404 not found—From missing— 作:疎遠
人間とは、総じてすべからくクソ以下だ。
博愛的で、独善的で、残酷的で、感傷的。
誰もが善くあることを願いながら、誰しも善くあることを拒み続ける。
背反なんて分かりやすいものじゃない。矛盾なんて優しいものじゃない。
廃油に汚染されきった海水のように、ヘドロと化した泥のように、分離しようとしてもし切れない、マーブル模様のような醜い不可分が人間の本質だ。
————だから、きっと。
これも決して綺麗な行いなんかじゃない。
「……君に世界は救えない。それでも、数多の誰かを救うだろう。彼ら、彼女らの生命を保証し、幸福に繋ぐ橋となるだろう」
そこは、深い水底に似た場所だった。
暗く静かな、世界から隔絶された場所。呼吸はここにあって邪魔でしかなく、
水音の代わりに漂うのは規則的な機械の駆動音。遥か遠くから差し込む光のように、壁際から薄く暗闇を払うコンソールの列。ここで唯一存在を許されているのはそれだけだ。
だから、彼と彼女はこの空間において明らかに『異物』だった。
「勘違いはしないでくれよ。これは別に、美談なんかじゃない」
彼は吐き捨てるようにそう言った。
歪んだ表情から滲むのは、憎悪と嫌悪。……そして、多分。
拭いきれない、悔しさ。
「誰かを救うということは、誰かを殺すということだ。……飢えた子供にパンを与えれば、確かにその子供は救われるだろう。だがその裏では、本来与えられるはずだった誰かが飢えて死んでいく」結局、これはそういう足し引きの話でしかないんだ、と呟いて、「限りのあるこの世界で、誰もが救われることなんてない。誰もが望む、誰もの幸福なんてものは、空想の夢物語だ————それでも、」
そこで彼は、一度口を閉じた。
数秒。駆動音だけが場を占める。
それは、言葉を無くした沈黙というより、多くの言葉を噛み殺すような沈黙だった。
噛み殺して、噛み殺して、噛み殺して。
彼は、口を開く。
「それでも……それでも。僕らは、その残酷な計算を認められない。一センチでも、たとえ一ミリであっても、空想を現実に引きずり下そうと願ってしまう。だから、その結果が君だ。
かつて、全ての幸福を願った誰かがいた。
犠牲は無く、ただ一人の取りこぼしもなく、誰もが幸せであるようにと願いを抱いて足掻き続けた誰かがいた。
……そして、足掻き続けた果てに、願いを裏切られた誰かがいた。
理想は空想でしかなく、願いは夢物語に堕ちた。
叶わないと知って、届かないと思い知らされて————それでも、と無様にも吠え続けた誰かがいた。
『
犠牲のない救いは存在しない。であれば、
全世界各地に散らばる人身御供の伝承を元に、普遍する特徴を統合、平均化して造り上げられたデザイナーズベビーへ、投薬と培養によって急成長を促し、三ヶ月という短期間で擬似的な生贄として成立させる。
それは単なるオカルティズムではない。
科学技術の発展により、カオス理論が完全に証明————蝶の羽ばたきがハリケーンを呼び起こす、バタフライエフェクトさえ完璧な精度の予測が可能になった現在において、未確定という言葉はほぼ絶滅した。
端的に言って、科学は、魂や霊といった『
『
どのような生贄を、どの時期に、どのようにして殺すことで、何人が救えるのか。各地の伝承、伝説を紐解き、その法則性を現在の精度で予測。最も効率の良い形で再現する。
十マイナス十がゼロの式しか世界が用意しないのならば、人間の手で一〇〇の代入を作り上げる。たとえ残るのは九〇だけだったとしても、繰り返していけば、いつか必ず全人類に手が届く。
そうして辿り着いた答えが、彼女だった。
「……だから、これが最後の確認だ」
