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迫りくる宵闇の暗さとまだ明々と雲間より差す残照の明るさとでまだらになっている谷間の片隅で、オットーは旅の疲れやら目的地に到着した達成感やらで、馬の隣で、茫然と突っ立っていた。
小川に架かる橋を渡った向こうに立っていたのだが、ふと話しかけられ、オットーは我に返った。
「見ない顔だが、迷い込んだのかね」
ひとりの老人が、彼のそばにいる。曲がった腰の後ろで手を組むという姿勢で、首まである長めの白髪は、頭皮が透けて見えるほど薄く、口から顎を覆う髭も、やはり白い。
オットーが返事をするより前に、老人は「あいにく」、と言い出した。「この村に大したものはありゃせんよ。なにぶんこれだけ鄙びてるのでな」
「ぼくは、ある用事で来たんです」
「?」、と老人は小首を傾げる。「君は、賊ではないのか」
「違います!」、とオットーは困ったように眉を下げ、即座に否定して叫んだ。
彼の若々しい声は谷間に反響し、彼は直後、少し恥ずかしくなってしょんぼりした。
「妙だと思ったら、そうか」、と老人はひとり納得したように頷く。「ひとりきりの賊など、わしは今まで見たことがない。大抵この村にひょっこり現れるのは、兎か狐か鹿と決まっているが、まれにひとがやってくる。だが、このような辺境の村に好んで足を運ぶものなどなく、死に場所を求めてさまよってきた世捨て人や、来るべきところを間違えた間抜けな賊など、鳥獣より始末が悪いものばかりさ」
老人はそこまで言い、コホンと咳払いし、更に続ける。
「いや、誤解して悪かった。君は決してよこしまではない、信の置ける訪問者ということなんだな」
オットーは悪人のつもりがなく、かといって、善人と称するにもあまり自信がなかったが、老人と握手を交わし、それを仮の友好の証とした。
そばにいる馬は、疲れているのか、うなだれて静かにしている。
「会いたいひとがいるんです」、とオットーは、握手をほどいて告げる。「主人に頼まれて、手紙を届けに来たのですが」
「誰かね」
「メルさんとおっしゃいます」
「あぁ、パン屋の彼女か。君は彼女に会うことが出来るよ。だが、今日はちと遅い」
――どこからか、香ばしいにおいが漂って来、村の斜面の小屋の屋根の辺より、煙が立ち上るようになった。肉や野菜の煮込まれる時の、空腹を誘うにおいだった。
「――コンラートさん」
ひとりの男が現れ、彼は燃えるたいまつを持って、老人のそばに立っている。コンラート……思うに老人のことなのだろうと、オットーは推測した。
「もうすぐ日暮れです。あまり遅くまで出歩かれると、危ないですから」
「あぁ、そろそろ帰るよ」、と彼の諫言に、老人が返す。
比較的若く、それでも二十代のオットーよりはるかに年上の男は、ふと見知らぬ顔を見ると、きょとんとした。
「あぁ」、とコンラート。「彼は訪問者さ。賊でも世捨て人でもない、まっとうな、な」
紹介を受け、オットーは若干の照れ臭さと共に、ペコリと頭を下げる。
いつの間にか、たいまつの火が照らす範囲以外は、よく見えないくらい暗くなっている。
「そうでしたか」、と男。「事情を聞きたいところですが、今はとりあえず帰宅することにしましょう。コンラートさんを送った後、わたしが宿に案内します」
「宿があるのですか?」
オットーは意外という風に返す。
「えぇ。宿といっても、こういう寒村なので、宿泊客など滅多におりませんがね。経営者の道楽です。では……」
三人はまとまって移動することにした。といっても、村は狭いので、コンラートはある一軒の小屋まで来ると、そこでふたりと別れ、オットーと案内役の男は、いっしょに、宿である、コンラートの小屋とさして変わらないが、わずかにより大きい建物のそばまで来ると、明朝コンラートを含めて三人で再会することを口約束し、別れた。
すでに、時は進み、宵闇は完全に谷間の村をすっぽりと包み込んでいた。
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