***
自身が創始した宗教が、世界を覆わんばかりに波及した様を見るのは、老ヨハネスにとって、誇らしく、喜ばしいことだった。
後少しだった。『光』が本当に世界の人心を掌握するまでは、まだ、滅すべき邪道の教えがしつこく残っていた。
レメロン大聖堂にずっと留まっているヨハネスは、しかしすでに老衰し切って、寝たきりの状態であり、食欲が減退し、知能も低下していた。新しいことはほとんど受け付けなくなり、老人は、目覚めている時も、眠っている時も、心は夢路にいた。そこでは、彼の世界は、彼の望む通りの、ひとつの宗教による統一が果たされたものであり、完全なる平和と安寧に満たされていた。
夢路において、老人は、幸せだった。彼が忌み嫌った醜い争いはすっかり絶えてなくなり、皆が屈託のない笑顔で過ごしていた。疑いも、敵意も、反感もなく、それぞれが、ひとつの神を崇めることに献身し、鼓腹撃壌の平和を愛し、守っていた。
「――導師様」
と、誰かが老人に穏やかに呼びかける。
ヨハネスはゆっくりと目蓋を開き、にこやかに、瞳を、そばの椅子に座っている介護役の助祭に向ける。
「お加減はいかがですか」
ヨハネスは、スゥと息を深く吸って吐くと、「とてもいいですよ」、と答えた。「苦しみも悩みも、最早わたしを縛りはしません。わたしはようやく、自由の境地へと辿り着けたみたいです」
「そうですか」、と助祭は微笑んで言った。
彼は、ヨハネスが自力での生活が困難になった頃から、そばにくっついて、その容態の変転を間近に見てきた。
助祭の目には、ヨハネスは最早健全とは映っていなかった。いつからか、現実離れした言葉を口走るようになり、初め、助祭は困惑したものだが、やがて老人が夢の話をしているのだと悟り、やさしい気持ちで耳を傾け、決して口を挟んだり、否定したりしないように注意して応じるようになった。
教皇トーマスは、実権を握り、『光』の輝かしい歴史を世界に刻もうとしていた。父であるヨハネスの予後を悟り、呼び出される時を除き、接触しないようになった。父はボケてしまったのだと、トーマスは悟った、世界の統一への佳境に入っただけだというのに、父は、天使に誘われでもしたのか、早とちりして、理想郷まで先に飛んでいってしまったのだ、と。
ヨハネスは、実世界にて、『光』と、残り少ない抵抗勢力とが熾烈なる争いに火花を飛ばしているなど露知らず、自身の心に滾々と湧く夢の泉に浸り、その幸福感に、どっぷりと浴しているのだった。
老人の最期が近かった。彼は、本能的に自分の死期を察し、忘れ物がないか、確かめでもするように、自身の小さかった頃からヨボヨボになるまでの長大なる記憶を紐解くことにした。
既成宗教の聖職者だった彼の記憶には、カップルが結ばれる神前の誓いへの立ち合いの場面や、ひとの死を哀弔する場面が多かった。
彼の内により強い印象で残っているのは、哀しい思い出の方だった。眠るように棺に横たわる生白いひとの遺体に、葬儀に参列する沈んだ表情のひと、喪失感にしおしおと涙を流すひと。彼等の与える哀れという感じは、ヨハネスの胸を打ち、しょせん他人ではあるが、彼等の幸せを願った。そして彼等の幸せには、新しい宗教が必要だった。他と争う必要のない、絶対的、唯一の宗教である。
その創始に際しても、その後においても、彼はたくさんの人材を発掘しては採用し、資力としていった。親のいないみなしごを引き取って養ってやることが結構多かった。グレゴールに、ザムエルに、エルに、トーマス、等。皆、彼にとっては優秀であり、世話を見てやった、子どもの如き、愛らしい存在であった。
ひとり、彼にとって心残りとなる人物がいた。その人物は、彼にとって奇蹟と言うべき形で縁のあった青年であり、その名をブルーノという。
ブルーノが、ある冬の日の夕、雪深い森の中で倒れていた。ヨハネスは、青年は雪の中に埋もれていて、すでに息絶えているに違いないと思った。聖職者である彼は、弔うために、サッと体を整えようとすると、ほのかに体温を感じた。彼はまだ生きているのだ……!
