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心臓がドキッとしたのは短い間だけだった。エルにとって、こういう急場は珍しいものではなかったのである。
そばにある藁の屋根と土の壁の小屋で眠っていたが、小さい馬の甲高い、危機を知らせる鳴き声のために起き出してきた何者かの接近を感じ、エルは馬を連れ去ることを一旦中断し、数歩後ろに退いて息を殺し、殺意をにじませて待ち受けた。
「……。」
相手がのんびりした血の気の少ない者であれば、エルが急所に拳を打ち込むなどして、ことは簡単に済むだろう。だが、大なり小なり練達した者であれば、あるいは彼と激しい取っ組み合いになるかも知れない。
「――一体全体どうしたっていうんだ。こんな夜中に喚き散らして」
そうボヤいて、頭を掻き毟りながら出てきたのは、ひとりの男だった。すっきりした短髪の青年だった。
彼はまだ寝ぼけているようで、中々エルの存在に気付こうとせず、彼の目前に来て初めて、目を疑うように唖然とした。彼の目尻は下がっていて、その表情に特徴を与えており、あくびでも連続したのか、目には涙が溜まっている。
「……!?」
両者において誰だという疑念がにわかに激烈に生じ、瞬時に身構えたが、男は、エルに対して見覚えがあるかのようであり、またエルにおいても、なぜか目の前の寝ぼけ顔の男が、初めてではないという気がした。
ふたりは記憶を遡ってみたが、奇しくも、遡及された時点は一致していた。
彼等は過日たまたま行き合わせたことがあった。それは、山中でのことだった。エルとクロロが、部族に捕われ、彼等の共同体の中に、完全には信用されないが一応仲間として組み込まれてしばらくしたある日、洞穴を訪れる者があった。男で、その名をオットーといった……。
その通り。今馬の鳴き声で睡眠を阻害され、起き出してきた男は、山の町グラルホールドにて、長ベーラムの召使として働く、オットーだったのである。
「いや、わたしの勘違いでしょう」、と彼は独り言めかして言う。「なにぶん眠たいものでね。目がよく見えないんですよ。しかも、連日、旅旅旅、と来てる。疲れてるんでしょう」
夜中に忍び込んできて、大人しい馬に悲鳴に近い鳴き声を上げさせた男を前にして、コイツは何を言っているのかと、エルは身構えつつ、呆然とした。
ふたりは、月影の明るい夜空の下、付かず離れずの間合いを置いて対面していた。馬は、あるじであるオットーが現れ、首周りを手で撫でられることで、ある程度落ち着いたようで、静粛になった。
「お前の顔は覚えている」、とエル。
「偶然ですね」、とオットー。「わたしもあなたのお顔には見覚えがあります。確か山中でお会いしましたね」
「あぁ」
エルは腰の後ろに伸ばしていた手を、やや屈めた姿勢と共に元に戻して、そう返した。
「バルビタールの方なんですね」
「そうだ。お前の中に、バルビタールに対して何か都合の悪いものがあるようだったから、あの時はあえて言わなかったが」
「……すっかり目が冴えてしまいました。正直、わたしはあなたが怖いです。それほどの殺意を漲らせて、ひとが怖がらないはずはありませんが」
「殺すつもりはない。今のところはな」
「何をお求めになるおつもりですか」
「馬と食糧。それだけだ。前回は外部の情報が欲しいと思ったが、今回は不要だ」
「馬と食糧」、とオットーは呟き、低く唸った。迷っているようだった。
「わたしがもし求められたものを断ったら、あなたはわたしを殺しますか?」
「愚問だな」
「……」
オットーはげんなりして閉口した。
ピリついた空気が辺りに漂った。オットーの反感と、エルの抑制している殺意とが混じり合うことで構成された、堅苦しい空気だった。
「思い上がりなどしておられないと思いますが」、とオットー。「わたしが今ここで、この馬のように喚き声を上げれば、この集落の人たちが一斉に起き出し、侵入者を追い詰めようとするでしょう」
サッと閃光が宙を走った。エルがさっき後ろ手に握っていたナイフが正面に構えられたのである。
だが、オットーは怯まず、「わたしたちは猫と鼠の関係ではありません。互角だと思っています」
「取引に持ち込むつもりか」
オットーはコクリと頷いた。
「ですが、高価なものを乞うつもりはありません。ただひとつ、バルビタールが軍主義化した背景が知りたいのです」
エルは眉を片方だけピクリと動かし、その問いの意図と答える内容を考えた。だが、彼は、オットーがそう期待しているのと同様、この取引をシンプルなものにしたいと思っていた。そこで、問いが提出された意図は無視し、ただ聞かれたことだけ答えることにした。
「『光』のことはすでに知っていると思う。バルビタールは『光』の古い“馴染み”だ。『光』は勢力をバルビタールに供する代わりに、バルビタールに、既存の宗教施設の明け渡し、及び宗教家の排斥と追放をさせたのだ」
「この戦乱の世で、生き抜くために、手を結んだと、そういうわけですね」
「それで満足か?」
「まぁ、自分の推測の範囲を大きく逸脱はしないものでした」
「じゃあ、約束のものを差し渡せ。馬と食糧」
「分かりました」
そう言い、オットーは小屋に戻ってしばらく籠ると、かごを運んできた。中には、食べ物が数種類入っていて、ドライフルーツや肉の燻製、パンの切れやチーズなど、様々あり、酒類においても、量においても充分で、エルは異存はなかった。きちんと加工された食べ物を目にすることで、空腹感が催された。
「馬に関しては」、とオットー。「わたしの商売道具かつ大切な家畜なので、遠慮してもらいたいのですが」
「何?」
エルがキッと彼を睨み付ける。
「それじゃ最初にした話と――」
「……ッ!」
オットーは馬の手綱を片手で握り、負けじとエルを睨み返す。すると、馬もまた気性を荒げ、今にもかしましく鳴きだしそうになる。
(チッ)
エルは舌打ちし、籠を持ち上げると、重そうに運びながら、背を向けて去っていった。
エルは、悔しさと空腹でイライラし、後日また侵入して馬を奪ってやろうかと考えたが、時間の無駄であり、また、オットーがきっと夜が明けたら、集落の者に厳重に警戒するように呼び掛けるなどして、次回は容易に侵入できなくなっているだろうと予測した。
得られたのは、唯一食糧だけ。
だが、エルにとっては、食糧だけで当面充分助かるのだった。