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彼は大きくあくびをした。首を若干逸らし、地に突き立てた槍の柄を握っていない方の手を口に当て、目に涙を溜めた。そして、昨夜飲んだ酒はうまかったと、しみじみ回想した。気の置けない仲間との騒々しく楽しい時間を追って体験し、誰かの笑える一芸や、打ち解けた会話の内容を思い返した。
荒廃したゲールフェルト村を訪れ、駐屯するようになった騎兵のひとりだった。
たいまつの火が燃え、薪が爆ぜてパチパチと鳴る。ほの明るい灯火の周りには、羽虫が何匹か飛び回っており、中には火に焼けて絶命する個体があるのだった。
――辺りは静かだった。時が夜半であることを考慮すれば、何ら疑問を持つ意味のない静けさだった。
だが、騎兵は、何か胸騒ぎのする予感がした。
そういえば、村の外囲を巡回する仲間が中々やって来ない。
どこかで座りでもして、時間を潰しているのだろうか、と彼は想像した。
その瞬間、彼の背後で燃えるたいまつの灯影を何者かが遮った気がした。
不審に思ったが早いか、彼は喉元をナイフで掻き切られ、多量の血を噴出させて、声もなくバタリとその場にうつ伏せに崩れた。槍が離され、木の柄が地面を打つ音が遅れてした。
騎兵の倒れた跡に、人影がうっすらと現れる。ナイフにべっとりと付いた血を振り払う彼は、エルだった。
「何だ。案外ちょろいじゃないか」
彼は呟くと、手に持っている布をたいまつの火に被せ、消灯した。
彼にはあかりは必要ないようだった。ほとんど夜行性の動物に近い生活を送る彼は、夜目がよく利くのである。
「死んだの?」
倒れた騎兵のそばにしゃがみ、恐々とその死相を見下ろしているクロロが訊く。
「もう息してないだろう? 体温はまだ残っているだろうが、じき冷たくなる」
「……。」
クロロはおもむろに立ち上がり、どこか騎兵の死を悼むように、しゅんとした眼差しで、なお見下ろしている。
「これで村に侵入出来る。馬なんて目立つもの、すぐに見つかるさ」
エルはナイフの刃に残った血のりを衣服で拭き取ると、革袋にしまい、「クロロ」、と呼びかける。
クロロは「うん」、と死体を見つめたまま、返す。
「仲間を呼んでこい。おれが首尾よくやってやったから、村に自由に出入り出来る。ただし、日が昇るまでの間に限るがな」
「分かった」
「寝てるやつがいたら、叩き起こせ、人海戦術で村をくまなく探す。どうせ、夜警以外の連中はすやすや夢の中だろうよ」
「うん。分かった……」
そう答え、クロロはようやく目線を上げ、仲間のいる木立の方へと駆けていった。
エルはその背中を見届けると、ふと手のひらをみずからの方に向けて目前まで持って来、指を見た。先刻切り込みを入れた傷が、生々しく残っている。彼は、ピリッとした痛みと、赤黒い血の色を思い出し、頭が冴えるように、集中した。
「まぁ、別に――」、とエルは呟くと、傷のある手でこぶしを握り、下ろした。「おれひとりでも構わないんだ。別に、みんなで仲良く行動する必要なんてまるでないんだ」
彼は幼少の頃、母にひどい目に遭わされて育ち、それから独立して大工になって仲間との和のよさに触れ、そしてやむなくひとりぼっちになった時までをサッと追憶した。
彼はフッと微かに口を歪めて笑むと、クロロと仲間との合流を待たず、ひとりで先に、村の中程へと進んでいったのだった。
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