さまよえるフリッツ【完結】   作:Yuki_Mar12

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第365話

***

 

 

 

 メンドンという村がかつてあった。

 

 かつてあったということは、今はもう存在していないということだ。

 

 農業が主な産業の寒村だった。深い森の深奥の辺境にあり、住民が少なく、地主と農奴の古い封建的関係が根強く、両者の格差が大きかった。

 

 だが、村の体制を変革出来るほどの知恵や勇気を持った英雄は一向に現れず、村の雰囲気は、いじめる地主の加虐といじめられる農奴の被虐が続き、ずっと陰険だった。

 

 そういった雰囲気においても尚、ささやかな幸せを求め、少しのもので満足しようと清貧に努める健気な精神の持ち主はおり、彼等は陰気くさい村において、農奴を始めとする弱者の模範であり、心の拠り所であった。

 

 どれだけ冷遇されたり、嘲弄されたり、悪罵されたりしても、健気な彼等は折れずに耐え抜き、悲しみや苦しみに晒されても明るい光に向かって微笑むことの出来る強さを示し、その姿は、どうしようもない劣等感に押し潰されそうだった者の励ましとなった。

 

 メンドンには、少年フリッツが、また、青年ブレイズが、それぞれ似通った境遇で、かつて暮らしていた。ふたりとも、片親で、母親しかおらず、また農奴であり、日々の暮らしは苦しかった。

 

 フリッツは、母が流行り病とされる病状が表れて死に、ブルーノという若い男に旅人として随伴することを提案され、旅のためにメンドンを去った。

 

 ブレイズは、母に決意と別れを――寂しさや心苦しさとは裏腹に――敢然と告げ、騎士になることを志し、フリッツ同様に――ただし、彼より前に――メンドンを発った。騎士として成功し、強くなった暁に、メンドンへと帰還し、母を救い出そうという青写真を、ブレイズは描いていた。

 

 ――更にもうひとり、メンドンを故郷とし、かつてメンドンが存在していた頃に、そこに住んでいた者がいた。

 

 

 

 その名を、ザムエルといった。

 

 

 

 彼はその頃、まだ頭髪が豊かにあり、しかも肩まで届くほど長い、日に当たると輝いて金色に見える薄褐色の髪で、また、白く滑らかな肌に、整った目鼻立ちの小顔であり、青年だった彼を女性と空目する者が、何人かいた。

 

 彼も、ふたりと同様に、母親しかいない家庭で育ったが、母子関係は円満で、彼は孜々として、農奴である母の手伝いに精勤し、彼女の負担を少しでも減らしてあげようと骨を砕いていた。

 

 ザムエルの母は、ザムエルと同様、美しい女性で、農奴という低劣な身分のために、地主・農奴に関わらず、嫌らしい男に色目を向けられた。

 

 ザムエルの母が華奢であると侮り、強引に手を出そうとする男たちが何人もいたが、息子のザムエルがそれを許さなかった。彼は短気に怒った男にぶたれても決して負けたりしなかった。

 

 ザムエルには、母は常に心配の種だった。忍び寄ってくる下心しかない男たち、そして彼女の従事する日々のツラい労働。

 

 ザムエルも、メンドンを出たいと思った。この苦境を脱して、どこかへ逃げ出したいし、逃げるべきだと思った。だが、そのためには元手がなかった。

 

 路銀は勿論、旅先で食い扶持を稼ぐための方策がないのだった。

 

 農業は、轍を踏むことになるからダメだった。母へのエスコートで、しなやかさを身に付けた彼は、あるいは都で第一級の身分とされる騎士に、訓練を経てなるのがいいかも知れないし、あるいはメンドンにいる数少ない職人の徒弟となって手に職を付けてから出るのがいいかも知れない、などと構想した。

 

 色々と案を練っているだけで、ひとは苦境にあっても、前向きな気持ちになれるものだ。

 

 ――春のある暖かい日のことだった。

 

 農作業が完了した夕暮れの帰途、ザムエルは母と共に家に向かって歩いていた。

 

 母子とも、くたくたに疲れていた。

 

 だが、夕飯をどうしようかなど、他愛のない話をして、和やかに、彼等は歩いていた。

 

 ふと、呼び止める者があり、ザムエルと母は立ち止まった。

 

 男だった。頭が禿げ上がり、鼻の下に髭をたくわえた、ごくふつうのおやじだった。

 

 ザムエルは、あるいはまた母に発情でもして声をかけてきたのだろうかと彼を不審に思ったが、どうも違うようだった。

 

 落とし物をしたのだと、男はオロオロして言った。

 

 その様子がどうにも不憫なので、ザムエルは彼の落とし物を探すのを手伝うことにした。

 

 ナイフを落としたという。革のケースに入っている上等なもので、大事なものだから、ぜひ見つけたいとのことだった。

 

 やれやれ、と青年は面倒に思ったが、他者に親切にすることは、彼の家庭では美徳だった。

 

 ザムエルは、母にそこで待っているように頼み、母は首肯した。

 

彼は男に誘導され、ナイフを落としたというところまで向かった。

 

 歩きながら、やけに離れたところまで行くものだ、とザムエルは妙に思ったが、疲労と夕暮れの薄暗さで頭がボーッとして、深い思考が出来なくなり、直感が鈍ってしまっていた。

 

 母を遠くにひとりで待たせておくのはまずくないか?……そういう懸念が、彼の心に浮上してきたが、疲れによる楽観視のため、閑却されてしまった。

 

 夕焼けに照らされるザムエルの影法師が、彼の背後に長く伸びている。その影の中に、また、周囲の草木や、建物などの影に、迫りくる夜の闇が、すでに忍び込んでいるようだった。

 

 

 

***

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