彼は念を押すようにそう言った。
「『
その声音は震えない。どこまでも平坦で冷たい目は、目の前の彼女を視界に入れさえしない。
……けれど。
彼女は、大丈夫ですか、と聞いた。
冷酷に死を突きつけた彼の手は、震えるほどに強く握りしめられていたから。
彼は驚いた様子で顔を上げた。
巨大な円筒型の水槽の中、満たされた人工培養液の中に浮かぶ彼女と、真正面から目が合う。
彼の喉が、なにか大きな塊を飲み込むように、グッと鳴る。
「……ああ、大丈夫。大丈夫だ」
言って。
悟ったように————諦めたように、笑って。
壁際に並ぶコンソールの一つへ手をかける。
「それじゃあ、始めようか」
そこで彼女は初めて口を開いた。
肺まで培養液に浸かった彼女の声が彼に届くことは無かったとしても。
これだけは、脳波を変換した機械音声ではなく、自分の口で伝えたかった。
『ありがとうございます、ドクター』
唇の動きだけで正しく伝わったかは分からない。
けれど、それを見た彼は一度目を見張ってから、微笑んだ。
優しく、本当に優しく。
「……、いいや。こちらこそ————『ステラ』」
そう言って、彼はコンソールのボタンを押した。
彼女の目が閉じられる。
水槽の中に注入されたのは即効性の催眠剤だ。
せめて無駄な苦しみは与えぬように。それが、この実証実験において唯一付けられた余分な機能。
あとは、スイッチ一つで彼女という意識も、存在も、もう二度と帰ってくることは無い。
「……すまない」
誰にも届くことの無くなった室内で、彼は最後にそう呟いて。
……そして、彼女を終わらせる操作が始まる。
その一瞬前だった。
「よう先生。邪魔するぜ」
射し込んだ強烈な光が、彼の動きを止めた。
深海のような闇が駆逐される。隔絶された世界が瞬く間に現実へ引き戻される。
彼はゆっくりと光源へ振り返った。
「……、どうして……いや。何の用かな、上谷くん」
開け放たれた扉の前。この実験場から施設内部へと通じる唯一の出入口。発光ダイオードの光を背にして立っているのは、スーツ姿の一人の青年だった。
少年と言うほど幼くはなく、大人と表現するほど成熟はしていない。細くもないが太くもない体格、高くもないが低くもない体躯。凡庸な顔立ちは、街中に出れば三秒で人混みに埋もれてしまうような。
唯一特筆するべき点と言えば、混じり気のない白髪だということか。
脱色や染色といった細工的な色ではなく、しかし
どこか歪んだ白色を後ろで小さく束ねる青年は、軽薄そうな笑みで彼を見ていた。
「まあまあ、そんな固くなるなよ先生。ここには俺以外誰も来ちゃいないんだ。普段通り伊織くんとでも呼んでくれ」
「誰も……?
「ああ、それな。うん、
「————……、」
まるで、散歩の途中にたまたま見かけたゴミを片付けた、とでも言うような軽い調子で青年は————上谷伊織はそう口にした。
一瞬、言葉を失う彼を気にすることも無く、伊織は鬱陶しそうに瞼へかかった前髪をかきあげていた。
……切るよりも伸ばすのが面倒くさい。だから切らない。
以前、伊織がそう言っていたのを思い出す。
あれは、そう。寒さが気になりだした秋暮れの夕焼け、研究に没頭し過ぎていた自分に僅かでも休息を、と伊織が外に連れ出してくれた時だったか。
「……そうか。ここしばらく、不自然に『
「そゆこと。社会ってのは世知辛いね、いやマジで」
「はは、全くだ。まさか僕にとって最後の障害が伊織くんとは。……冗談にしても悪趣味すぎる」
自嘲するように呟いて、彼はコンソールから離れた。
そのまま室内の奥へと歩を進め、扉の前から動かない伊織に背を向ける形で足を止める。
「ねえ、伊織くん。少なくとも僕はさ、君のことを————友人、だと思っていたよ」
