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谷間の村の宿屋はおおむね快適だった。道楽で営まれてはいるが、宿泊客が少ないことに加え、清掃がマメにされているので、きれいだった。ひとりのひとが生活するのに最低限のスペースしかないし、素泊まりしか出来ない簡易宿だったが、オットーには充分だった。彼は部屋の隅の木製のベッドで熟睡し、夜を明かした。
次の日は晴天に恵まれた。
オットーは前日言われたように、コンラートと彼の世話人と思しき男と再会し、手紙の宛先であるメルという女性のパン屋へと案内して貰うことにした。
三人が歩いていると、香ばしいにおいがどこからともなく漂って来、近傍には、短い隙間を置いて並ぶ二軒の建物があった。片方は、他の多くのように、主に丸太で建てられた家屋で、別の方は、石を積み上げて出来た、こぢんまりした、物置くらいの規模の四角い建物だった。
石の建物の屋根には煙突が付いており、四角形の内の一辺だけ壁がなく、解放されていて、中がよく見えた。近付くと、ムッとした熱気が彼等へと流れてきた。
「お~い!」、とコンラートが手を振って大声で呼びかける。
すると、中にいるひとりの女性が――作業中のようだった――老人の声に反応して振り向き、目を見開いて、頷いて返した。
オットーは、彼女のよく焼けた肌色を見て、ベーラムを思い返し、彼の一族だとよく分かる外貌だった。肩ほどまである髪は癖がやや強く、両サイドでやや不格好に膨らんでいる。年の頃はよく分からないが、娘と言えるほど若くはなかった。目尻が吊り上がっていて気が強そうに見え、女慣れしていないオットーは、何となく緊張してくるのだった。
三人の訪れたそこが、メルの住所であり、かつ彼女の営むパン屋のパン工房を含んでいて、彼女は今、メラメラと火の燃える石のパン焼き窯で、パンを焼いている途中のようだった。
「ちょっと待ってくださいね!」、とメルが叫ぶ。「今焼いてるのが出来上がったら、行きますから!」
そう叫んで、彼女は、窯に突っ込まれている、金属の長いいかにも重そうなヘラを、柄を持って少し引き、パンの焼き具合を目視で確かめた。
仕事の邪魔をしないよう、オットーたち三人は少し遠くへと退き、木陰でしばらく待つことにした。
三人とも黙然としていたが、「彼女のことは」、とコンラートが不意に言いだした。「この村の皆、知っておる」
世話人の男は頷き、オットーは、「あのひとの出自について、ですよね」、と返した。
コンラートは「うむ」と頷いた。「たまに彼女の仲間、あるいはその使いが、手紙を届けにこの村まで遠路はるばるやってくる。忘れてしまうほど間が長く空くが、決して手紙のやり取りが途絶えたことはない」
「メルさんは」、とオットー。「山の民のことをどう思っているのでしょうか」
「昔のことだと思ってるよ。今は互いに離れ離れになり、関係が疎遠になった。彼女は彼女の意志で山を出、この村に来、パン屋を始めたのさ」
そう答えるコンラートに、オットーは更に問いを重ねようとしたが、待っている相手が、来たようだった。
「ごめんなさい」、と、エプロン姿のメルが、彼等のそばまで小走りでやってくる。エプロンは煤でうっすらと黒く汚れており、また、火気の近くで働いていたので、汗だくだった。
「見ない顔ね」、とメルが俯き気味にエプロンをポンポンはたきながらオットーに、いささか砕けた感じで言うと、顔を上げ、彼と目を合わせた。「よそからあたしに会いに来るひとの事情はよく知ってる。手紙を届けに来たのよね」
メルは両方の手をパンパンと叩きながら擦り合わせると、「ハイ」、と嫌にあっさりした身振りで、片方オットーのへと差し出した。
「あっ」、とオットーは狼狽えたように発すると、肩掛けの袋をお腹の前で持ち、口より手を突っ込んで中を漁った。
「おいメル」、と世話人の男が、どこか刺を含んだ調子で言う。「もう少し快く応じないか。彼は遠くからわざわざお前のために来てくれたんだぞ」
「あたしは頼んでませんよ」とメルがぶっきらぼうに返す。「サンドラ族。あのひとたちとの縁は、ほとんど切れてるも同然。時々来ては返事を書かされる手紙だけが、お互いの関係をかろうじて取り持ってるけど」
コンラートは、ふたりの話に対し瞑目して腕組みするという恰好で、じっと聞いているようだった。
「お前の親御さんが気を揉んで返事を心待ちにしてるんだろう。無碍にするべきじゃない」
「フン――ねぇ、手紙はまだかしら?」
メルは世話人の男の忠告を無視すると、険相でオットーを急かした。いかんせん手紙が束になっており、正しい一枚を選択するまで、手間がかかるのだ。まして、彼はいささかおどおどしており、その心理、心情が、彼の動作を鈍臭くしていたのだった。
まさかこういう風に気性の荒っぽい女性だとは、オットーは露も知らなかったし、ベーラムに聞かされてもいなかった。だが、このメルとベーラムたちの間には、ただ同じ部族の仲間であるということ以上の、断ち切れない深い因縁があるらしく、彼は怯懦の中で、関心を持つのだった。
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