404 not found—From missing— 作:疎遠
……今でもたまに、夢を見る。
物語のように暖かな物でなくていい。絵に描いたような美しいものでなくていい。
そこそこ程度に平穏で、口に出す程でもない不満がある。そんなありふれた普通の中で生きていたら、今頃どんな道を歩んでいたのだろう。
きっとそれは平凡だ。ともすれば歩いているという自覚すら見失ってしまうくらい当然の、儚くて脆い道。踏み外して初めてそれに気づく、かけがえのない平凡。
その道をただ一緒に歩いていきたいと思う人がいた。
けれど、踏み外す以外に、どうやって出会えたのか分からなかった。
……ああ、だから。
今日も、あなたとの夢を見るのです————。
「ご苦労だった、上谷伊織くん————ああ、失礼。もうその名は捨てたんだったか」
女は簡素なオフィスチェアに深く身体を預けてそう言った。
見るからに安そうなワイシャツと、それを内側から圧迫する豊満な胸。第一ボタンの外された襟元から覗く肌は日本人離れして白く、対比するように赤く色付いた髪は、肩にかかる程度で切り揃えられている。
これで地毛だと言うのだから、いよいよ日本の生まれではない。
そうかと言って、外国人らしいと言うのもまた違う。
顔立ちは純日本的なそれだ。客観的に見ても整っていると言える程度の造形も相まって、なんだか全体的にちぐはぐな女だった。
そう、あえて一言で例えるなら、
「……パリピなこけし?」
「よし、君が雇用主をバカにしている事はよく伝わった。表に出ろ」
素直な感想を口にしただけだったのだが、割と大きめの地雷を踏んだらしい。
本気で腰から拳銃を引き抜く彼女に、イオリは革張りのソファの上で軽く両手を上げる。
「やめとく。まだやりたい事とか沢山あるし」
「……、ふん」
一度大きく鼻を鳴らし、女はまた深くオフィスチェアへ体を預けた。アウトよりのセーフという所だろうか。拳銃は手に持ったままの彼女を見てそう判断する。
殺せる自信はあるが、死なない自信はない。
それがイオリから見た彼女の実力だ。こんなしょうもない事でやり合う相手にしてはリスクが大きすぎる。
「まあ、とにかくこれで今回の
「うぁーいー……ていうか、それ分かってて銃向けてきちゃうのはどうなのよ、一応正義の味方的に」
「君がそこまで手酷い傷を負うのも珍しい。情でも移ったかね?」
「……、」
都合の悪いとこだけ露骨に無視しやがったこのババア。
「……さてね。例えそうだったとしても、今の俺はもう覚えてないよ」
「なるほど、確かに。愚問だったな」
どうせ分かってて聞いたのだろう。くつくつとおかしそうに笑う彼女を横目で見ながら、イオリは小さく舌打ちした。
しばし、噛み殺すような笑い声だけが室内に響く。
応接室と名付けられたこの部屋は、しかし実際にその役目を果たしているのかかなり怪しい。少なくとも、イオリは自分以外がこの部屋に立ち入っているところに出くわしたことは無い。大体部屋の主である彼女がデスクワークをしているか、ソファで寝ているかのどちらかだ。
自分のような傭兵が客人というのも微妙なので、実態としては書斎兼寝室とでも言った方がいいだろう。
「いやすまない。嗜虐趣味は私の悪い癖でね、どうにもこればかりは治らないらしい」言葉の割に全く悪びれていなさそうなにやけ面で彼女は言う。「お詫びに食事でもどうだい?君の快癒祝いも兼ねてさ」
「アンタの顔面にくっついてんのはビー玉かなんかか?見ろほら、左脚だけ半分ミイラ状態だろうが。途中で仮装諦めちゃった人のハロウィンみたいになってるけど」
「だいじょーぶだいじょーぶ。その処置はウチの医療部のものだろう?だったら後二、三日もしないで完治じゃないか。そんなもの誤差だよ、誤差」
ちゃいちゃいと手を振った彼女はオフィスチェアから身を乗り出し、柔らかく組んだ両手の上に顎を乗せた。
「で、どこにする?オススメは最近オープンしたばかりのスパニッシュなんだが」
「なんでもう行く前提なんだよ。嫌だよ行かないよ。スパニッシュって名前は聞くけどよく知らないし」
「ひどいな君は。妙齢の女性から誘われたデートを断るのかい?」
「あくまで見た目はな、
「はっはっは、本当にデリカシーというものが欠如しているな君は。————次は無い」
「……イエス、マム」
再び向けられた銃口に両手を上げて答える。
よろしい、と一瞬で構えた拳銃を下ろしながら、彼女は呆れたような溜息をついた。
「まったく、君は可愛い顔のわりに口が悪すぎる。本当に気をつけたまえよ、女性は傷つきやすいんだから」
「…………、」
アンタがキレやすいのは女性云々じゃなくてただの更年期だろ。
反射的にそう思ったが、イオリは沈黙を選んだ。この女が無いと言ったら本当に無い。次は確実に銃弾が飛んでくるだろう。
これ以上の無駄口は命を担保にする必要があるな、と悟ったイオリは話題を変えてみることにする。
「そろそろ本題に入ろう。報酬は?」
「うん、手はず通りに。海外口座をいくつか挟んである、追跡も逆探もまず不可能だよ。今回の医療費だけは引かせてもらったが」
「そっちじゃない。個人的な方だ」
「……、まったく本当に……無欲は美徳かもしれないが馬鹿のすることだぞ」女はやれやれとこめかみを揉みほぐして、「彼女については残念ながら進展なしだ。……これは私と君との個人的な取引なだけに、動かせる人員も少ない。すまないが、時間がかかるのは許してほしい」
「……、そうか」
