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――若き美少年ザムエルが探し回ってみても、男が失くしたという革のケース入りのナイフはなかった。
男と二人で手分けして探したが、やがてザムエルは異変に気が付いた。
最初はそばにいてボヤきながらいっしょに探し物していたはずの男が、いないのである。
ザムエルの背筋を、冷たい感覚が一直線に下りていった。
「母さん!」
そう叫んで、濃くなってきている宵闇の中、元いたところへと駆け出す。労働の疲れなど忘れ、第六感が告げる危機の訪れに、ただ地を蹴る。
あるいは想定される事態が杞憂であってくれればいい。母はまだひとりでポツンと息子の帰りを我慢強く待っており、母がかすかに不機嫌になる以外、何も悪いことは起こっていない。
あるいは、想定されている事態がすでに起きており、だが、母が抵抗して押し問答の段階でぐずついていれば、まだ救出の余地はある。
――息せき切って、ザムエルはひた走る。
そうして、元いたところへと帰着する。
彼の母は……倒れていた。地面に、ぐったりと。
「……。」
ザムエルは、そばに立って、その様を、蒼然とした顔で見下ろしていた。見てはいけないが、決して背けてはいけないものに注がれる目は、極度の動揺で、震えていた。
ナイフが、落ちていた。広い血のりの中に溺れる、すでに意識のない母の体のそばに。
目は半開きで、虚空を見つめる瞳が、不気味で、また、哀切だった。
ザムエルはその場に崩れて跪き、うつ伏せの母の背中に手を伸ばして触れた。
――冷たかった。
きっと、母を殺したのはあの男なのだろう。ザムエルはそう推定し、どういう報いが相応しいか、考えた。
ザムエルはそうして、優しい美少年の息子というみずからの個性を脱し、その時代を過去とすることとなった。
母を失った後のザムエルは、迫害を受けることとなった。要するにいじめであり、彼は地主から暇が出されて無職となり、食い扶持がなくなり、彼がたとえ金銭なり、交換の対象となる代物を持っていたとしても、拒絶され、いわゆる村八分の状況に陥れられた。
彼は家もおわれ、周囲を囲う森の中に潜むしかなかった。彼はそこで水たまりの水を飲み、木の実を食べて暮らした。
親の仇への報復を夢見、ザムエルはほとんど本来必要とされる栄養を摂取せず、甚だしい不健康の状態だったが、その夢の執念のために、生存できているも同然だった。
ある日、ザムエルは、急激に体調を崩し、数日間悶え苦しんで過ごした後、何とか一命をとりとめた。
彼はそれまで口にしたことのない木の実を見つけ、食してみたのだが、これが猛毒の木の果実だったのである。彼は胃を悪くし、腹痛と高熱を発症し、顔は破裂しそうに見えるほど赤らんだ。
本当は致死性の高い毒のある木の実だったのだが、彼の執念が彼を持たせたのだろうか、彼はただでさえ身体的健やかさを保てない生活にいたにも関わらず、みずからを蝕む毒を制し、生存した。
そして彼は、その紫色の小さい木の実をたくさん摘み取り、収集した。そして木の特徴を覚え、精査し、記憶した。
偶然見つけた野良犬を捕まえ、口に無理矢理毒の木の実を突っ込んでみたら、犬もザムエル同様、悶絶し、泡を噴いて死んだ。肌が赤くなったかどうかは、毛むくじゃらなので分からなかった。
その頃、ザムエルはやつれ切り、人相がひどく荒んだものに変貌していた。また、身なりもボロボロだった。
そのため、久々に村に帰っても、彼がザムエルだと分かる者はおらず、彼は熟考し、ひと気のない通りをいく男ひとりを殴打で不意打ちし、気絶させ、連れ去り、その口に木の実を入れ、咀嚼させると、身ぐるみを剥いだ。
男は気絶しながら段々と顔をあからめて、やがてそのまま冷たくなって死んだ。
衣類を盗んだザムエルは、着替えてこざっぱりした身なりになり、別人として村に入り込み、木の実を売り込んだ。誰かといっしょのことが多い相手ではダメだった。子供のいない未亡人、身寄りのないお年寄り、何らかの欠点のために異性に相手にされない成人男女……そういう人種に対してのみ、ザムエルは働きかけ、不老不死になれるとか、精力が付くとか、そういうよい効能をまことしやかに喧伝し、相手に興味を持たせ、無償で得させた。当然、彼等は皆素朴で、彼の言うことを信じて木の実を口にし、苦悶の末、死んだ。
相手を選んだので、彼はきっと追及されないと踏んでいた。独り身の者が勝手に死んでも、誰も大して気に留めることはないだろう、という風に。
だが、彼の手にかかった者の大半は農奴であり、農奴を使役する地主は、本来いるべき者が突如いなくなり、しかもその数が徐々に増えていることに、不信感を抱いた。
そして、ザムエルはとうとう見つかり、謎の男だったはずが、ザムエルだと白状させられて正体がばれ、多数者の毒殺の大罪を問われ、村の裁判の役割を担う会議のメンバーも、ザムエル自身も、彼がきっと死んで償うことになるに違いないと推測して疑わなかった。
だが、ザムエルにとって、彼が果たすべき報復はまだまるで終わってなどおらず、彼は隙を見つけて逃げ、ある日の深夜、火打ち石で飛ばした火花を移し、大きくなるまで育てた火の燃える木の枝を持って村に進入し、よく燃えそうな木の家に放火した。
春のよく乾燥した日で、火勢は強く、猛烈に燃え広がり、隣接する家屋も延焼し、村は大騒ぎになった。
水源が豊かで風呂屋のあるメンドンの人々は、夜中騒動に起こされ、大慌てで水を汲んで消火活動に全力を尽くしたが、桶に汲んでこられる水の消化力より、火の勢いの方が強く、段々と人々は、観念し、恐れを成して逃げだした。
やがて、逃げられる者は全員逃げ果せ、逃げられなかった者は焼け死に、メンドンは、滅亡の時が近かった。
その様を遠くでザムエルは、いい気味だと思って眺めていた。ここまですれば、報復としては充分で、どこかせいせいする気分だった。
メンドンの周囲は森だった。燃え広がる火炎は、村を越えて、森にまで移ろうとし、ザムエルのそばの木々も、とうとう燃え始め、夜の真っ暗闇が、夜明けのように明るかった。
ザムエルはだが、その場に立ち尽くし、火の手が迫ってきても、動かずに、ただ立っていた。
彼は、いつの間にか泣いて頬が濡れていることに気付いたが、同時にカラカラと復讐の爽快感に笑っていた。
火は熱かった。最初は暖かかったが、次第に温度を上げ、やけどするくらいになり、ザムエルの目前まで、火焔は来ていた。メラメラと大きく燃え、火焔は彼をも飲み込もうとしていた。
髪が燃え、服が燃え、死ぬほど熱く、彼はとうとう跪き、笑うことをやめ、涙も火のために乾き切り、最期を覚悟した。
その時ふと見上げた夜空には、満月が浮かんでおり、ザムエルは、あぁ綺麗だなぁと感嘆して、目を瞑った。
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