「……驚いた。今日はやけに素直な言葉を使うのな、先生」伊織はからかうような調子で言ってから、「……ああ、いや。そっか。悪いね、前にも言ったけどさ、ヘラヘラ笑ってんのは俺の流儀みたいなもんなんだ。変えるつもりはないが、気に障ったんなら謝るよ」
そうか、と彼は背を向けたまま答えた。
今となってはそれが嘘か本当かは分からない。けれど、どちらでもいいと思った。
伊織の言葉は相変わらず軽薄だったが、その声音だけは真摯だったから。
壁際に手を伸ばす。
暗闇で隠すように、ひっそりと備えてあった小さなロッカーの戸を開ける。
手に取る。
「……『
「さあな。俺も所詮、雇われの人形なんでね。……けれど、まあ、そうだな。それなら一つだけ聞くけど、」
伊織は、意地っ張りの子供に呆れるような溜息を一つ挟んで、
「……
「————……、」
彼の答えはなかった。
ただ無言のままに振り返る。
そのまま室内の中央、水槽に浮かぶ彼女と伊織の間に立つ。
まるで、彼女を守るように。
「最後にもう一度だけ、聞いていいかな————何をしに来た?」
「最初に言っただろ————邪魔をしに来た」
そうか、と彼は答えた。
一年前、上谷伊織という青年と出会った時を思う。
一年間、上谷伊織という青年と交わした言葉を思う。
そうして、もう一度。抱えきれなかった思いを吐き出すように、彼は繰り返した。
「そうか」
寂しそうに。本当に寂しそうに、彼は微笑って。
構える。
「それなら、僕は君を殺して進むとするよ」
その顔からは、微笑の残滓など欠片も残さず消え去っていた。
無表情に向ける銃の銘は『74式電磁カタパルト重機関銃』。通称『キュクロプス』。
神話上における小さな巨人の名を冠するそれは、かつて装甲車等の車載重機関銃として製造された物を現在の技術で再デザインした、
科学技術の発展とは、即ち小型軽量化の歴史と言ってもいい。
全長一〇〇センチ、重量二〇キロを超える車載重機関銃を、片手で扱えるレベルにまで引き下げた『キュクロプス』は、拳銃並のサイズでありながら最大で毎分一〇〇〇発の連射を可能にした。
しかも、銃弾の撃ち出しを火薬ではなく内蔵した電磁レールによって行うことで、射撃反動までほぼ皆無にした上で、だ。
神秘すら殺し尽くしたと言われる現在の科学においても、なお異端。
真実化け物じみた兵器を向けられた伊織は、それでも眉一つ動かさなかった。
入口の壁に軽く背を預けたまま、告げる。
「『解凍』————『AK-47』」
変化は端的で、かつ一瞬だった。
だらりと下げられた右手。そこに、なんの前触れもなく四〇センチほどの銃が現れる。
正式名称『AK-47-Ⅱ型』。第二次世界大戦時以降、高い貫通性と卓越した耐久性能により、半世紀以上に渡って全世界的に基本装備として普及し続けた
しかし、『キュクロプス』にも搭載されている『電磁カタパルト式』が主流となった現在、実戦場で姿を見ることはまず無くなった過去の遺物だ。
その銃把を握る伊織に、彼は表情を小さく歪めた。
「今のは何の手品だい?光学迷彩……いや、高度な『
『AK-47』、それはアンティークであると同時に、伊織が愛用していた銃でもある。
この一年、上谷伊織との記憶には、常にその銃があった。
夕焼けを眺めて語り合った時も、『
どうしてそんな旧式の武器にこだわり続けるのか、と聞いたことがある。伊織はただ一言、「扱いやすいから」と言っていた。
その割には、「
「おいおい先生、さっきも言っただろ。俺は雇われの下っ端よ?『
バガガガガッッッ!!という銃声が彼に届くのは、伊織の言葉が終わるのとどちらが先だったか。
彼は咄嗟に飛び退ったが、僅かに出足が遅れた自覚があった。
