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母の遺骸を目の前に、ぼくは茫然としていた。
その魂を厳粛に、矢も楯もたまらない心細さを押し殺して見送り、その時、ひとり親を失ったという喪失感、及び、とうとうひとりぼっちに――それも本物のひとりぼっちになったという虚無感、孤独感、悲哀、絶望……そういった諸々の感情の波が、どっと押し寄せて来たのだった。
何となく、葬ってあげないといけないという気がしていたが、どうすればいいのか、皆目分からなかった。
まだ昼にもなっていない時間帯だった。
ふと、表戸をノックする音がし、ぼくは我に返った。
と同時に、この状況を他人に気取られるのはよいことではないとすぐに察知したぼくは、母はあくまで眠っているのだという体で、万一母のことを尋ねられた時、誤魔化そうとにわかに考えた。
「もしもし」
はい、とぼくは応じ、表を開けた。
目の前にいるのは、いつも農場で働いている仲間の女性だった。年はだいたい母と同じくらいだ。母同様、連日の隷従的労働への従事で顔がやつれており、白髪混じりの髪はパサパサに散らばっている。
「お母さんの具合が悪いって聞いて」
「はい、まだ寝込んでおりまして」
「ちゃんと、ご飯は食べてるの?」
「食べてます。食欲は旺盛じゃないけど、ちゃんと」
「そう」
女性は、どこか沈鬱な面持ちで、考え込む素振りを見せる。
ぼくは不思議に思って、じっと黙っていると、「実は」、と彼女は切り出した。
「わたし、監督のひとに命じられて来たの」
「監督」
農場の労働者を管理するあのひとのことだ。
「まだお昼になってないでしょう。わたしはまだ働いている途中のはずなのに、おかしいと思ったよね」
「別に、不審だとか、そういう風には思わなかったですけど」
けど、いよいよぼくの母のことは、農場の経営陣の気がかりの種になりだしたようで、このまま行けば、ぼくのうちが、横柄な連中の無遠慮な訪問で踏み荒らされかねない。そうなれば、全てが明るみに出され、母の死は公認のものとなり、ぼくは……ぼくは?
心臓が跳ねる感じがした。胸が痛く、また苦しい。
「お母さんは、今熟睡してるんで」
「そう。早く回復するといいわね」
「ありがとうございます。監督にはぼくからきちんと説明しに行きますので、ご心配は無用です」
「分かったわ。わたしからもそう伝えておく」
「お願いします」
「じゃ、お大事に」
女性は、慇懃にいとまごいを告げた。
さて、とぼくは思った。お尻に火が付いたようだった。
一刻も早く、母を葬り、ぼくは、逃げないといけない。母なしでは、この家も、この家での家事も、あの農場での仕事も、全てが立ち行かない。
だけど、どこへ?
どこでもいい。とにかくここがダメだということだけがはっきりしているのだ。
ぼくは母の亡骸に触れた。
冷たい、恐ろしく冷たい、死者の絶対的冷やかさが、母を支配していた。