第276話
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はじめは、金銭が――金銭だけが、目的だった。
『彼』において、傭兵として戦争に従軍することの動機付けとしてあったのは、せいぜい、戦争にまつわる仕事への対価としての報酬だった。
仮に報酬が、自身の要求を満たさない程度であれば、彼はとうの昔に、もともとやるつもりのなかった傭兵など、さっぱりやめてしまっていたに違いない。
だが、彼は傭兵という立場に対して、引退するなどといった変更を加える権利を任意に行使出来ないのだった。職責が彼をがんじがらめにしていた。
彼が傭兵になったのは、本意ではまったくなく、ただの不可抗力からに過ぎず、彼はある日、夜の村において、厩舎で、騎兵たちに多勢に無勢といった具合で追い詰められ、やむなく傭兵として彼らに雇用されたのである。
元は賊であり、何人かの手下を従えて盗みなどの悪行で生計を立てていた彼は、エルという名の男だった。
彼が心底気に食わず反感を抱く、上流階級の騎士たちに顎で使われる身分となったわけだが、皮肉にも、盗みなどをして得たもので暮らすよりも、傭兵として戦って稼いだ金銭で暮らす方が、遥かに裕福なのだった。
やましいことを生業にすることで、人目を避けて生活し、盗人だ、賊だなどと蔑まれたり激怒されたりしていたのが、傭兵となって以後は、戦闘員として、敬意さえ持たれるようになった。
「――そうですか」
と、ベッドの上の祭服の老人が、か細い声で、納得したように言う。
「はい。
ある部屋のステンドグラスが、日差しを通して、明るかった。アーチ型の大きいそのステンドグラスには、青空を舞う天使の絵が色とりどりのガラスによってデザインされていた。
その部屋は、鏡台や書き物机や書棚などがあり、老人の寝室のようだった。
ひとりで寝るには広すぎるそのベッドは、寝る者の偉大さと部屋の格調の高さを明示しており、またその広いベッドは、ステンドグラスに接しており、老人はそこで、上半身を起こした状態で、下半身は布団にすっかり覆われているという姿勢だった。
ベッドのそばでは、ひとりの男が、恭順に跪き、右の拳で絨毯を突いている男がいた――エルだった。
「反乱は鎮圧し、反抗分子は殲滅を完了しました」
「ご苦労でした」
黒い服に黒いマントを纏うエルは、深々と頭を下げ、謝意を述べる。
「しかし」、と老人は、エルへのやや病的に濁った目を正面に向けて言う。「全ては光の導きだというのに、なぜ反旗を翻し、道を外れようとする者がいるのでしょうね」
ヨハネスの向く正面には、ステンドグラスを通る光が差していた。うっすらと無数の埃が漂っているのが見えた。
「さぁ、どうしてでしょう」、とエルはヨハネスの目を追い、彼と同じ調子で返す。「愚者の考えるなど、さっぱり分かりません。ですが、愚者の考えは、やはり愚かであり、奴らは、今回このように、皆殺しという憂き目に遭いました」
「大変痛ましいことです」
「ヨハネス様。お体の具合はいかがでしょう」
と、エルは、老人の濁った瞳を見つめ、問いかける。
「結構です」、と老人がエルを見つめ、微笑して答える。「ご心配は不要です。ただ、目が悪くて、書き物や読み物を長時間すると、痛んできてしまいますね」
ヨハネスは、微笑を苦笑に変えた。エルは釣られて笑うなどせず、真顔で黙然と彼の笑いが止むのを待った。
以前と比べ、加齢が進み、高齢者として、めっきり強健ではなくなった『救いの光』の唱道者であり、長老であるヨハネスは、エルにとって、敬愛の的であり、しばしばその敬愛は、妄執にまで発達した。時には執拗に、彼はヨハネスの顧慮を得ようとし、進んで彼の言いなりになった。
エルは、彼の相貌に、かつて世話になり、心より慕っていた年長者の面影を見ているのだった。
その面影は、懐かしい思い出と共にあり、仮に過去へと帰ることが出来るならば、エルはいつでも、駆け足で帰りたい気持ちだった。
ヨハネスの相貌は、エルにとって、常に、やさしくて居心地のよいふるさとであり、親愛の情と良心の源泉であり、死んでも守るべき宝物なのだった。
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