気を弛めていたつもりはない。『
それでも————虚をつかれた。
ほんの一秒、ほんの一瞬にも満たない、極小の隙間。普通の人間がどれだけ神経をとがらせようとも発生してしまう、不可避の虚ろ。
裏拍とも言われるその瞬間に、伊織は異常なほど敏い。
分かっていた。分かっていたはずだった。
分かっていて、なお対処できなかった。
『AK-47』の銃口初速は約七三〇メートル毎秒。数メートルもない彼我の距離を考えれば、着弾は正しく瞬だ。
「く、っ————!?」
リノリウムの床を転がり、壁際のコンソールの陰へと蹲る。選択としては下の下の下、壁際では逃げ道も限定される上に、コンソールでは盾としても耐久性が薄い。強化セラミックスで補強してある中央の水槽を盾にする方がよほど上策だろう。だが、それだけは彼の矜恃が許さなかった。
手探りで自分の体を確認する。
先程までの会話の間で、既に痛覚遮断薬と
ただし、痛覚遮断薬はあくまで痛覚を一時的に麻痺させるのみ。撃たれれば普通に血は流れるし、そのまま放置したらどうなるか。結果は火を見るより明らかだ。
だが、
「……、ぁ?」
掠れた疑問が口から漏れる。
無いのだ。銃創はおろか、大した傷の一つさえ。
外れたということは無い。伊織はあの距離、あのタイミングで外すような腕ではない。それは伊織の雇い主として、また友人として間近で見てきた彼だから断言出来る。
では、あえて外したのか。
それも無い。あの状況で牽制射撃をする意味は無い。そして、上谷伊織という人間に限って、情に流されるなどということだけは絶対にありえない。
……だとすれば、残る可能性は一つしかない。
(……最初から、僕を狙っていたわけじゃなかった?なら、どこを)
バヂッ、と。
彼の思考がそこに辿り着くと同時、頭上で凶悪な音が鳴り響いた。
そう。まるで、電線がショートした時のような。
「————ッ!?」
瞬間、コンソールの列が一斉に起爆した。
ドッッッ!!という音が物理的な圧力すら伴って狭い室内を席巻する。
「ぐ……、ああああッ!?!?!?」
爆風に煽られる形で、彼の体躯が再び床を転がった。
一秒か、二秒か。あるいはそれよりも短い時間かもしれないが、衝撃で呼吸の止まった彼にとっては長い空白の後。
「ぎ、ぁ————ッ!」
呼吸もままならない状態の身体を、それでも強引に駆動させる。
バガガッ!!という音が、比喩表現抜きにうなじを掠める感触があった。
……三発。
うなじから流れる生暖かい熱を感じながら、彼は身を起こす。
転がるように、いや、真実無様に転がる事で空けた距離は三メートル弱という所か。
想定していたよりも間合いは取れた。銃撃戦、という現状においてはあってないようなものだろうが。
「あれ、おかしいな。あと一、二秒は動けないと思ってたんだけど。先生、もしかしてこっそり
何も変わらない。
伊織は、彼の記憶そのままの、何一つだって変わらない軽薄な笑みを浮かべていた。
彼に答える言葉は無い。呼吸もおぼつかない身体にそんな余裕は無い。
「————……、」
故に、無言のまま右手を上げる。人差し指に力を込める。
内蔵されたモーターが唸りを上げた。銃把を通して伝わる微かな振動————直後。
毎分一〇〇〇発、秒間一六発を超える『キュクロプス』の弾丸が伊織へ殺到する。
「うお!?」
通常、三メートルの間合いで銃撃されれば避けることは不可能だ。
人間の反応時間は、最速と言われる脊髄反射であってもおよそ〇.二五秒と言われている。
対して、音速は一秒で三四〇メートルを喰らい潰す。その二倍を超える弾速ならば、もはや必中と言っていい。
裏拍さえも正確に捉える伊織は見ている世界そのものが違う。
