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美しいよく刈り込まれた前庭に、馬車が現れた。
二頭の褐色の被毛の馬が正面に並んでおり、高い馭者台には、軽装の兵士が座っている。馬が引く車は、径の大きい車輪の上にあり、開閉式の扉が付いていた。いかにも、重役が乗るクラスの馬車であり、郵便馬車や乗合馬車などと比べると、全然、雰囲気も構造も違っていた。
「では、そろそろ発つとしましょうか。別れが惜しいですが」
腰の後ろで手を組んで前庭を見下ろしているヨハネスが、踵を返し、数歩進んで、そう言う。
「どちらへお行きになるのですか?」
ブルーノが、首を曲げてヨハネスを見、気になって尋ねる。
「新しい次なる町です。あるいは村かも知れませんが」
「導師は、つまり、伝道を目的として、旅立たれると……」
「仰る通りです」
風が立ち、二人のそばを通り過ぎる。いやに強い風で、近傍の樹木の葉がザワザワと、不安を煽るように鳴る。鳥がけたたましい羽音を立てて飛び去っていく。
「醜い争いが絶えないこの汚濁の世には、統一した教義が必要なのです。私利私欲を満たすために、各地で領主たちが戦争を行っています。権力者の都合のために人命が軽んじられ、あるいは労働者として苦役に任ぜられ、あるいは兵卒として前線に出撃を命じられます」
――信ずるべきものを持たないということは、生きることの目的や、世界の秩序の成り立ちを解せず、ないがしろにし、無際限に湧いて出てくる我欲のしもべとして、知恵や意思を持ったにんげんになることを断念し、弱肉強食という原始的摂理のみを是として、野蛮なるけだものに身をやつすことであると、ヨハネスは説いた。
彼は軽く咳払いし、ブルーノを首だけで振り返り、「亡骸は、葬らないといけないのです」、と続けた。
彼の話はそこで終わり、ブルーノに対し、彼の旅に幸福があるよう、一路平安を祈ると、客間へ戻り、助祭を伴い、旅支度に取り掛かった。
ブルーノは難しく考えるように、眉をひそめてヨハネスの後ろ姿を見送ると、正面に向き直り、前庭を見下ろした。元は自然の樹木が、散髪した頭のように整っており、やはり見事だった。
彼はだが、前庭の美しさなど最早関心がなく、深いため息を吐き、手すりに肘を突いて頭を抱えた。
「亡骸、か……」
ブルーノは、まだ確信は持てなかったが、ほのかに、推測出来る気がした。
最近、各地で頻発する宗教施設の破壊、及び、宗教人の殺戮は、ヨハネスが主導する集団によるものである、と――。
その推測が当たりだとすれば、主犯がすぐそこにいるのだ。――導師のことだ。じかに話して質せば、簡便でよい。全てが明るみに出、あらゆる嫌疑は真否を弁別出来る。
だが、ブルーノは、そうしなかった。するべきだと思ったし、したかったが、腰が重かった。なぜか? その理由は、説明するには、やや複雑であった。
まず、ブルーノは、恩人と再会し、喜んだ。命の恩人だった。昔の思い出が蘇り、凍死寸前の状況で一命を取りとめ、その後、決して裕福ではないけど、健康に過ごしてこられたことのありがたみをしみじみ感じた。ヨハネスの人柄に触れ、その優しいことや、柔和であることにリラックスし、安らいだ気分になった。
ところが、ヨハネスの話を聞いていく内に、雲行きが怪しくなり、心なしか、彼の微笑む人懐っこい表情にも、うっすらと覆う陰を見て取る気がした。
最後まで話を聞くと、ヨハネスが、ブルーノが、フリッツとミアと共に追い求めていた村の事件の主犯であると仮定してみても、特におかしいところもないことに思い当たり、むしろ、彼が主犯であるとするのが、今まで埋められなかった謎の空白が埋まり、辻褄が合って順当だった。彼は伝道という目的のもとに、軍事的に強大である結社を組織し、既存の宗教に対して破壊活動を行っているのだ。
長年の歳月を経て、恩人に再会し、悲しい思い出も、喜ばしい思い出も、全て振り返り、そうして、今、心中では、その恩人が、一転して、不穏でおどろおどろしい雰囲気をまとって、立ちはだかっている。
ブルーノにとって、ヨハネスは命の恩人であり、同時にまた、敵であり、脅威でもあるのだ。
その二面性にすっかり困惑し、ブルーノはずっと、秋風の冷たい神殿の屋上に、突っ立っているのだった。
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