上げる香澄は、なんだかひどく大人っぽく見える。
近づいても、香澄は僕に気づいてはいなかった。彼女の瞳の中には星が瞬いていた。もうこんなに星が多くなったのかと、その瞳を見て初めて気がついた。
彼女が放っておけばそのまま消えてしまいそうなほどに儚く見えたためだろうか、僕は無意識のうちに、声をかけていた。
「あの」
「……え?」
急に声をかけられたからだろうか、香澄は驚いた表情でこちらを見た。
彼女の瞳を覗き込む。彼女も僕を見ていた。
「さっきのライブ、すごくよかった、です」
「え、あ、ありがとうございます……」
そんなありふれたことしか言えない僕に腹が立ったが、それよりも、長い時を経て再び香澄と喋っているという事実が僕には到底信じられないようなことに思えた。
どうやら香澄は僕のことを覚えていないらしい。それはそうだ、小学生の時のクラスメイトだなんて、覚えている方が珍しい。
香澄は知らない男から声をかけられたためか、少しだけ警戒しているようだった。
気まずい沈黙が流れる。何か喋ろうとして、それでも声は出てこなかった。
「え、と……ギター、すごくかっこよかった。なんか、プロって感じで……」
「あ、ありがとう……」
「えっと、ぼ、俺、ギターやりたくてさ。すごい、憧れたっていうか……」
僕は何を喋っているのだろうか。思ってもいない言葉が、つっかえながら口から転び出る。顔がかあっと熱くなって、心臓はどきどきと早まり始めた。
僕の言葉に、香澄の顔が明るくなる。
「ホントに!? 楽しいよ、ギター! 最初は指が痛くなるかもしれないけど、スリーコードの曲が弾けたらすごく楽しいし、エフェクターを繋いだら色んな音が出るんだ!」
ぎゅいーんとか、ぎゅおーんと言った擬音を駆使しながら、香澄はギターの素晴らしさを僕に滔々と教えてくれる。
キラキラと輝く彼女はあの日と変わらない。視線は無意識に、彼女の頭に向かう。オレンジの髪留めは見当たらなかった。
当たり前だ、彼女はもう過去にはいないのだから。
過去にいるのは、僕だけ。ずっと過去にしがみついて、そのくせ未来ばかり見ている。何だか僕だけが空回りしているようだった。
今だってそうだ。香澄は僕のことを覚えていない。ライブを見てくれて、偶然話しかけてくれた人間という認識なのだろう。僕だけが期待して、僕だけが失望する。
何とかしてそこから脱したかった。
僕の目の前で輝く戸山香澄に、何とかして触れたかった。
「あ、あのさ、僕のこと、覚えてる?」
「え? あなたのこと? ……ご、ごめんなさい」
「えっと、小学校の時、クラスが同じだったんだけど……」
そう言った瞬間、香澄の顔が強張っていくのが見てとれた。
「小学校の……同じクラス……」
「うん……」
「………………っ」
「あ、その……別に用事とかはないんだけど、ただ、ギターがすごかったってことを言いたくて……」
急に表情が曇った香澄に、僕は焦っておかしなことを言ってしまう。しかし香澄はそんなことも気づいていないのか、固まったままの顔で僕を見ていた。
「あ、いや……その……ご、ごめんなさい」
明らかに彼女は怯えていた。
体は硬直して、視線だけがゆらゆらと揺れている。その瞳の縁は、涙でうっすらと濡れていた。
一瞬の内に変わり果てた香澄に、僕は何も言えなくなる。これは誰だ?
先ほどまでステージの上で輝いていた香澄は、どこかへ消え去っていた。
そこにいたのは、誰とも話せない臆病な女の子。握りしめられた彼女の拳は、微かに震えていた。
これが沙綾さんが言っていた、現在の香澄なのだろうか。
だとすれば、ステージで見せたあの表情はなんだ? 何が彼女をここまで変えたのだろう。
胸の内で燃えていた愛が、急速に消えていく。
歌を歌っていた香澄も、今怯えている香澄も、同じ香澄のはずだ。なのになぜ僕の心は冷めきってしまうのか。なぜ僕はすぐにでも彼女から離れたいと思うのか。
先ほどの香澄が脳裏を過ぎる。力強い瞳は、いまだに僕の心の中で燃え続けていた。
(ああ、僕が愛していたのは、何かを愛する戸山香澄だったんだな……)
歌を愛し歌と一つになろうとする彼女はどこまでも輝いて、僕の心に突き刺さった。
何かを愛しその愛を形にしようともがく彼女の姿を、僕は何よりも愛していたのだ。
だから愛を失くしただ怯える彼女を少したりとも愛せない。愛する対象のいない戸山香澄を、僕は愛する対象にすることはできなかった。
「かすみーん」
遠くから女の子の声が聞こえてくる。どうやら香澄の友達らしかった。
その声を聞いた香澄は、助けが来たとばかりに振り向いて、僕の前から走り去っていった。
一人残される。花火の音はもう聞こえなかった。
香澄が何かを愛する時、彼女は世界で一番輝く星になる。
『あ、いや……その……ご、ごめんなさい』
瞼の裏に、先ほどの怯えきった香澄が映る。
(皮肉だな……)
笑えなかった。
僕は彼女にとって過去のトラウマを思い出すトリガーだった。トリガーが弾かれると、彼女はただ怯えることしかできなくなる。その状態で何かを愛することなんてできるだろうか。
僕は何かを愛する香澄を愛している。だが、僕がいると香澄は何も愛せなくなってしまうのだ。
愛が消えていく。僕の手元には何も残らない。
「Life goes on……」
愛が消えても人生は続く。
けど、一体どこに?
空を見上げる。行き場を失った愛は満天の星となって僕に降り注いでいた。
吸い込まれるような夜空に散りばめられた銀砂は夏が見せる桜吹雪だった。
ありがとうございました。