目線、仕草、表情、筋肉の僅かな軋みまで。あらゆる視覚情報から相手の呼吸を読む伊織のそれは、既に未来予知に迫る予測だ。
つまり。
上谷伊織に、必中の間合いなど存在しない。
有り得るはずのない一歩を踏んだ伊織の横を銃弾が通り抜ける。
焦ったような声も所詮欺瞞だ。彼の銃撃が本当に予測しえないものであったなら、そもそも声を上げることも不可能なはずなのだから。
残り火のように揺れる白髪に掠めることさえ、無い。その事実が、彼我の力量差を残酷なまでに表していた。
「……ッ」
想定内ではある。が、彼の口端からは思わず小さな舌打ちが漏れた。
バケモノ。伊織と相対した人間は、必ずそう言い残して死んでいく。
以前はその言葉が不快だった。憤りもした。
だが、死んでいった彼らと同じ視点で伊織を見て、初めて彼もその心境を理解した。
確かに、これは人間の領域を逸脱したバケモノだ。そうでも思わなければ目の前の現実を認められないほどに、伊織は自分達とかけ離れすぎている。
一体、どのような生き方をしてくればそこに到れるのか。想像することもできない、絶望的なまでの差。
それを理解して。
それを思い知らされて。
彼は、
「……ああ、うん」
よかった、と微かに笑った。
自分は、やはり何も間違ってなどいなかった、と。
彼にとって『最強』とは即ち上谷伊織を指す言葉だ。
故に、想定するべき最悪の敵は常に上谷伊織だった。想像するべき最悪の状況は常に上谷伊織と相対する未来だった。
それはある意味、歪んだ信頼だったのかもしれない。現実となってしまえば、皮肉以外の何物でもないかもしれない。
けれど、だからこそ。
この『
「————ッ!!」
上谷伊織に必中は無い。どのような間合い、例え至近数十センチであろうとも、伊織は正確に回避を取れるだろう。
で、あれば。
回避した上で、なお避けられない————そんな銃撃であれば?
火薬を使わず、電磁レールによって射撃を行うことで、限りなく無反動に近い挙動を実現した『キュクロプス』を、彼自身の意思で
そも、無反動射撃は『キュクロプス』の製造において必要であっても、求められていた要素では無いのだ。
秒間一六発という連射速度を誇る極小の重機関銃、それを片手で扱うには、反動を抑えるしかなかった。
つまり、無反動射撃とは、
故に。
その真価は、間断なくばら撒かれる
『点』ではなく『面』で対象を殲滅する。
それが『74式電磁カタパルト重機関銃』、『キュクロプス』。
「ッッッ!?!?!?」
今度こそ、伊織の声は確実に死んだ。
未来予知に迫る予測を可能にする伊織ならば、自らに迫る数発を躱すこと自体はできるだろう。しかしどこへ躱そうとも、そこに『置かれた』銃弾までは躱せない。
重ねて、伊織は最初の銃撃を回避するために大きく一歩を踏んでいる。
いかに人間離れした感覚を有していようと、身体機能はあくまで人間。次の一歩を踏み出すまでには一瞬の間ができる。
一瞬あれば充分。
その一瞬で、殺し尽くせる。
……そのはず、だった。
「く、あ————っ!」
それは、弾幕の到達とコンマ数秒の差があったかどうか。
銃口を右へ回頭させた伊織が、肩に密着させた状態の『AK-47』の引き金を引く。
バガガガガガガッッッ!!という音が乱れ飛んだ。
……七発。
あと、半分。
放たれた銃弾の先には壁しかない。元より誰もいない空間に向かって乱射された銃弾に意味は無い。
故に、伊織の目的はそこでは無い。
七.六二ミリ弾を放つ『AK-47』のそれは、迂闊に撃てば大人でさえ吹き飛ばす威力を持つ。
「だっ!ごっ!どぇっ!」
自ら射撃反動の方向に姿勢を崩すことで抵抗を軽減した伊織は、二度、三度ともんどり打ってから立ち上がる。