聖職者は、遭難していた青年を救い、しばらく助けてやったが、青年は、命の恩人と、聖職者をよく慕っていたにも関わらず、やがて旅立っていった。彼は宗教とかそういったものにあまり興味がないようだった。ただ自由を求めて放浪していたいようだった。
ヨハネスにとって、印象深い出会いは幾つかあるが、ブルーノとの出会いはそのひとつで、彼が他の、例えばザムエルのように、面倒を見ることで懐いて、『光』の支えになってくれれば、という思いが、ないではなかった。
だが、ブルーノには、ブルーノなりの思いが、彼の意志が、あったのだ。
ヨハネスは、その意に任せ、ブルーノと分かれることにした。寂しかったが、訣別ではない別れだった。
「――ブルーノ」
「えっ?」
唐突に老人がうわ言のように口走ったが、助祭は聞き取れず、聞き返した。
「ブルーノという青年。あなたはご存知でしたか。ブロンドの短いくせ毛なんですが」
「さぁ? わたしの聞かない名ですが」
「そうですか」
ヨハネスは、特にがっかりする様子ではなく、柔和に微笑んだ。薄い、長い白髪の頭が、柔らかい枕に深く沈み込み、掛布団の上の。服の袖より出ている皺だらけの手は、どこか青ざめて、ひどく華奢だった。
彼は目を瞑った。何となく、目蓋が重かったのだ。
すると、何も見えないはずの目に、あの日のビジョンがぼんやりと見えた。よその村に葬儀のために移動したが、思いの他遅くなり、すでに暗くなってきた中、雪深い森を抜けようと、助祭たちと共に進んでいた。
ひとつの体が積もった雪に横たわっている、はずだったが、そこには何もなかった。
おや、と思ってヨハネスは立ち止まるのだが、連れ合いの助祭たちは、てんで気にせず進んでいき、ヨハネスを置いていく。
「ヨハネス様」
と、ふと声がする。
ヨハネスはハッとし、後ろを振り返ると、ひとりの青年を見る。
「ブルーノ」、とヨハネスはポカンとして言う。「あなたは、どうして……?」
「風にのってきたんです」、と彼は爽やかに返す。
すると、風が立ち、ふたりのそばを吹きぬけていき、たんぽぽの綿毛が無数に宙を舞う。辺りの雪の森はなくなり、春の草花が笑む庭園へと変わっていた。
「風……そうですか」、とヨハネスは納得し、口元を緩める。「あなたはわたしを、求めていたのですね」
「えぇ」と、ブルーノは頷く。「でも、ちょっとだけでいいんです。ちょっとだけ、話が出来るだけで」
「ちょっとだけなんて、寂しいことをおっしゃらないで」
ヨハネスは寂しがる苦笑と共にそう言うと、手を相手へと差し伸べた。
だが、ブルーノは悲しそうに首を左右に振って、握手には応じなかった。
「ヨハネス様には、ずっとお礼が言いたかったんです。死にぞこないのわたしでしたが、救ってくれて、ありがとう、と」
ヨハネスは伸ばした手を引っ込め、微笑んで優しく頷く。
「ろくでもない人生でしたが、それでも、一定の価値はあったように思えます。弟みたいなヤツと、妹みたいなヤツのふたりがいたんですが、それぞれ、半端者のおれに、よく懐いてくれました」
「あなたも、小さくか弱い命の保護を引き受けていたのですね」
ヨハネスが、自身がかつてみなしごをよく引き取っていたことと関連させて言う。
「ヨハネス様の影響でしょうか」、とブルーノは照れ笑いする。
だが、ふたりの笑いは、水面の波紋が次第に弱まっていくように、弱まり、彼等はやさしい微笑みを湛えて見つめ合った。
「お別れですか」、とヨハネス。
「お別れですね」、とブルーノ。
また会えるといいですね―ーとヨハネスが言うが早いか、風が再び立ち、ブルーノは舞い上がった夥しいタンポポの綿毛に紛れて、いなくなってしまう。
ヨハネスは、その場に残り、いつまでも、ブルーノのいた形跡を見つめ、どこか寂しそうに、微笑んでいるのだった。
その日、トーマスまで知らせがあり、だが、彼は特に驚かなかった。
導師様が、お亡くなりになった、という知らせだった。
***