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オットーはザムエルを殺めようとしたナイフの刃が、石を敷いた硬い床を突いたことで零れている様を、ぼんやりと、しゃがんだ姿勢で見下ろしていた。刃の先端が欠けて短くなったナイフは、何とも心許なく見える。
リーザも彼のそばで、彼とおおむね同じようにしゃがみ、両膝に手を置いている。
「ぼくも」、とオットー。「こんなところでお嬢様と再会するだなんて、予想だにせず、心底びっくりしてます。お嬢様は、てっきりグルンシュロスで悠々と学生生活を送っておられるものと思っておりました」
「わたしだって、オットー、あなたはグルンシュロスで相も変わらず、荷物運びに東奔西走しているものと思ってたわ」
「ぼくには、色々あったんです」
「わたしだってそう、色々あった。ここで詳らかにするのが面倒に思うくらいにはね」
「お嬢様、その黒い装いは……」、とオットーが、彼女のポンチョに目をやって、遠慮がちに、訊くでもなく訊いてみる。
「わたしは、『光』の信徒になったの」
「……」
オットーは、いささか眉を顰め、渋面を呈すると、「お嬢様のことです。何か深慮遠謀がおありなのでしょう。わたくしめには、特に異とするところなどありません」
「そう。あっさり納得されて、寂しさはある。でも、むしろありがたいかも知れない。わたしの今の状況をわたし自身が開示するのは、苦しいものがあるから」
彼等のそばで冷然と佇んでいるマルテが、足を運び、ミアを庇うフリッツと対峙するザムエルの傍らへと行く。
「……?」
ザムエルが彼女を横目で見、ミアは、「マルテ」、とその名をどこか忌々しがるように呟く。
「ザムエル様」、とマルテ。「ミアは、組織にとってあまり有用ではないと思われます」
「なぜだ」、とザムエルは問う。
「反感が、彼女の心を満たしています。彼女は容易には、気を許さないでしょう」
ザムエルは、目をミアへと向け、品定めでもするように、じっと見つめる。
ミアは、彼の陰鬱にくぼんだ目に射ぬかれ、竦んだが、勇気を振り絞り、訊いてみることにした。
「わたし、お母さんとお父さんをずっと探してるんです。あなた、どこにいるかご存知ないですか。ゲールフェルトの捕われたひとたちの行方が」
「ゲールフェルト……あぁ」
と、ザムエルは、村を知っている風の反応を見せる。
「たまたま覚えていたが、あの村のことか。あそこにいた者は、洗脳――もとい、指導のために『光』の施設に、隔離及び収容されていたが、抵抗勢力に襲撃されたようだ。一報があった」
「えっ……」
ミアはその意味するところを即座に認識し、顔面蒼白になる。フリッツも同様に。
「以前、ゲールフェルトの者の中に、ひとり脱け出した者がいると聞いていたが、まさか、君ではあるまいね」
「襲撃されたって、つまり……」
「我々をよく思わない連中の仕業さ。抵抗勢力の存在は致し方ないが、我々はじき、世界を統一する。ヨハネス導師の御名のもとに」
ミアはガクンと跪き、フリッツのチュニックの背部を掴んでその場に崩れる。
「ミア!」、とフリッツが首だけで振り返り、心配で呼びかける。
「悲しいものだ」、とザムエル。「施設を襲った連中は、きみと同じように、『光』に抗う強い思いで、出来れば討ち滅ぼそうとして襲撃したに違いない。だが、殺害されたのは、指導する立場にある、少数の聖職者と兵士、そして、指導される立場にある、大多数の無辜の人々というわけさ」
「そんな……」
ミアは絶望に打ちひしがれ、倒れんばかりだった。フリッツはザムエルに対して身構えるのをやめ、ミアと肩を組み、励ましの言葉と共に彼女を支えてやった。
ザムエルは、冷たい眼差しでふたりを見下ろしている。
――彼の話に、ミアとは別に、密かに衝撃、それも、途轍もない衝撃を受ける者がいて、リーザだった。
彼女は、ザムエルに洗脳された身で、グルンシュロスの寄宿先の伯父伯母を殺されることで、精神的に損なわれたが、まだ、完全にダメになっているわけではなく、いくばくかの自我が残っていて、その自我が、ザムエルの話に反応したのだった。
リーザの両親も、ゲールフェルト村の者であり、従って、ザムエルの言った施設に送り込まれたらしいことが、今になって推知された。
しかし、ミアの両親共々、リーザの両親も、有志の襲撃を受けて、死んでしまったのかも知れない……。
リーザは、お腹の辺がギュッと縮まるような感覚を覚え、激しい苦痛と衝動に襲われ、強く目を瞑ると、すぐさま開き、サッとオットーの手より、欠けたナイフを奪った。
「ッ! お嬢様!?」
「あぁぁぁぁああぁぁぁあぁぁぁ!」
オットーが驚いて制止する間などなしに、リーザは背中を向けるザムエルの方へ、狂声を上げ、ナイフを手に一心不乱に突っ込んでいき、そして、欠けてはるが、まだ鋭い先端で、彼の背部に突き刺したのだった。
刃が肉を裂き、何本もの血管を破る。充分深くまで刺し込めたという感触を覚えると、リーザはナイフの柄より手を離した。
ナイフの突き刺さったザムエルの体が、一瞬ビクンと大きく震えた後、血が大量に流れて来、その場に膝を突き、うつ伏せに倒れた。
マルテは、驚倒で目を大きく見開いて口元を両手で押さえたが、すぐにザムエルのそばにしゃがみこみ、その名を呼びかけ、容態を確かめた。
周りに密集している避難民は、この殺人にめいめい悲鳴を上げ、大部屋より、怖れを成して逃げ出していった。
ポツンとその場に立ち竦むリーザは、手に付いた返り血をまじまじと見下ろし、恐怖で震えていた。まるで自分のしたことが信じられないとでもいう具合だった。
オットーが、彼女の背後より近付き、両肩に手を置くと、「落ち着いてください。大丈夫ですから」、と呼びかけ、同じセリフを、呪文のように何度も繰り返す。
程なく、リーザは強く目を瞑り、その隙間から、大粒の涙が流れ、ポタポタと滴った。
「ごめんなさい」、とリーザは、動揺と激情のため、ひどい声色で、誰に対してでもなく言う。
彼女は、ただ「ごめんなさい」という言葉だけを繰り返した。まるで、誰かの許しを請うかのように。
だが、誰も彼女に許しを与えられる者はおらず、皆がやりきれない思いで、リーザが落ち着いて泣き止むのを待つばかりなのだった。
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