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「フリッツ」
と、彼女は静かに呟いた。何かを確かめるように、彼女はその響きにみずから耳を澄ましていた。
リーザは、広原の木立に囲まれた広場にて、フリッツと、付かず離れずの隔たりを挟み、対面していた。そばには、彼が決闘で破り、殺害した騎士の亡骸が、鮮血に浮かんでいた。
リーザは『光』に付き、フリッツは、インベガに付いていた。かつては共に旅する仲間だったことのある彼女等は、この戦争においては、それぞれ敵対する勢力に属していた。フリッツは血のりのべったりと付着した短剣を、リーザに構え、他方リーザは、ただそこに、無防備に立ち尽くしているだけだった。
「リーザ様」、とフリッツが返す。「わたしのこと、覚えておいでですか?」
「えぇ」、とリーザは微笑みと共に頷く。
別人の如く嫌に冷静に振舞っていた、リーザのぼんやりした瞳が、失っていた何かを取り戻したのか、生気を宿したように、フリッツの目には、輝いて見える気がした。
「――ゲールフェルトから、グルンシュロスまで、わたしたち、いっしょに馬車で旅したわね」
「……」
フリッツは、目の前の人物の翻然たる変化に、戸惑いを隠せなかった。
「全てきちんと覚えておられるようで、安心しました」
と、フリッツは言い、短剣を鞘に仕舞う。
「しかしなぜ、お嬢様が戦地においでで?」
「わたしは……」
リーザは俯き、顔をしかめ、何だか言いにくそうだった。
鬨の声が、絶叫が、ふたりを挟む木立の向こうより、小さく響いてきた。すぐそこでは、恐るべき命の奪い合いが、熾烈に行われているのである。
「わたしは、自分の意志でここに足を運んだんだ、と思う」
「何ですって?」
フリッツは妙に思って聞き返す。
「ずっとぼんやりしてて、自分でも、自分が何してるのか、よく分からなかったんだけど、ずっとわたしの目に、わたしの姿はちゃんと見えていた。朝起きて、夜寝るまでの間、ずっと。だけどね、その自分の姿が、まるで自分じゃないようだったの」
すぐには理解が出来ず、フリッツは眉をひそめる。
「そもそも」、と彼がどこか気重そうに言う。「リーザ様は、『光』に与して、この戦地に来ておられるのですか?」
リーザは、即答しなかったが、しばらく間を置くと、ゆっくりと頷いた。
フリッツはギョッとし、彼女との旧交を温めるどころではなく、敵対するしか仕様がないのかと諦念しないといけない状況を想い、失望した。
「わたしには」、とリーザ。「もう、帰るべき場所も、甘えられる家族もない。皆、なくなっちゃった」
「だからって、なぜ、『光』なんかに?」
「『光』には、わたしみたいに親をなくしたひとたちが結構いるの。わたしが側仕えしている騎士のエルっていうひとも、そう」
「思い改めてください」、とフリッツが哀訴する。「あなたのお父さんのシュトラウスさんは、そしてお母さんは、ただ連れ去られただけであって、亡くなったわけではないじゃないですか」
リーザは冷笑し、「わたしと両親は」、と言う。「かれこれ数年もの間、顔を合わせてないのよ。それだけの期間ずっと離れていたら、もうどうしようもないって観念してしまうのは、別におかしくもなんともないことなんじゃないかしら」
フリッツは首を左右に振った。
「ぼくは、リーザ様が羨ましかった。村でお会いしにお家にお邪魔した時、お屋敷の大きいこと、風にそよぐ麦畑の広いこと、そして何より、あなた方親子の関係の円満であること。執事のコンラートさんも、実の親子のように、あなたと打ち解けていた」
リーザは、半ば悲しそうに、半ば忌々しそうに、口を歪めた。
「わたしは、旅路で口にしたはずです。わたしは母親しかいませんでした。そしてその母親は、ぼくがまだ小さい頃に病死し、ぼくは孤児になってしまったんです」
「やめて」、とリーザは両手で顔を覆い、嫌がって叫ぶ。「わたしだって、完璧に諦観したんじゃないの。何度も何度も、頭にパパやママやコンラートの顔が浮かんでくる。だけど浮かぶだけで会うことは叶わないから、そのたびにわたしは、自分の心を殺して、そのイメージを消すようにしてるの」
フリッツは、手を差し伸べる。
「来てください。お嬢様。『光』は危険ですから」
「……」
リーザは頭を抱えた状態で、伏せた目で、不安そうにフリッツの手を見つめた。
その内、リーザの目は、また前のように、遠くを見るようにぼんやりとし、彼女は、「行かない」とポツリと呟いた。その声はひどく小さかったが、フリッツの耳には、やけに通って聞こえる気がした。
彼は呆気に取られたが、リーザはまた、心中に現れた慕わしい両親の像を消すのに必死になっているのだろうと、憐憫と共に思った。
鬨の声が響いて来、その波は、段々と近付いてきた。
リーザの側より『光』の軍勢が、そしてフリッツの側よりインベガの軍勢が、進撃して来、ふたりの背後より近付き合い、やがて、互いに衝突した。
リーザは騎士に抱えあげられて馬に乗り、戦場より離脱するように、遠くへと走っていった。
フリッツは、ぼんやりとしていた意識を、みずから両頬を張ることでシャキッとさせ、正面の敵軍を睨み付け、応戦する気構えを整えた。
ぼくと彼女は――フリッツとリーザは、なぜ相容れることが叶わなかったのだろう。彼には不思議だったし、また悲しくて仕方がなかった。
彼等に敵対しなければならない切実な事情など、果たしてあっただろうか。否、なかった。ただ各々の属する勢力が違うという、それだけの事情で、かつて行動を共にし、打ち解けていたはずの青年と少女は、手と手を取り合うことを、断念しなければいけなかったのである。
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