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家族を悉く奪われ、連れ去られ、リーザの精神はすっかり悪く、一種の障害を起こしており、彼女は、日常会話さえまともに出来ないのだった。
だが、彼女を従えるザムエルは、特に都合が悪いということはなかった。
痴呆状態のリーザに、ザムエルはたっぷりと時間を費やし、種々の教育を施した。将来彼女を『光』の信徒にし、ひいては組織の上級職に就かせることが目的だった。ザムエルは確かに冷酷非道で、リーザに対し、彼女が心神喪失状態になるほどの惨い仕打ちを与えたわけだが、彼女が彼のもとに来て以後は、彼が口にしたように、愛娘のように、リーザを大切に扱った。
『光』の教義、神話の記された聖書が読まれ、天使を言祝ぐ賛美歌が歌われ、決められた祭儀における礼拝などの作法が学ばれた。
勿論、リーザの悪い状態では、彼女に何を教え込もうとしても徒労であり、実際リーザは、ザムエルの話や説法に耳を傾けはするが、言われたことの全てが、頭脳まで到達せずに消えていくのだった。
うんともすんとも言わないリーザに、ザムエルは、だが、苛立ちもしなければ、怒りもしなかった。彼にとっては、リーザに物事を説く時間が好ましく、楽しく、快いのだった。
あらゆる勉学は、監房とは別の部屋で行われ、リーザは特に拘束具を付けられなかったが、逃げる意志すらなく、ザムエルに呼び出される以外の時間は、ずっと監房の中だった。
ある夕だった。晩春の暖かい一日だった。
「おや」、とザムエルが夕陽に染まる、十字の格子のある円窓を見て言う。「そろそろ日暮れ時ですね」
「……」
だだっぴろい部屋。白い壁に、板の床。中央にポツンとひとつだけ机と椅子があり、座っているのは、リーザだった。両手を内腿に這わせ、彼女はずっとズンと、死んだように俯いている。
「そろそろ終わりにしましょう」
机上にあるあらゆる勉強道具や書物が片付けられ、整頓されると、ザムエルがリーザの腕を取り、立ち上がらせる。
そしてふたりは部屋を出、主人と犬のように前後して廊下を歩き、階段を下りて、暗い地下室まで戻る。
堅牢な鉄格子の扉が、ガシャンと重々しい音を立てて閉められ、施錠される。
「では、また明日」、とザムエル。
「……」 リーザは、無言で立ち尽くす。
クスリと笑うと、ザムエルは地下室を後にし、“レメロン大聖堂”の廊下を歩いて、とある部屋まで向かう。
コンコン、と扉がノックされると、室内より、入ってよいという返事が返ってくる。
「失礼します」
ザムエルが来たのは、ステンドグラスの窓のあるベッドルームで、窓には頭上に光の輪を浮かべた天使がかわいく笑っている。
「ヨハネス様」、とザムエルはベッドのそばまで行って跪く。
ベッドには、薄い白髪頭の皺くちゃの老人が半身を起こした状態でおり、そばには、介護役の助祭が立っている。
「少女の教育は順調かね」、とヨハネスが、かすれた声で、まるで盲目であるかのように、ザムエルと視線を交わさず、目を伏せて尋ねる。
「日々勉強のため、連れ出してはいるのですが、まだ意識が薄弱のようでして……」
「無理もない。何せ、短い期間に色々とツラい目に遭ったのだ。意気を挫かれて当然というもの」
「彼女は秀才と見込んで、わたしは連れてまいりました。きっと将来、我々の頼もしき同志となると確信しております」
「期待しているよ。ザムエル」、とヨハネスは、彼の方におもむろに顔を向けて述べた。「世はまだまだ混沌としている。秩序が不足している。人々は惑い、殺し合い、いたずらに傷付け合っている。我々が、導いてやらなければならない。この世には、須らく宗教が必要なのだ。それもたったひとつの宗教。我々の、『救いの光』が……」
仰る通りだと、そばの助祭が、普段そう言わされているかのように、無感情に言う。
ザムエルは深くこうべを垂れ、導師に敬服を示す。
極彩色のガラスで造られたステンドグラスが、明るい夕日に照らされ、神々しく輝いている。光を帯びた天使は、ただの模様でありながら、どこか生命を持っているように、生き生きとして見えるのだった。
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