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「え?」
きょとんとして、ぼくは手を止めた。
夜が明けて、厩舎の馬の世話として、ブラシで体を磨いてやっているところだった。馬は気持ちよさそうに身を預けている。
「どうも近くで戦争が起きているんだと」
柱にもたれて腕組みしている彼が言う。
「戦争?」
「あぁ。夜中、負傷した兵士が一人、この村の出身らしいんだが、帰ってきてな、噂になったんだ」
「ふうん」
ぼくは再び馬のブラシがけに取り掛かる。
ゴシゴシしながら、戦争というものを考える。各地で大なり小なり戦いが起きているのは知っていたが、身近なものではなかったので、真剣に考える機会がなかった。
「リーザ嬢は?」
「まだ宿で寝てるよ。コンラートさんはその見守り役」
「二人きりにしてだいじょうぶ?」
「まぁ、だいじょうぶだろう」
特に災いの気配はなかった。ぼくも、二人は無事だろうと思った。
「近くなんだ。戦争」
「あぁ。あくまで噂に聞いただけだがな、その兵士は、敵の放った石弓の矢が刺さったっていうんだな。だが幸い急所は外れて、斃れずに済んだんだと。一応、騎兵で、馬に乗って逃げ帰ってきたらしい」
「なら、この厩舎にいるかも知れないね。その馬」
ぼくとブルーノは厩舎の馬房を見渡した。満室というわけではなくちらほら空いた馬房が見られるが、中でおとなしくしている馬のどれが、負傷兵を運んできた馬か、皆目分からないのだった。
「ま、そいつは今、傷の手当をしてもらって、家で安静にしていることだろう」
「矢が刺さったんじゃ、ね」
「とにかく」、とブルーノは言って、柱より背を離し、ピンと立つ。「地図で確認しておくが、戦争はこの村の近くだ。おれたちの向かう方角じゃなければよし、だが、そうであれば、迂回するか、最悪この村に留まるか、考えないといけない」
「そうだね」
「地形によっちゃ、そのそばを突っ切らないと、城下町に行けない場合がある。戦地がずっと同じところである保証はないし、流れてきた兵士とばったり出くわす可能性もある。出くわせば、襲われるかも知れないし、捕まって身柄を拘束されるかも知れない。だから、フリッツ」
「うん」
「前にも聞いたと思うが、お前は自分で戦える覚悟はあるか? おれの陰に逃げていたっていいが、お前は今回の旅、自分も仕事がしたいって打ち明けて、おれはその意志を見込んだから、武器もちゃんと買い与えてやったんだ」
ブルーノはまっすぐにぼくの目を見て、ぼくの心を洞察するように、尋ねた。
即答すればかえって怪しまれるし、かといって沈黙で返すのもダメだった。
ここまで、何も起きずに来た。それはたまたま運がよかっただけかも知れないし、ブルーノが組んでくれた道順のおかげかも知れない。平和な道のりで、リーザ嬢とも打ち解けて談笑して、楽しいと思った。
だが、そうだ。村の外、守られていない外部に一度出てしまえば、そこはもう安全ではないのだ。お金を持って命乞いしても、武器を持って戦っても、絶対助かるとは言えない。
今は村の中で過ごすからと、部屋に置いてきた短剣。ブルーノに買ってもらった、まだ一度も血をかぶっていない、新品の、キラキラして綺麗でさえある短剣。
この武器を、あるいはぼくは、ひとに向かって振るい、傷つけ、殺してしまうかも知れない。
「フリッツ」
不自然に空いたインターバルに、ブルーノがいよいよ不審の念を持ち始めたようだ。
「……」
「まぁ、いい」
ブルーノはそう言って、厩舎を去ろうと少し行ったところで立ち止まる。
「ここで質しても無意味かも知れないな。実際に命の危険に際すれば、おのずと明らかになる」
そして、彼は、情報集めにブラブラしてくると言い残し、「じゃあな」、と遠くへ行った。
馬が鼻をならし、ぼくはギョッとする。
いつの間にか、ぼくはまた、馬をブラシで磨く手を止めてしまっていたようだった。