……凄まじい、と評価するべきだろう。
至近数十センチからの射撃ですら回避できる予測があったとしても、その本質は先読みでしかない。何が起こるかを把握したとしても、その対応策を練る時間などほぼ無かったはずだ。
その状況下で、蜂の巣にされることを回避しただけでも異常な判断力を持っていると言える。
だが。
「ってて……」
伊織の左脚、その大腿部に小さな穴が空いていた。
直径一ミリも無いその穴から流れ出る血が、スラックスの黒をより濃く滲ませていく。
「……まさかアンタに一発入れられるとは思わなかったよ」やられた、とでも言うように伊織は笑って、「でも惜しい。こんな小さい穴一つじゃ、まだ俺を止められない。俺をやりたきゃ、これの百倍は叩き込まなきゃな」
「……さて、どうかな」
跳弾を避けるためロッカーの陰に身を潜めていた彼は、呟くようにそう答えた。————そろそろだ。
「——ッ!?がっ、あああああッッ!?!?!?」
ボゴンッッ!という、くぐもった音が響くと同時、伊織の絶叫が聞こえた。
リノリウムの床を転がる音がする。方向から推察するに、恐らく水槽の裏に回ったのだろう。身を隠せる場所はもうそれしか残っていない。
ロッカーに背を預けたまま、彼は語る。
「『キュクロプス』の有効射程は意外と短くてね、どれだけ引き伸ばしてもせいぜい一〇〇メートル程度しかない。だがそれは、命中精度が落ちるだとか、空気抵抗で破壊力が落ちる、なんて話じゃない。そこまでしか保たないんだよ、弾が」
右手の『キュクロプス』を軽く振る。
ガショ、と。軽い音と共に吐き出される弾倉を捨てる。
「秒間一六発の超速連射、と言えば聞こえはいいが、裏を返せばそれだけ弾減りも早い。そこそこ程度の装弾数では、数秒と経たずに撃ち切ってしまう。それじゃあ意味が無い。……だから、『キュクロプス』の弾は特別性でね」
腰から引き抜いた予備弾倉を銃把の底から差し込む。
「装弾数二〇〇。これだけの数を拳銃サイズの弾倉に押し込むとなれば、当然一つ一つを小さくするしかない。だが一ミリ以下にまで縮小させてしまった弾丸を、ただ撃つだけでは破壊力が足りない。そこで、弾丸の中心核を空洞にしてみた————ねえ伊織くん。熱膨張って、知ってるかい?」
本来、銃撃とは鉄の塊によって人体を『穿つ』ことを目的とする。
だが、『キュクロプス』はそうではない。
超音速によって放たれる弾丸は、空気との摩擦によって、瞬間的にだが摂氏数百度までの熱を帯びる。
熱は銃弾の外殻を伝わり、逃げ場のない内部で空気が膨張。やがて銃弾そのものを食い破り————爆発する。
『キュクロプス』の有効射程が短いのはそのためだ。
『穿つ』のではなく、『炸裂』させることを目的とした弾丸は、榴弾にも近しいか。
故に。
一発でも撃ち込めれば、内部から容易く対象を破壊する。
「……、はは。なるほど……」背後、数メートル先から息の乱れた声が聞こえた。「そりゃ確かにおっかない。エゲつないモン出してくるなあ、アンタ」
「……どうして、最初に僕を狙わなかった」
「うん?」
「『キュクロプス』は兵器の溢れかえった現代の中でも異端の結晶。君でさえ見たことは無かったはずだ。未知の武器を持つ相手から処理する。……こんな定石、君なら分かっていたはずだろう」
「……今回の
「あまり僕の友人をバカにするなよ。そんなことで揺らぐ人間じゃないだろう、君は」
「……、そうか。まだ俺を友人だって言うんだな、アンタは」
はにかむような、それでいてどこか寂しそうな響きで伊織は呟いた。
互いに相手を視界へ入れようとはしない。
背中合わせに彼らは語る。
