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村の定住者をやめて旅人になり、変わったことはたくさんある。すべてが変わったといってもいいくらいだ。
だが、貧しいことは変わらなかった。食べるものはその辺に生えている木の実だったり、川魚だったりする。常に栄養不足で、旅をするというのに、その食生活はずいぶんと不利だとは思うが、食べたいものが食べられるわけではなく、時には飲まず食わずの日もある流浪の身である以上、ぜいたくは言えない。
雨にぬかるんだ私道を歩いてようやく辿り着いた小さな村。ぼくとブルーノは宿を取って、ささやかな個室に落ち着いた。
ハァ、とずぶぬれの衣服を脱ぎ捨ててベッドに腰を下ろしたブルーノが、ため息する。彼もいかほどか疲れていたようだ。
「ようやく人心地が付いたぜ。まったくひでぇ天気だ」
ぼくも同じようにため息すると、着替えてベッドに仰向きになった。疲れた肢体がクッションに沈むが、それはまるで、ベッドにからめとられるようで、ぐったりと身動きが取れなくなった。
額に腕をやり、目を瞑る。
――旅をしようと思ったのは、母が亡くなったことが原因だった。
うちを訪れた医者の不可解な治療の後、母はますます病状を悪化させた。言葉は通じず、手に触れても何の反応もよこさなかった。ただ乱れた呼吸を繰り返し、険しい表情で苦しむばかりだった。肌という肌が真っ赤になっているのを見て、ぼくは何か思い当たるものがある気がしたが、あえてそれを認識しようとせず、遠ざけていたきらいがある。
「お母さん、お母さん!」
ベッドのそばに寄り添ってそう叫ぶも、母は返事しなかった。
朝昼晩、ぼくは寝ずの番に徹して母の看病に努めたが、治る兆しを見出すのはとてつもなく困難だった。
のっぴきならない事態に直面したぼくは、だが、不思議と心の中に冷静さを保っていて、母の病苦に焦燥感と悲哀を募らせる一方で、もしもこの苦しみが続くというのなら、と、同情と共に思ったのだった。
――もしもこの苦しみが続くというのなら、神様、どうか母を安眠させてください。ぼくは一人ぼっちになってしまうけど、母がこれ以上苦しむ姿を見るのはつらいことです。だから、母を安楽にしてください。
神様への祈念は、時折母に連れられていった教会で習ったので、慣れていた。人智を超えた物事に対して、ぼくらは無力だ。
無力だからこそ、祈ることが出来るのだ。森羅万象を統べる大いなる威光と力に、願いを託し、全てを委ねる。
ぼくはビクッとした。目をぎゅっと閉じていたので、不意打ちを食らったようだった。
目を開けると、母がよこたわっているのだが、母が、ぼくの方に目を開き、痛ましいながらも、必死の微笑みを見せてくれているのだった。
「フリッツ」、と母は弱弱しくかすれた声で言った。ぼくらの魂は、その時共鳴していた。言葉など最早必要なく、ぼくはおごそかに沈黙し、見つめ返すだけだった。
「……ごめんね」
その声音を聞くと、じわっ、と、込み上げてくるものがあり、ぼくは目頭を熱くし、嗚咽が漏れてきた。
ぼくは母の手を強く握り、その手にやさしく口付けをした。
すると、母はおもむろに頷くような仕草を見せて、ふたたび目を瞑った。最期の時だった。安らかな眠りが、まばゆい白光と共に、天高くから、母へと降りてきたのだ。翼の生えた美しいあどけない天使たちが、母を迎えに来、そして連れて行った。
永遠のゆりかごに、母は還ったのだった。
ひとつの災いが治まり、平和の静寂が、辺りを包み込んだ。