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出征などとんでもない。これはずいぶん遠足じみたものだと、クロロはその夜寝ようと横たわった時、奇異の念に打たれて思った。ただずっと馬を走らせ、敵との遭遇も戦闘もないままここまで来た。
いざという時に備えてキャンプに夜番を立てようという考えが起きないほど、山中にはひと気がなく、鳥獣や草木ばかりの剥き出しの自然があまねく広がっていた。
エルたちにとって気がかりなのは、木の枝にひっかかっていた、ひとが過日着ていたと思しき衣服である。持ち主がなくしたのか、あるいは他の事情があるのか、てんで推測が付かず、その服は謎を孕んでいた。
ひとの存在を思わせるアイテムだったが、戦闘員のものではないのは間違いなかった。夜番は結局、必要なしと決まり、全員平等に一晩まるごと休息出来ることとなった。
夜が更けていくごとに雨雲の面積は小さくなっていき、エルと彼の連れ合いが熟睡している間には、夜空はスカッと晴れて星々が煌めき、木の葉の先端に着いたつぶらな雨露に、その光輝が宝石のように美しく映り込んでいた。
フクロウがホーホーと機嫌よさそうに啼いており、月光が明るかった。
やがて夜が明け渡り、木の葉の枝の間をくぐり抜けて朝日が差すようになると、『光』の方面隊の内、エルがまず目覚めた。
目蓋が重たく明けきらない顔で、まだ寝ぼけた状態で、エルは上半身をおもむろに起こし、周りを見渡した。木漏れ日が幌の外側でたゆたっていて、小鳥のさえずりがさやかに聞こえる。
――思った通り、夜を通して何事もなかったようだ。
クロロも、他の騎士たちも、完全にくつろいだ状態で寝息を立てている。
――さて、山中に居着く部族というのは、果たして真実なのだろうか。それとも、想像によって生まれた伝説に過ぎないのだろうか。ひとがいなければ、出征の意味がないが……。
エルが物憂い思案をもてあそんでいる、その時だった。
ハッと彼は何かを察知したように目蓋をすっかり開け切ると、片膝を突いて座る格好になり、鼻で深く息を吸い、神経を研ぎ澄ました。
――何かがいる。そう遠くないところに。鳥獣の類ではない。思考力と感情があり、疑うことの出来る動物の気配……にんげんの気配だ!
賊だった頃の彼の嗅覚がまだ命脈を保っており、においでも、その気配が察せられるようだった。
他はピクリとも動かさず、エルは腕だけに意識を集中し、腰に帯びた剣の柄までじわじわ近付けると、そっと掴もうとし、相手との間合いを図った。
……。
……。
見えない相手の位置を直感で探り、周囲の自然音にまぎれている相手の呼吸を聞き取ろうとする。
――ッ!
さっと鞘より剣を抜き出し、そこだと思った方へと振り向いて構える。
するとエルは、ひとの姿を目撃し、瞬時に立ち上がって駆け出し、突っ込んで行く。
奇妙な装いの男の姿――だが、彼を戦闘員と見なすには、殺気がほとんどなく、また武装した感じもなく、彼はエルの鬼気迫る接近に対し、びっくりしたように、そそくさと逃げて行方をくらましてしまった。
エルは深追いせず、すぐに立ち止まり、剣を鞘に戻すと、深呼吸した。
「あいつらが、そうか」
その後彼はポツリと呟き、男の去った方をしばらくじっと見遣っていた。
不穏な空気を察してか、クロロが目覚め、まだ眠そうに目を手でこすりながら、だんだん鮮明になっていく視界の内に、幼馴染の後ろ姿を認識した。
エル……?
木漏れ日の散らばりの中に立つエルの姿は、クロロの寝ぼけた目には、どこか懐かしいようだったが、やっぱり、『光』の宗教騎士団の、忠義の厚い幹部騎士であり、昔の幼馴染の姿とは程遠い、なじみのないものなのだった。
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