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朝、牛小屋に行くと、顔をしかめる悪臭が立ち込めていたが、、数日ぶりの落ち着いた雰囲気に、牛がいくぶんほのぼのしているようで、ぼくは気分がよくなった。
尾を左右に振って、目を潤ませ、その時何となく、ぼくはこの動物の愛嬌を初めて知った気がした。
「ごめんよ。しばらく、ろくに世話してあげられなかったね」
ぼくは謝罪の言葉を述べた。それが伝わるはずなどなかったが、自分の罪悪感を決着させるために必要な罪滅ぼしだった。
乳はそれほど膨れていない。無理もない。母の一件があってから、まめな世話が出来ず、餌もすっかり忘れて、思い出した時に短兵急にやりに来るだけで、牛舎の整理や清掃も、数日怠けるだけで、散らかるし、汚れや糞尿がずいぶんたまってしまうものだ。水桶の水もそこそこ悪くなっているようだ。
ぼくは張り切ってこの牛の飼い主として、これまでの損失を取り返すつもりで、牛の世話と牛舎の清掃及び美化に取り掛かった。
「母さんがね」、とぼくは、トンボで地面をならすと共にゴミを搔きながら話しかける。
「死んだんだ」
ぼくはそう教えたが、牛は彼方を見つめるだけで、反応しなかった。
「ぼくにとってもそうだけど、君にとっても、喪失なんだよ。大きな損失」
この牛の飼育者は二人いた。ぼくと、亡くなった母だ。その母がいなくなったので、牛の世話はぼくの専任となった。
だが、それが、不謹慎だと知りつつも、ぼくにとっての負担になるだろうという確信を、持ってしまった。
額にうっすらと汗するぼくは、トンボを掻く上で曲げている腰をまっすぐにし、背をピンと立て、腕で汗を拭った。
「もうすぐ土に埋めてあげるんだけどね。親切なひとと縁あって、助けてくれることになったんだ。二人いて、ひとりはこの村の職人で、ブルーノさんっていんだ。もう一人は、よその村に住んでるんだけど、ヨハネスさんっていって、それはそれは偉い神父さんなんだ」
牛は依然、沈黙している。というよりは、大人しい動物に似つかわしい仕方で口を噤んでいるのだった。ぼくが独善的に話しかけるだけで、牛は牛でしかなく、人間のように、情のこもった返しなどしないのだ。
別にぼくは、それで構わなかった。むしろ、人間にこういう風に語り掛けるとしたら、よきにつけ悪しきにつけ、反応があって、ぼくはその反応で一喜一憂するだろう。
その情動というのが、今は――肉親を失った今は、あまり気乗りのしないものなのだ。
だが、ぼくはびっくりした。不意を衝かれた形だった。
牛が、そばにいるぼくの方に首を伸ばし、なぜかくんくんと肩の辺のにおいを嗅いでいるのだ。それも、鼻をぐっと押し付け、貪るように嗅いでいる。
これは、彼女の好意なのだろうか。乳を恵んでくれる、牝牛。そういえば、名前を付けていなかった。
ぼくはその好意の真偽を探ることもせず、お互いに欲するがままに、触れ合った。
牛は鼻をぼくの肩に押し付け、ぼくは頬の片方を彼女の耳のあたりに押し付けた。
ぼくは何となく、物別れの予感がしたが、出来れば、この牛と、彼女と、一緒にいたいと思った。