第290話
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かつてグルンシュロスの城下町で、飛脚をしていたうだつの上がらない男、オットーのことを話そう。
彼は今でも飛脚をやっている。が、最早彼は城下町の住民ではなくなり、彼が旅した先の町へと移住したのだった。
彼が住むようになったのは、グラルホールドという名の、城下町だった。城下町といっても、よそと覇を競えるほどの規模ではなく、狭い範囲に城壁を巡らせ、中央に赤い屋根の小城があるばかりだった。
近傍に重畳たる山脈が偉観を構え、その山の土壌に濾過された雨水が川となって流れくだっていることで、グラルホールドは水資源が豊かで、水車がたくさん回っており、風呂屋が繁盛し、気候がやや冷涼であることもあいまって、住民は皆綺麗好きとなっている。
また、山脈とは別の方面も、峰の連なりであり、山々がことごとく城下町の内外の行き来を妨げていることで、グラルホールドは古くより、よそとの交易・交流が盛んでなく、独特の文化を保持してきた。建築にしても、食物にしても、住民の生活様式は、山海の向こうの社会集団と比べれば、どこか鄙びていて、垢抜けなかったし、やはり一風変わっているのだった。
やや曇りがちの日のことだった。
オットーは町の中央の城の、城門のそばで、片手をひさしにして、空を見上げていた。相変わらず、短い髪で、眉毛が何となく『八』の字になっており、表情を気弱に見せている。昔と違うのは、肌の色が日焼けしたように濃くなっているところだ。
その恰好は、チュニックにズボンという軽装だった。肩掛けカバンを肩よりさげていた。
「オットーくん」、という声が聞こえると、城の中より、ひとりの男が現れた。「待たせてごめんよ」
「ベーラムさん」、と彼はひさしの手を下ろし、彼の方を向く。
男は、40歳代くらいで、オットーよりずっと日焼けしていて黒く、その日差しに真っ黒になった顔には、深い皺が刻まれており、笑ったり、眉をひそめたりすると、その皺の全てが複雑に重なったり並んだりし、表情を豊かに、また渋く見せるのだった。
しかし、一番の特徴は、その衣服であり、ベーラムという男の身にまとっているのは、オットーが着ているチュニックとは打って変わって、赤や緑の刺繍が随所になされた衣服であり、派手だった。また、帽子付きのゆったりした黄土色のポンチョを羽織っていた。
「わたしも、もう年だからか知らないが、物忘れがひどくてね」、とベーラムが苦笑をまじえて言う。「後から後から、手紙の宛先が思い出されてね、切りがなかったのだよ。忘れていた宛先を思いだしては、書くべき内容を一から考えて、全部書き終えて、また思い出してアッとなって……というのを繰り返していたら、遅くなってしまったのさ」
「お気になさらないでください」、オットーがにこやかに返す。「しかし、方々にお知り合いの方がおられるのですね。いつもお手紙を受け取る度に、感心します」
「仲間はたくさんいる」、とベーラム。「だが、方々に散っているのさ」
そう話すベーラムの顔は、微弱だが悲壮さを思わせるものがあり、背景に、何か事情があるようだった。
オットーがこのグラルホールドに住まうようになってまだ一年と経っていない。彼はその前までは、グルンシュロスの飛脚としてあちこちを走り回り、荷物や手紙を送ったり受け取ったりしていたのだった。
だが、彼にとって、グルンシュロスの城下町も、飛脚の事務所も、所長も、婦人も、仲間達も、実家の両親も、リーザも……今となっては、過去の思い出なのだった。
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