「『キュクロプス』は小型の爆弾を掃射するのと同義だ。いくら君であっても、避けられ続ける物じゃない。その旧式にいくつ弾倉を用意しているか知らないが、撃ち切れるかも怪しいよ」
「ああ。できれば撃ち切らせてもらえるとありがたい————俺も、アンタのことは好きだったんでね」
その言葉の意味は分からなかったが、伊織に退くつもりが無いことだけは彼にも分かった。
ギリ、と奥歯が鳴る。
ロッカーの陰から半身だけを覗かせた彼は、堪えかねたように叫んだ。
「どうしてそこまでして邪魔をする!?『
連続する『キュクロプス』の爆発は、もはや音に意味を与えない。
散り散りに瞬いては消えていく、星の光のような渦の中。中央の水槽で夢見るように眠る彼女の顔が照らされる。
強化ガラスに包まれる水槽はこの程度の爆発で砕けはしない。それでも、彼の表情は小さく歪んだ。
「……ああ、確かにそれは理想郷ってやつなんだろう」
その瞬間を狙ったかのように、ガラスの円筒の陰から銃口が覗く。
バガガガッッッ!!と細い銃身が火を噴いた。
……四発。
再び身を隠す彼の横を、風切り音が通過する。
そこへ追従するように、ヘラヘラとした伊織の言葉が飛んできた。
「それで?どこまで続けるつもりなんだ、それ」
びく、と。
『キュクロプス』の銃把を握る彼の手が、震えた。
「数千?数万?下手したら億まで届くか。そうやって全人類を救ったとしよう。それで、その先は?人間だって動物だ。生きてりゃ繁殖するし、誰も死ななきゃ増え続けるだろ。その度に同じことを繰り返し続けるのか?————なあ。アンタの理想は、一体どこに終わりがあるんだよ?」
「……おかしなことを。理想に終わりなんかない。人が増え続けるというのなら、その度に全てを救ってみせるさ。誰もが皆、笑って生きていける世界を作ってみせる」
「積み上がり続ける死体の山の上で、な」
バガガガッッッ!と。
嘲弄するような声と共に銃声。彼の足元から数十センチ離れたリノリウムの床に、弾痕が刻まれる。
……また、四発。
先程より近い。
跳弾の角度と距離を測られている。それを察した彼は、『キュクロプス』の引き金を引きながらロッカーの陰から踊り出す。
数度、室内を照らす瞬きと共に中央へ。
伊織が水槽を盾にする以上、もはやそこを使わない理由は無い。
水槽を挟んでちょうど裏側。円筒形であるそれにおいて、ここが唯一伊織にとっての死角だ。
彼は一度、水槽の中に浮かぶ彼女の顔を見て、
「それの何が悪い。彼女はデザイナーズベビー、僕が造った人形だ。素材があればスイッチ一つでいくらでも量産できる。必要とあればいくらでも造ろう。……それに。僕が造った物を僕がどうしようと、君や————まして『
「はは、それは確かに。けど、やっぱりアンタは素直じゃない」
バガッ、バガガッ!と、断続的な牽制射撃を挟みつつ、水槽に背をこするような形で伊織が移動する。
……二発。次いで三発。
伊織は既に脚を負傷している。急激な動作はもうできない。
……恐らく、次で最後になる。
円筒に背中を預け、常に伊織の対角になるような位置取りを続けながら、彼は銃把を強く握った。
そこに、静かな伊織の声が割り込んでくる。
「デザイナーズベビー、人形、ね」軽薄な声音の中に、どこか悼むような色を混ぜて、「……俺でも分かるんだ、頭のいいアンタなら、もうとっくの昔に気づいちまっているんだろう?」
「…………、」
「それでも認めないのなら、それはもう欺瞞だよ。理想も救済も、粘ついた欲望に塗れてやがる」
「……、まれ」
「だから、なあ。もういい加減認めようぜ。『
「黙れッッッ!!!!」
叩きつけるように『キュクロプス』を乱射する。でたらめに放たれた爆発が無数に輝く。
その先は。
その先だけは、言わせてなるものか。
