第170話
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駆ける。ただひたすら、駆ける。
馬は俊足だった。
『彼』は、生まれてこの方、乗馬というものを経験したことがなかった。
最初、乗る時、勝手が分からず、とにかく跨ろうとするのだが、馬が暴れて中々うまくいかず、無理矢理よじ登ると、気がちがったかのように走り出し、それは、決して乗馬とはいえない恰好ではあったけれど、結果として、彼は――オットーは、奪われたものである上等の馬を、賊たちの手より、からくも奪い返し、取り戻したのである。
馬で、追手より逃げている時、オットーは、しがみついているに等しい、苦しい姿勢を、何とか転じ、鞍の上にちゃんと跨り直し、その後は、足をフラフラ揺らして、鐙を探り、やがて踏込に足を引っかけた。
ものすごい風圧を体に感じながら、彼は手綱を握ると、引っ張り、馬の向きを転じ、『彼女』と示し合わせた場所へと疾駆した。
夕闇が濃くなりつつある。辺りは暗くなり、かろうじてある残照を頼りに、馬を走らせた。
ゲールフェルト村より少し離れたエリアの、木が数本集まって成るちょっとした木立が彼方に見えた。
オットーは、一、二……と木の本数を数え、またその風景の見え方と、じぶんの記憶にあるイメージを照らし合わせ、ある程度合致することを確認すると、その木立を目掛けて馬を走らせた。
「――もう夜ね」、とリーザは言った。気丈に見えて、その実は心細いという感じの表情だった。
「遅くなってすみません」、とオットーは、馬より下りてそう謝った。
「でも、馬を取り返してこられたんだもの。上出来よ」
「えぇ。じぶんでもそう思います」
リーザは「フフ」、と笑った。褐色の髪を後ろで高く括って垂らし、耳のそばにはおくれ毛が見える彼女は可憐だった。
オットーは単純に嬉しくて、照れ笑いした。
だが、ふと深刻というか、申し訳なそうにしゅんとし、「ですが、今日は」、とまで言うと、ゴニョゴニョ口籠り、目が泳ぎがちになった。
「……?」
リーザはきょとんとする。
「あっ、えっと……もう暗いですので、ここで夜を明かすのがよろしいかと」
「あぁ、成るほど。そうね」
意外とあっさり受け入れる様子を見、オットーは目を丸くした。良家のリーザは、キャンプなどまっぴらごめんに違いなく、雨風が凌げ、お皿にのった料理が食べられる、ちゃんとした宿を用意しないといけないという思い込みが、彼にあったのだった。
「お嫌ではないですか?」
「嫌に決まってるじゃない!」
リーザが目を怒らせて、不本意だと怒鳴る。
オットーはじゃっかん怯む。
「でも」、と彼女は口調を穏やかに戻して言う。「わたしだって、極端に分からず屋のわがままっていうわけじゃないわ。何にしても、じぶんの思うようにならないのはムカつくけど、世の中そう易しくはないことは、分かっているつもりよ」
リーザは腕組みして、遠くに見える。もう沈む夕日の影を見つめると、憂わしそうに「ハァ」、とため息し、馬に目を移した。
「荷台は、ないのね」
「元々はあったのですか?」
「えぇ。コンラートと、フリッツとブルーノといる時は、あったし、わたしは、その中で旅中、過ごしてたの」
「たぶん、賊どもに――」
「いいの」
リーザはピシャリと、オットーの推測を遮るように言い切った。
「仕方ないもの……」
彼女は顔を逸らし、悲しげだった。
旅でのことや、ようやく帰り着いたが、荒廃していることを目の当たりにした村でのことなど、彼女が幼少より親しくした執事にまつわる思い出を思い返して、その不在を嘆いているようだった。
オットーは、彼女を可哀想に思い、同様にしゅんと沈んだが、時間が時間なので、ぐずぐずしていられず、じぶんが持つテントを急ピッチで設営しだした。
リーザはこみあげてくる感情を退け、洟をすする程度で押し殺すと、思考を切り替えるように首を左右に振り、慣れない所作で、オットーの手伝いを始めた。
夜、平原の木立は、猛獣も、不埒者もおらず、焚火がなく寒かったけれど、おおむね平穏だった。
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