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月影の明るいとても寒い夜に、エルはある林の中の野営地にいて、一本のたくましい木の枝の上で、仰向けに寝そべっていた。
風に葉がこすれる音が賑やかで、また、夥しい樹冠の葉と葉の間に空いた隙間を通る風が冷たかった。
拠点への旅の途上で、一行は野宿しているのだった。時はもう遅く、エルを除いて皆熟睡している。
後頭部に手を組み合わせて枕とし、彼は、回想していたのだ。
あの祭服の老人のことだ。
ヨハネスと名乗るあのただならぬ雰囲気の老人は、出発の日のあの激励のスピーチの後、兵の隊列の周りをゆっくりと巡り、一人一人の顔に目を向け、微笑みかけるのだった。
エルは胸がドキドキしたが、どうして緊張しているのか、よく分からなかった。
彼の姿が近付くにつれ、彼は目が泳ぎ、動揺した。
ヨハネスは、エルのもとへと来ると、それまで誰にも声をかけず、せいぜい頷きかけるだけだったのに、馬に乗るエルを見上げると、「おや」、と言い、彼に興味ありげだった。
辺りに群れる正規の兵たちは――傭兵のことを常に侮ってまともに相手しない兵たちは、半ば愕然として、目を見張った。
「あなたは、正規の兵ではありませんね」
「あっ……」
ヨハネスの問いかけに、エルは、喉が詰まったように口をパクパクし、目を伏せたが、彼は、どういう言葉遣いが適切か、無学のために分からず、混乱してしまったのだ。
「何もおっしゃらないで」
ヨハネスはそう制すると、手綱を持つエルの手にみずからの手を重ねた。老齢に相応しくくたびれていたが、ほのかに温かい手だった。
あまり人肌に触れないエルは、心悸が更に上がった。
「エルというお名前でしょう」
ヨハネスが言うと、当人はびっくりして伏せていた目を、眼光鋭くし、彼に向けた。
「あなたの御活躍は、以前より拝聴しておりましたし、時には戦場で勇猛に戦われるお姿を、遠目で拝見したこともありました」
ヨハネスは軽く咳払いすると、「エル殿」、と、話題を転じるように、うやうやしく呼びかけた。
「どうですか。傭兵をやめて、正規の兵になるのは」
「おれが――?」
「えぇ。あなたほど頼もしいお方は、もっと相応しい立場に立たれるべきです。わたくしどもも、ぜひともあなたのお力に頼りたいと存じます」
要するに、とエルは察した。
戦場で功を上げることで名が知れ、統帥部か何か、とにかくお偉方から、傭兵にしておくには惜しいという風に思われたのだ。都合が悪ければ簡単にやめられる傭兵ではなく、正規の兵に改めて雇い入れることで、戦力を確かなものとしたいのだろう。
ヨハネスは、もちろん、正規の兵になれば、傭兵の時よりも、報酬はぐんと上がることを伝えた。
だが、エルにおいては、お金だけでは、モチベーションとして足りなくなっていた。お金に加わる何かを彼は欲した。そして彼は『謎』の解明を求めたのだ。
だが、今こうして柔和に微笑みかける老人の笑顔を見ていると、かつて敬い、尊敬していた大工の親方の面影がオーバーラップしてくるようだった。
このひとに付いていけば、あるいはまた、あの頃のように、今のようにギスギスせず、ひもじい思いと無縁だった、にんげんらしい生活へとかえることが出来るかも知れない。
エルは、ヨハネスの言葉を聞くことで浮かんだイメージの向こうに、ふるさとが見えてくる気がした。ふるさとなどないと虚しい気分で流浪していた彼は、じわりと目頭が熱くなる感情が、込み上げてきた。
エルは決して、ヨハネスの誘いに対し、承諾も、拒絶もせず、ポカンとするだけだったが、ヨハネスは、内心、彼の心を捕えたという確信を持った。人心を掌握したのだ。
風が梢の間を渡る。エルは寒くて身震いする。
開けている目が、潤み、そっと閉じると、目蓋の隙間から、一筋の涙が頬を伝う。
もう一度、あの頃の幸せに浴せるというのなら、じぶんはどういう犠牲も厭わないだろう、と、彼は思った。
もともと知ろうと企んでいた『謎』は、もうどうでもよくなった。
新しい絆が――しかも、賊のように薄情でも安っぽくもない、裏切りのない、しっかりした繋がりで繋がった関係が、出来る希望が兆した。
彼は、その希望に、とても懐かしい気分になったのだった。
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『おしらせ』
きたる2月より、ハーメルン外の作品に注力したいので、しばらく本作の更新が止まります。恐らく一カ月ほどの間、止まっているかと予想されます。
よろしくお願いいたします。