であればもう用はない。ソファから立ち上がるイオリを「待ちたまえ」という女の声が引き留めた。
「そう急くものじゃない。自分だけ満足する男は嫌われるぞ?」下世話な笑みでからかった女は、すぐに真顔へ戻って、「本題と言うならこちらにもある————早々で悪いが、次の
イオリの目が僅かに細められる。無言で再びソファへ腰掛けた彼に、女は一度頷いてから机の上のパソコンを操作する。
ヴン、という微かな音と共に中空へ映し出された映像は、大小二つの葉形が四方に配置された幾何学模様だった。見ようによっては、歪なクローバーにも見える。
「ヨツバ特定生物系技術開発機構。元は医療、薬剤方面の技術提供を主にした研究機関だったが、数ヶ月以前から妙な動きがある。有り体に言えば————『檻の内鍵』実験。それにまつわるような動きが、だ」
「…………、」
ひく、と。
その言葉を聞いた瞬間、イオリの口端が微かに震えた。
「理解していると思うが、我々『
二十世紀からおよそ一世紀。俗に『過熱の百年』と呼ばれる時代に立て続けて行われた産業革命は、二十一世紀後半に差し掛かり、遂に五度目を迎える。
それは、およそ人が人として到達できる最高値であるとされる、人類の終着点。
ことここに至り、科学と技術はその臨界点へと辿り着いた。
医療、工業、電気産業、その他諸々の産業が数段階上の領域にまで上ったことで社会は豊かになり、生きていく上での不都合は凡そ個人レベルで解消できるようになったと言える。
ただし、それはあくまで
高まりすぎた技術と科学は、それを持つ『企業』の力を飛躍的に増大させた。そして、生活上の問題を個人レベルで解決できるようになった以上、行政機関の必要性は薄くなる。
こうして逆転したパワーバランスは、『企業』のブレーキを完全に喪失させた。
歯止めの効かなくなった技術競走は社会の格差を拡大させる。
富める者はより豊かに、貧しい者は明日の保証すら与えられず朽ちていく。
最長寿命が一五〇年にまで届く時代になったと言うのに、平均寿命は
結局、豊かになっているのは表層の一部でしかない。その下には数え切れないほどの屍が埋まっている。
……ある意味で言えば。
救われない人々を救おうとした『
「……そして、人としての極点に立った彼らは、それでもその『先』を夢見た」
女は懐から取り出したタバコを咥え、そう言った。
シュボッ、という音ともに、白煙が
「それが『檻の内鍵』実験。人が人として進める限界があるのなら、
「……、わざわざ焚き付けなくても引き受けるさ。仕事は選ばない。そう言ったのは俺だ」
「結構。それでは今回の
机の隅に置かれた灰皿へ灰を落とし、片手で拳銃を弄びながら女は語る。
「開始は三日後。
そう前置きして、彼女はタバコの火を灰皿で揉み消す。
「君と同じ、猟犬を一人救出してもらいたい」
「……、なんだって?」
思わず眉をひそめるイオリに、彼女は溜息をついて、
「ヨツバが不審な動きをしているのは数ヶ月より以前だと言ったろう?数ヶ月前の時点でもう我々はそれに気づいていたし、対処もしていた。だが、送り込んだ猟犬が失敗してね。生きていることは確かだが、連絡が取れない。捕らえられているか、身を潜めているか……いずれにしても、君がこれから向かうヨツバのビル内に居ることは確かだ。可能であれば救出してもらいたい。これが
「いや、それはいいけど……なんで?アンタは人命を尊重するとか、そんなタイプじゃないだろう」
「さりげなく失礼だな君は」とは言いつつ、否定はせずに、「単純な利益の天秤の話だ。彼女の能力をここで手放すのはいささか惜しい」
「……なるほど、りょーかい」
そういう話なら合点がいく。イオリは納得したように頷いて、「他には?」と聞いた。
彼女は乗り出したままだった身を再び深く沈めて答える。
「無い。詳しい状況や場所は、追ってメールで送っておこう————ああ、最後に」そう言って、手に持った銃を顔の位置まで上げた。「コイツの銘は『レベデフPL-15K』という。
「……ああ、
「よろしい。
「なにか武器を一つ。小銃までのサイズで、取り回ししやすいやつ。あとは偽造の身分証くらいか」
「了解した。……身分証は、また?」
「ああ。他は好きにしてくれればいい」
イオリの言葉に、女は少し困ったような顔で笑った。
「君の名は、もう『裏』に通りが良すぎる。それに今回の件は『檻の内鍵』絡みだ、闇がいつもより数段深い可能性も十分に考えられる。危ないからやめておけ……と言っても聞かないんだろうね、君は」
「悪いね。これは目印みたいなもんだからさ」
「……そうか。————では、今回も身分証の名前はイオリにしておこう。適当な当て字はこちらで用意する。以上だ、退室を」
「りょーかい」
ヘラヘラと、イオリは軽薄な笑みを浮かべてソファを立つ。
そのまま室内を数歩。奥に座る女のちょうど対面に位置する扉を開けて、思い出したように一度振り向いた。
「そう言えばさ、どうでもいいことを一つ聞いていいか?」
「……なんだい?」
「アンタ、今の名前なんて言うの?」
「なんだ、本当にどうでもいいな……
「————、」
イオリは一度、呆けたように固まった。
目が点になった、という表現が似合いそうな表情のまま、一秒。
次の瞬間、盛大に吹き出す。
「くっ……ははははは!アンタが、神に
「褒め言葉として受け取っておこう」
「ああ。最高に褒めてるよ————そこまで似合わない名前も、そうはない」
そう言い残して、イオリは扉を閉じた。