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鬼神の如き獰猛さでもってインベガの者たちを次々になぎ倒していくのは、『光』の将官、エルだった。
ヨハネスという、エルにとって親のように信の置ける、かつて孤児だった彼の養育者であり、先導者でもあった男の逝去は、彼にとって絶大な意味を持っており、それ以前と以後とで、彼の心根は変わってしまったようだった。
喪失感を覚えたエルは、今後のことを予想し、憂えた。もう『光』に、彼の居場所はないように思われた。騎士になる前は賊だった彼は、卑しい出ということで、そうでない仲間から差別的態度を取られたが、ヨハネスが目をかけてくれることで、彼は腐らずに、また落ちぶれずに済んだのである。擁護者であるヨハネスが死したことで、そのポストを求め、熾烈なる内部闘争が行われることだろう。そして、その闘争にエルが加わることはない。彼は卑しい出ということで締め出され、閑職に追いやられ、つまらない仕事を押し付けられるだろう。
ヨハネスの死後、インベガとの戦争に対するエルの動機付けは、そういうわけでなくなったように思われたが、彼は人が変わったように奮闘した。
ある意味、彼は元に戻ったようだった。賊だった頃、ひとの物品を盗んで生活していたのが、騎士になって、親同然の存在をなくして、自暴自棄のようになって、当時、奪う対象だった物品が、人命に変わっただけのことである。
最早、エルがどれだけ武功を立てようと、ヨハネスのように彼を賞美してくれる者はおらず、栄進する資格がない欠格者の無用の努力として、かえって煙たがられるか、せいぜい都合のいいように利用されるだけである。
――大雨のインベガ。降り注ぐ無数の雨粒が、地面を跳ねる。傷付いた者、殺された者の体より流れる血が、雨によって流され、洗われる。
辺り一帯の敵兵を掃滅したエルは、高まった殺意を保ったまま、スゥと深呼吸し、大きく吐き出した。さほど疲れてもいないのに、興奮のせいで、肩で息し、胸の鼓動が止まず、拍動がするたびに、体全体がズキンと痛むようだった。
彼はみずからの喉を手で強く掴むと、「ぐぅぅ」、という犬のような唸り声を上げた。
――大工だった頃の親方や仲間。そしてヨハネス。クロロ。信じられるものがあったというのは、彼にとって幸せといえることだった。だが、そういうものを信じた先に待っていた現実がこれだというのは、献身してきた彼にとって、あまりにも報いがなかった。彼は天上の神を呪い、最早信仰に生きる敬虔なる信徒ではなかった――元々そうでなかったかも知れないが。
「――。」
エルは、泣きたいはずだったのに、涙は一滴も出なかった。あるいは、この雨に混じり込んで自分で分からなくなっているだけだろうか。
「――エル」
そばに、その名を呼ぶ声がした。
エルは空を見上げていた顔を正面に戻し、彼の目に見えたのは、男にしては長い、今では雨に濡れてペタンコになっている髪と、未だに幼少の頃と変わらない瞳の、いつか物別れになった彼の小姓だった。
「クロロか」、とエルが無感情に言う。
「久しぶり」、とクロロ。
「迎えに来たが、戻ってくるか?」
「……。」
エルの口気は、とてもかつて友だった者を迎えに来る時のものではなく、とにかくズンと沈んでいた。そのため、クロロはうまく返事が出来なかった。
「こっちに来なよ。エル。『光』なんかじゃなくて。自由が生きてるこっちに」
そう言って、クロロが手を差し伸べる。
だが、エルは俯き、どこか気重そうだ。
「そっちには行くつもりはない」、とエルが絞り出すように言う。「この戦いは『光』が勝ちを手にする」
「結果はまだ分からないじゃない」
エルはどこか悲しそうに首を左右に振る。
「時代の流れは『光』にある。その勢いはもう止められるものじゃない。中にずっといたおれには、確かにそうだと分かる」
「そんな……」
悲しみと共にそう呟いたクロロに対し、エルは、腰の鞘に納まる細い、刀身の緩やかに湾曲した剣を、スゥと静かに抜くと、旧友に向ける。
「おれには、もう帰る場所はない」、とエル。「『光』にもなければ、他にもない。本当の根無し草さ。元々流れ着いた先が『光』だったんだ。ただの盗人だったおれなんかを拾ってくれた恩人は死んだ」
クロロはエルの言葉に、ヨハネスの死を悟る。
「おれは……お前を殺さないといけないんだろうか」
そう言われ、クロロは、雨の中でも怪しく光る剣の切っ先を見つめる。
エルの精神状態の非常に悪いことは、クロロにはすぐに分かったし、急ぎ、説得して生き延びる方向に誘導することが望まれたが、彼の思いは、彼の怯懦や教養の乏しさが災いし、うまくいきそうになかった。
――ふと、鬨の声が聞こえてきた。『光』だろうか。インベガだろうか。いずれにせよ、騎士とそのかつての小姓が対面しているのは、町の通りであり、いつ味方が、敵が、やってきても不思議はなかった。
エルは声のした方を振り向くと、ちょうど馬に乗った騎士を先頭とする小さい部隊が、彼の方へと猛進して来、その雰囲気より、『光』ではないらしいことが推断された。
ボーッとしているエルに対し、クロロは反射的に逃げる恰好になり、駆け出したが、そこに留まるエルを振り返ると、「エル!」、と大声で呼んだ。
「――敵将官! 貴様の命、貰い受ける!」
そう叫んで突進してくるのは、インベガの将官ブレイズだった。彼と彼の引き連れる仲間は、焦燥感を燃やし、ようやく、迂回して町まで侵入した『光』に追いついたのだった。
エルはナヨナヨしてはいたが、慣れた動作でくるりと振り返り、騎兵を迎撃するべく剣を構えた。
雨で視界が悪く、エルはいつまで経っても、有意に動くための手がかりを見出すことが出来ず、やがてブレイズの斬撃をもろに肩に受け、その場に跪いた。
「……あぁっ!!」
首だけで振り返った状態で走るクロロが、危地に瀕する、血を流すエルのところまで、すぐさま引き返そうと逆向きに走り出す。
「容赦などしない。覚悟!」
と、ブレイズは、大剣を振り上げる。
ブレイズとエルの一対一の場。
エルはだが、ただ、対峙するブレイズの顔を低いところより目だけで見上げるだけだった。彼の持っていた剣は、斬撃を受けた時に落とされ、彼はすっかり無防備だった。
――だが、エルは隙を見逃さなかった。
彼は、ブレイズが腕に負傷しているらしいと、その動作を見て推知すると、大剣による強力な斬撃を肩の傷口に再度受けると同時に、彼に組み付き、サッと取り出したナイフで、ブレイズのこめかみの辺を突いた。
互いに抱き合う恰好の、エルとブレイズは、それぞれ致命傷を負い、その場にいっしょに崩れ、地面にぺたんと座り込むようにして、動かなくなった。段々と、その場に、二人の血液が溢れ出し、雨に混じって広がり、流れる。
クロロは衝撃のためにその場に立ち竦んで目を大きく見開いたが、一方で、ブレイズに付いて馳せ参じたフリッツも、彼と同様、相手と刺し違えることになったブレイズを見、血の気を失って硬直した。
辺りでは、まだ死闘が繰り広げられているようで、喚き声が絶えず上がっており、絶え間なく、大雨の音がザーザーと続いている。
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