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ほとんど逃げ出したい気持ちだった。
母は朝から晩までずっとベッドに横になっているのだが、しばしばうなされ、あるいは息が乱れ、あるいはうわ言を口走る。
意思疎通を図ることが困難になるほど、母は病魔に憑かれ、混濁した意識で、苦悶の暗闇をさまよっている。
「お母さん……」
だが、ぼくが母の手を握ると、母が握り返すという反応があり、それがせめてもの幸いだった。まだ母が生きているという確証をくれるものだった。それさえなければ、ぼくはすっかり途方に暮れ、絶望していたに違いない。
病態は以前より悪化していると思う。だから、ぼくは医者を敬遠しがちな母の意思を無視し、村の医者を訪れ、事情を話し、診療してもらうよう取り計らった。
今日はその診療の日で、じき医者が来ると思う。仕事があったが、休むことにした。それほど心配だったのだ。
母の口の端に浮いた泡への不快感に顔をしかめていると、表戸を叩く音がした。
「もしもし」、と男の声がした。
どうやら医者が来たようだ。
ぼくは急いで医者を中へ招じ入れた。
白髪頭の背の低い男がその医者だったが、母の様子を見ると、痛ましいとでも思うような面持ちになり、「具合が悪そうですね」、と近寄っていった。
まずは触診から始まり、手首を持って脈を取り、次は額に触れて体温を確かめた。
朦朧としている母は、医者の来訪に気付くと、一瞬、びっくりしたように目を見開いたが、すぐに元の表情に戻り、諦観したようだった。
「ちょっとお聞きしたいのですが」
医者はそう言ったが、応答できるのはぼくしかいないので、ぼくが「はい」、と返事した。
「こちらはあなたのお母さまですよね」
「そうです」
「ご生年月日を知りたいのですが」
「生年月日ですか?」
「えぇ、治療に必要なんです。というのはね、お母さまの生年月日は、お母さまの体の特質を表すので、参考のために不可欠なのです。特質が把握できれば、その特質に準じた療法を提案できるのです」
分かるような分からないような……ぼくは釈然としないまま、求められた母の生年月日を教えた。
「ふむふむ、では、あなたの教えてくれた生年月日に従えば、お母さまは月と火星のアスペクトがあることになります。アスペクトとはホロスコープの中心からそれぞれの天体に線を引いて出来る角度のことです。お母さまにおける月と火星のアスペクトから読み取られるのは……」
――ぼくはまだ12歳に過ぎない子供だった。何もかも覚束ない子供だったのだ。医者の説明する占星術や医療のことを、理解できるはずなどなかった。
とうとうと訳の分からない説法を垂れる医者の後ろで、母は苦しそうにうなされている。
ただの風邪でしょう、と医者はそう結んだ。ぼくはしかし、この医者に対してある種の嫌疑、きな臭さ、虚栄心などといったものを見て取り、信頼を寄せられなくなっていた。
薬は出されず、占星術が教える体によい食べ物を指示するだけで、病気そのものへの直接のアプローチはなかった。ぼくは失望するようだった。
「では、失礼します」
きっちりと約束された報酬を受け取り、医者は満足そうに帰った。
ようやく医者に診てもらえたというのに、改善されたことは何一つないように思える。母があれほど医者を拒絶していたのは、医者など何の役にも立たないと知っていたからだろうか。だとしたら、ぼくは失敗したことになる。
母は依然苦しそうにしている。
ぼくは、何か忌まわしく恐ろしい出来事の発現を覚悟しないといけないような、そんな予感を、うっすらと胸の奥深くに感じている。