……『
では、人身御供とは何か。
それは、文字通り『人を供物として捧げる』ことを指す。
であれば。
その、大前提として。
「分かっている!分かっていたさ、最初から!でも!!それを認めてなんになる!?誰も幸せにならない、誰も救われない!世界は残酷なまま停滞するだけだ!だから……だから僕は!!」
人形として造られながら、人として死ぬことを望まれた少女がいた。
全ての人を救おうと願いながら、人である誰かを殺そうとする男がいた。
葛藤があった。苦悩があった。憎悪があった。欺瞞があった。嫌悪があった。諦観があった。後悔があった。
……そして、確かに。
彼女へ向けた、愛情があった。
人としてあることを望みながら、人の心を持っていく彼女が怖かった。いずれ彼女を殺す自分が、彼女に対して愛情を抱いていく、おぞましい程の傲慢が、怖かった。
「……だから全部見て見ぬふりで、自分すら偽ったまま殺しちまおうってか?」爆風の煽りを受けながら、伊織は俯いたままそう呟いて、「ふざけんなよ————
顔を上げる。右手を構える。
バガッ!と、『AK-47』の銃口が爆ぜる。
……二発。最後だ。
『AK-47』の装弾数は三〇発。
撃ち切れば、弾倉を取り替える致命的な隙が生まれる————!
「お————ォ、アアア!!!!」
裂帛と共に、彼は水槽の陰から踊り出す。
語るべき思いは尽くした。それでも、譲れない願いがあった。
ならば、言葉はもう必要ない。
かつて友であった誰かにその銃口を向けて、
「……だよな。アンタなら、きっとそうするって信じてたよ」
「じゃあな————俺も、アンタを友人だと思ってた」
言って。
笑って。
一度だけ、本当に心の底から悲しそうに、笑って。
バガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガッッッッッッッ!!!!!!!!と。
————それが、彼の聞いた最期の音だった。
そして伊織は目を覚ます。
「……、あぇ……?」
どうやら自分は寝てしまっていたらしい、という自覚が追いつくまでに数秒。自分の状況を把握するのに、更に数秒。
「っ、てぇー……」
ジクジクと痛む左脚を手で押さえようとして、やめる。大きく裂けたスラックスからはピンク色をした肉が見えていた。その奥にチラリと顔を覗かせている白は骨ではないと信じたい。
ここまで手酷い傷を負ったのは久しぶりだと思う。多分。
これは寝てたんじゃなくて失血から来る失神だな、と傷口を取り出したハンカチで止血しながら自己修正。縛り上げる瞬間、急に圧迫された傷口が激痛を発した。泣きそう。
「あちゃあ……」
半泣き状態で周囲を見回した伊織は、あまりの悲惨さに目を眇める。
もうあっちこっちズタボロだった。
壁と言わず床と言わず、至る所に刻まれた弾痕とクレーター。ぶすぶすと煙を上げ続けるコンソールだったものの群れ。穴だらけのロッカー。無事なものなど、見知らぬ少女が浮かぶ円筒形の水槽くらいしかない。
「……ま、いいか」
恐らく今回はこの施設そのものを取り潰して無かったことにするだろう。『掃除屋』の連中に嫌味ったらしい説教を受けることもない。
よっこらせ、と重い体を持ち上げて、ぎこちなく出入口へ向かう途中、
「…………、」
血溜まりの中に倒れている男がいた。
元は白衣であったろうその服装は、もはや見る影もないほど赤黒く染っている。力なく投げ出された細い手足は、石膏のような固さを感じさせた。
伸び放題の髪に隠れた表情は伺えないが、既に絶命しているだろうことは間違いない。
伊織はまじまじとその姿を眺めて、
「悪い————やっぱもうなんも覚えてねえや」
ヘラ、と。
そう軽薄に笑った。