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『光』の創始者であり、長きに渡り仲間たちを助け、導いてきたヨハネスの逝去は、急報として各所に、センセーションと共に伝えられた。
インベガまで出征した軍にも漏れなく伝えられ、訃報に接したエルは、愕然とした。彼は陣営にいて、互いに拮抗する戦いの概況をじっくり見つつ、戦略を練っているところだった。
だが、エルは否応なしに動揺させられることとなった。
彼にとって、ヨハネスは、ひとつの尊い象徴だった。幼少時、あまりいい大人と接さずに過ごしてきた彼において、ヨハネスは、ほとんど唯一といっていい例外だった。虐げるしか能のない大人たちによって精神をズタズタにされ、あるいは腐るしかなかったかも知れないエルに、希望を見出させたのは、ヨハネスの慈しみだった。ヨハネスを含む、ごく僅かの人物に対してのみ、エルは、信頼とか、友愛とか、誠実という感情を実感として学ぶことが出来た。
彼のためであれば、エルは献身が出来た。だから彼は、傭兵だったところ、正規の兵に抜擢され、武功を積んで精鋭となり、最終的に、『光』という大組織において、右腕といってもいいほどの地位までなり上がることが出来たのである。
「――エル様!」
しばらく茫然自失で、彼は騎士に呼ばれていることに気付かなかった。
「あっ、あぁ」、とエルは、間の抜けた返事で返す。
「我が軍の拠点で戦闘が始まったようです。あなたの小姓であるリーザのいる拠点です」
「リーザ」、とエルは呟く。「あの女は、戦況を確実に把握するためにわざわざ拠点まで赴いたが、果たしてザムエルがどう言うかな」
エルは、どこか心ここにあらずという感じでボーッとしていた。
「エル様」、と騎士が、物言いたげに顔をしかめて言う。「導師様はご高齢でした。いつお亡くなりになってもおかしくない状態でした」
「分かってたさ」、とエル。「だけど、どこかで、最後まで――おれたちが世界を手に入れるその時まで、生きていてくれるって信じてた。なぜって、世界統一が、導師様の宿願だったからな」
時は夕暮れに差し掛かろうとしていた。暑いほどだった日差しはすっかり弱まり、秋らしい冷気が、漂いだしている。『光』もインベガも、双方相当程度、疲弊している。一時休戦状態に入る時は、そう遠くないように思われた。
……。
ザムエルはあまり大きい武器が好きではなかった。手のひらにすんなり収まるくらいのものが好適で、昨今導入された“銃”という代物は、気に食わなかった。何と言っても銃は長く、また重く、使用するのに諸々の手続きと小道具が擁される。コンパクトでない上に面倒なのは彼の好みではなかった。彼にはナイフが最適だった。小さいけれど、ナイフは刃物であり、弱点を狙えば、即死をさせられる。
ザムエルは、山中のサンドラ族の戦士と争い、地面と樹上という高低差のある中で、苦戦を強いられていたが、敵の隙を窺って投げた石がうまく急所に命中し、落下した戦士をナイフで仕留めた。
そうすると、ザムエルは木立の中にひとりだった。
彼は俊敏に次への行動を考案しサッと動いた。
藪の中を、逃げていくインベガの避難民に対して、ザムエルは、付かず離れずの距離を保って追っていた。避難民は、ザムエルが突然登場した時に気が動転したようで、誰も彼もが、恐れと共に走って逃げている。彼等、非戦闘員の何とも弱弱しい姿は、ザムエルを陰険に微笑ませた。
やがて、彼は、避難民が衛兵に誘導され、町と外を区切る城門を通って町に入っていく姿を、木暗い陰より覗いていた。
それ以上の接近は要注意だった。インベガの城壁には大砲が設置されており、また見張りの兵士がたくさんいる。どれだけザムエルが俊敏でも、この城壁を破ることは出来ないのだった。
しばらくどうするか考えると、ザムエルは、ひとまず引き返し、仲間を連れてくることにした。彼は隠密行動を得意とする者数名を選任し、町に忍び込むつもりだった。
元々、インベガの避難所を襲うための拠点として、小さいキャンプが山中にあったのだが、兵士たちが出立する時に引き払ってきてしまったので、奇襲の後の連行が失敗して散り散りになった仲間たちは、今はきっと、最寄りの陣営に戻っているだろう。そこまではやや遠いが、仕方がない。インベガの城は堅牢で、決して容易には陥落させることは叶わないに違いない。
ザムエルは、インベガの見張りにも、まだ潜んでいるかも知れないサンドラ族の戦士にも気取られないように、慎重に道順を選んで移動した。
連山の内のひとつまで、彼は隠密に向かった。そこに、最寄りの陣営があるのだった。山中とはいえ、サンドラ族の縄張りではないみたいだったが、遅かれ速かれ、存在に気付かれるのは必至であるため、限定的に使用される陣営だった。
道中、ザムエルは、偶然味方の兵士と出くわし、彼は伝令のようで、僻地である、ザムエルが目指す山中の陣営まで、彼と同様、向かっているようだった。
伝令は知らせを持っていたが、そこで、ザムエルはヨハネスの訃報に接するのだった。
ザムエルは最初、耳を疑った。だが同時に、ヨハネスの逝去が、高齢と老衰のため、最早ありえない状況ではないと知っており、落ち着いてこの喪失を受け入れようとしている自分がいるのでもあった。
「ハハ」、とザムエルは藪の中で、引き攣った笑いをこぼした。「世界の統一まで、後少しの課題を残すばかりだというのに、導師様。あなたはどうして……」
彼の痣に覆われた頬を、透明な雫が伝い、まるで露のように、草葉の上にホロリと乗り移り、微かにたわませると、地面まで落ちた。
「ザムエル殿。ここは危うくございます。まずはご移動を」
兵士がそう諫言する。
「分かっている」、とザムエルは冷徹に即答する。「分かっているさ、だが、ちょっとの間だけ、悲しみに打ちひしがれる時間をおくれ。わたしは、わたしの人生で最大最良の人物を喪ってしまったのだ」
ザムエルは、近くの幹の太い木陰に移ると、腰を下ろし、背を持たせた。そし伝令に自分より先に陣営まで行って、早急にその訃報を伝えてくるように言い、樹上にいるかも知れない敵に気を付けるよう、忠告を加えた。
伝令は恭しく辞去すると、俊足で離れていき、ザムエルはひとりぼっちとなった。
秋の藪の中は、ややジメッとしていて、まだ虫たちが活発に生きて動いていた。蝶が舞い、甲虫が樹幹の蜜を吸い、蜘蛛があちこちに網状の巣を張っていた。
「おいたわしや、導師様」、とザムエルは宙を見上げ、呟く。「志半ばで早くも天上界に行かれるとは。でも、お幸せだったことでしょう。なぜなら、あなたには、大家族があった。自身の力で新たに得た、生家ではない、別の家族です。わたしの如き不運なる卑賤とは違い、あなたは、麗しいことを成就なされた。本当に、羨ましい」
そこまで言うと、ザムエルは膝を抱いて俯き、嗚咽を漏らした。全身が嗚咽に合わせて震え、彼の悲しみの流露は、奔流のように激甚で、しばらくの間、やみそうになかった。
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