さまよえるフリッツ【完結】   作:Yuki_Mar12

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第100話

***

 

 

 

 かがり火を前にうつらうつらとして、はっきり寝てやろうという気はなかったのだが、ぼくは、その内快くなって、段々と目の前がぼんやりと霞んでいった。

 

 

 雨が地に浸み込むように、ある夢が、ビジョンが、ぼくの現実の方へと彼方より流れて来、その上を覆い、そして、深く、浸潤していった。

 

 

 それは、実際にあったことの回顧なのかどうか、定かではない。みずからの記憶を紐解いて、その夢が映す光景を探しても、確実にこの時のことだと断定出来るページは見当たらない。だが、非情に懐かしく、実際にあったのだと思わせる妙な印象を伴っているのだった。

 

 

 もう亡くなった、母の生前のことだ。

 

 

 ある日ぼくは、家と牛舎の用事で休んだのだが、母はいつものように農場へと朝働きに出た。

 

 

 母は夕方に帰宅した。相変わらず、くたびれた顔で、農奴としての辛苦が満面に滲んでいた。

 

 

 母は基本的に手ぶらで帰ってくるのだが、たまに、市場に寄って食材を買ってきてくれることがあった。

 

 

 そういう時は、ただいま、という帰宅の挨拶と共に、買い物をしてきたという言葉を簡易に添えるのだが、その日母は、確かにどこかに立ち寄って、ある物を持って帰ってきてくれたのだが、それが、市場だったか、よく分からず、けれどその時のぼくは、市場に寄ったのだという風にすっかり思い込んでしまい、疑問符を浮かべることをしなかった。

 

 

「フリッツ、これなんだけど」

 

 

 母が手に持って見せたのは、革製の袋に納まった細長い何かだった。ワックスを塗られたすべすべの、握りやすそうな木の加工物が、革袋の口を閉じて中身を固定するためのボタン付きのループより、飛び出していた。

 

 

 ぼくが興味を持ってじっと見つめていると、母はフッと微笑み、ボタンを外し、中身を抜き出して見せてくれた――ナイフだった。

 

 

「フリッツは男の子だものね。こういうもののひとつやふたつは持っていないとね」

 

 

 ぼくは、どこか感激に似た感覚を覚える一方で、微かな不安を覚えもした。この道具は、食べ物を切ったり布を裂いたりするなど、生活の役に立つし、他方では、ひとを傷付けることも出来る。木の幹をえぐって甘い蜜を集めることも出来れば、ひとの喉や手首を切り開いて赤い血を大量に出すことも出来る。使い方によって、大きく変わる。生産的であり、物騒であるし、文明的であり、野蛮である。

 

 

 母の微笑みに同じ表情で返し、「ありがとう」と素直にお礼をするぼくは、やがて目覚め、母を喪失したことを改めて思い知ってひどくがっかりし、同時に、夢で受け取ったナイフを想うのだった。

 

 

 あのナイフは、もらって、その後、どこへやったのだろう……あるいは、あのナイフは、やはりぼくの思い違いで、夢の中のものに過ぎず、実際には存在しないのではないか?

 

 

 ぼくは腰のベルトに下げた鞘入りの短剣を目だけで見下ろす。すると、夢でもらったナイフのイメージが、オーバーラップする。

 

 

 ぼくは妄念を恨み、ギュッと目を強く瞑って首を振る。

 

 

 ――違う、違う。これはナイフではなく、短剣であり、まして、ブルーノに買い与えてもらったものだ。

 

 

 ――そうだ。その通りだ。そしてぼくは、その短剣で人を殺した。

 

 

 束の間の夢を彷徨ったぼくは、今はもう、母の面影が恋しく、また、その日犯した罪への省察で、胸が締め付けられる思いだった。

 

 

 

***

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