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彼にとって、人目を盗んでこそこそすることは慣れていた。何となれば、彼はかつて賊として、そういう技術を磨き、実践していたからである。
山の夜更けは早く、陽光が消えれば、あっという間に暗闇となり、部族の者は皆、寝静まる。住処となっている洞穴の出入口には、一応見張りのために人員が配置されているが、ただ立っているだけでよかった。獣害くらいしか懸念材料のない山奥では、夜、夜行性の鳥獣が活発になるものの、人間が集まっている洞穴に、わざわざ近付こうとする種はなく、せいぜいヘビが休みに這ってくるくらいのものだった。見張りの仕事は、習慣的に、ただ洞穴の出入口で槍を抱いて岩壁に寄りかかり、寝ることになっていた……。
ある日、エルはとうとう、山奥からの脱走を企て、実地に敢行した。
春の麗らかだった日々が終わり、夏がすぐそこまで近付いていた。
洞穴で人々が雑魚寝している中、エルはむくりと起き上がり、灯のない暗中、夜目を澄まして抜き足差し足で出入口へと向かっていった。クロロのことが少々気がかりだったが、いずれ迎えにくるつもりでおり、暫時の別れだと思い、惜別の念をほどほどで振り切った。
さて、出入口には見張りがいる。だが、限られた期間ではあるが、エルは隅々まで目を配り、洞穴とその周縁でのサンドラ族の生活の様式を記憶した。見張りが基本的にいびきをかいていることは、彼の頭にインプット済みだった。
一応念のため、壁に背をピタリと付けて用心深く進み、外の気配に五感を研ぎ澄ませてみた。夜の静寂に、風にざわめく木々の枝葉の擦れ合う音が、獣の遠吠えが、鳥の羽ばたきが、その他色々な音が聞こえた。
彼はその内に、ひとが熟睡している時の深く間隔の長い息を聞き取ろうとした。そして彼は、それが聞こえるはずだという確信をあらかじめ持って耳を澄ました。
ゆえに、いくら集中しても目当ての音が聞こえないことに、エルは違和感を覚えたし、違和感を覚えたが早いか、彼のその確信が誤っていたのだと悟り、愕然とした。
(見張りが、起きている……?)
観察し、理解し、記憶していた事柄の真否が覆されたことは、彼に動揺を与えた。
サッとエルは洞穴を出、見張りの方を向く。
見張りが、エルを睨んで立っている。
夜空の微光に照らされてぼんやりと見える彼の顔には、見覚えがあった。彼は、先日エルとクロロが木立の中でヒソヒソ話していたところに割り込み、エルに厳しい一瞥をくれた男だった。
「お前、どこへ行く」、と男。すでに槍を正面に持ち、臨戦態勢という恰好でいる。
「……」
エルは、答える義務がないと沈黙し、また彼は、下手に問答をすれば、洞穴で寝ている連中が起き出しかねないというおそれを持っていた。
エルは懐中のナイフに手をゆっくりと伸ばすと、機を見計らって相手にとびかかった。
男は特にびっくりもせず、得物を駆使してエルの奇襲を退け、一刃をいなされた彼は、行き過ぎたが、すぐに振り返り、男の猛烈に押し迫ってくる影を認めた。
彼が只者ではないと認識されるまで、そうかからなかった。
決して言葉を発しないエルは、段々ヒートアップして来、その内鼻での、力む時の呼吸と弛緩する時の呼吸を繰り返すようになり、激しい攻防を繰り広げた。
やがて、エルは、相手がまともに対峙して勝てる相手ではないと悟り、しばし思案と共に立ち回ると、足で地面の砂利を蹴って舞い上がらせた。
大小の石が飛び散り、その内の幾つかが男に当たり、また視界が砂埃で遮られ、男は痛がり、また当惑し、その隙を狙って、エルは彼に徒手空拳でとびかかり、押し倒すと、その勢いで駆け出した。
山林の中に紛れ込み、そうすると、相手はエルを探し出すのが難しいのだった。
完璧に隠密に脱け出すのに失敗したことは、きっとうまく行くだろうと踏んでいたエルの自尊心を傷付けた。彼の脱走の企図が公に見抜かれていたわけではないにしろ、彼は結局ずっと疑わしい人物だったのであり、彼を警戒し、怪しんでいた者が、今回妨害して来、中々手ごわかった。
敵が追いかけてくるかも知れない――そう危ぶんだエルは、彼にあまり似つかわしくない焦燥感に駆られ、夜の山林を、尖った枝や鋭い葉の間をくぐり、細かい傷をたくさん作りながら、逃走したのだった。
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