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高地の空気は、夏においても、さほど暑くはなかった。グルンシュロスというグラルホールドよりはるかに低地にかつて住んでいたオットーにとっては、驚くほど涼しく、確かに日中は陽光が強いものの、夜になるとほとんど寒いまでになるのだった。
届ける手紙を受け取ったオットーは、旅の支度を整えることにした。乗っていく馬の機嫌を取り、荷物を出来るだけ少なく軽くするため、精選してまとめた。旅の支度の時、いつも、オットーは、世の中が物騒だからと短刀のダガーを袋に入れていき、未だに振るう機会が来ず、彼はずっとその機会が来なければいいのにと思うのだが、いずれは来るという気がして、不安感と共に用意するのだった。
乾いた小さい丸パンを保存食として袋に詰める際、オットーは、メルという今回の旅先の女性の名を思い出した。彼女はパン屋をやっているという。パンは、決められた製法とそのための道具があり、決して原始的な生き方をするひとの食べ物とは言えない。従って、このメルというひとも、ひょっとすると、サンドラ族の紛糾の時に、伝統を超脱した新しい生き方を求めて、山中を抜け出たのかも知れない。全て憶測でしかないのだが。
やがて、旅支度が万端整い、オットーは、ある晴れた日の朝、グラルホールドを発つことにした。町の近傍の立派な御神木に向かって旅の一路平安を、ベーラム一家と共に祈願すると、彼の前に、いよいよ出立が迫った。
「じゃあ、気を付けてね」、とベーラムの妻が柔和に微笑んで、オットーを応援し、息子と手と手を取り合って先に去っていった。オットーは恭順に一礼して応えた。
「オットー」、とベーラムが、頭を下げる彼の背中をパシンと手で軽く打つ。
「はい」、とオットーは頭を上げてベーラムの方を向く。
「君は、恋人などいないのか?」
「恋人?」、とオットーは呆気に取られた風に返す。
「君も立派に日々精進している。わたしたちにとっては、よく出来た息子のように頼もしい限りだ。そういう信頼される有能なにんげんは、出来る限り早い段階で誰かと結ばれて、子どもを設けるのがいいものだ」
「は、はぁ……」
オットーは出し抜けの忠告にたじたじである。
恋人などいないし、彼の二十数年の間、いたことがない。うだつの上がらない、また垢抜けない彼は、そういう気に乏しく来ているのである。
「好きなひとのひとりくらい、いないのかね?」
「好きなひと……」
そう呟くオットーの頭に、ひとりのシルエットが、彼が進んで想起しようとしていないのにも関わらず、ぼんやりと浮かび上がってきた。濃い褐色の、後頭部の高いところで馬の尾のように結わえた髪が特徴の、目鼻立ちのくっきりとして表情の凛としたそれは、彼がかつて行動をしばらく共にしていた、彼がいたグルンシュロスの住人の、令嬢リーザのシルエットなのだった。
それがリーザだと分かった途端、オットーは身震いするように細かく顔を左右に振り、妄念を払いたいようだった。
待機している馬が、つぶらな瞳で、オットーを急かすように見つめている。
「まぁ、わたしも、無理は言わんよ。君にふさわしいひとが早く見つかるといいな」
そう言い、ベーラムはオットーの背中を平手で打ち、旅へと押し出した。
オットーは勢いでいささかつんのめったが、サッと振り返って「行ってきます」と頭を下げると、馬に乗って手綱を持ち、肩掛けの袋をユサユサと揺らしながら、前に進んだ。
オットーとベーラムはしばらくの間互いに手を振り合い、互いの無事を祈りながら、やがて別れた。ベーラムは城へと戻り、オットーは町を囲う連峰のひとつへと向かった。
彼の前には、下っていくやや急な斜面があり、その向こうには、青々とした木々に覆われた重畳たる山の並びが見え、上方には、モクモクと膨らんで伸びた雲が、広大な青空を流れていた。
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