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いつの間にか、わたしは眠ってしまっていたようだ。目覚めたらすでに朝になっていて、わたしの寝ていた廃屋の屋根の穴から、空が晴れているのか、朝日がスゥと一本の筋を描いて床に差し込んできていた。その様が綺麗で、わたしはしばらく寝ぼけ眼で見入っていた。
眠りは深いもので、感覚では二日くらい意識がなかったように思えるが、屋根の穴からは、雨粒が滴ってきており、床には水たまりがあり、雨が降っていた昨日の痕跡は、すぐ近くにまだあった。
さっぱりと目覚めたわたしの目には、世界が昨日とは別様に見えた。呪わしい世界が、望ましい世界へと翻然と転じ、母が、ブルーノが、ブレイズが、コンラートさんが――わたしの慕っていたひとたちが、皆まだ生きて元気に過ごしているという気がした。それくらい、明るい気分がわたしに、健やかな目覚めを切っ掛けとして萌した。
だが、本能的に、わたしは知覚していた。そういう明るく優しいイメージとダブって、その背景に、残忍で醜い現実がうっすらと、しかし厳然として存在して見えていた。
その重みは――ここが廃墟であり、明るく快い夢路ではないということや、わたしがそう望んでももう生き返ることのない、死人たちの不在による欠損感などの重みは、あっという間にわたしを挫折させるほどのものであったが、不思議と、わたしは高揚感があり、へっちゃらという感じがし、肩に頭を乗せたままのミアを起こさないようやさしく床に横たえると、すっくと立ちあがった。
その辺に投げたポンチョを風邪などひかないように彼女にかけてやると、わたしはひっそりと廃屋より外に出た。
空は思った通り晴れていた。天涯まで青く澄み渡り、その青は、宝石のように磨かれた青で、美しいくらいだった。
廃屋のそばにとめておいた馬が、大人しい眼差しでわたしを見つめている。それは、あるいはどうすればいいかと指示を請うようであり、あるいはどうするつもりかと様子見しているようでもあった。
とりあえず、わたしは母の墓に参りに行った。覚えのある道順を辿り、草ボーボーの上を歩いていくと、廃屋の集まりより外れた区域の、はびこる草むらの隙間に、墓石が散見された。墓石はあるいは傾いだり、崩れたり、欠けたりしており、年月の経過を大いに偲ばせた。
母の墓は、長年の風雨に晒されていくぶん傾いており、わたしはだが、厳粛な気持ちで、墓前にしゃがみ込み、合掌し、黙祷のためにうなだれた。涙が自然とこぼれたが、激情を伴わない涙で、制御できるほどの悲しみのためだけに、わたしは慎ましく落涙した。わたしはこれまでの、そして今ある悲しみや苦しみを俯瞰することが出来ており、妙に冷静だった。溺れようと思えば易々と溺れてしまえるほどの感情がわたしの内に怒涛の如くわいていたが、わたしはフワフワと宙に浮くようで、体が軽かった。
「ただいま」、と声をかけると、わたしの耳に、かつて聞いた母の声で、「おかえり」と、聞こえてくるようだった。その笑顔が、華奢なやつれた体が、しらみのある頭が、懐旧の念と共に回顧された。
わたしは微かに笑むと、立ち上がり、無性にお腹が空いた。そういえば、ここ最近まともに食事していなかった。飢えがわたしを乱暴に操作しようとしている感じだった。
雑草の中に、たんぽぽが咲いていた。程よくしっとりとして、決して貧弱ではない、そこそこ肉厚の花弁のたんぽぽだった。たんぽぽは、何度か口にしたことがある。
わたしは葉っぱを千切ってサッと衣服で拭いて口に入れ、咀嚼してみた。いくらか苦味があったが、飲み込むと清涼感があった。わたしは根っこごとそのタンポポを引き抜くと、複数枚葉を千切って続けて食べた。
食べれば食べるほど、わたしの食欲は増すようだった。わたしは次々とその辺に自生するたんぽぽを摘み取っては食べ、そうしている内に、たんぽぽ畑を作りたい、と思うようになった。
畑に出来る区画など、この廃墟には有り余るほどであり、わたしはある程度空腹が満たされると、畑の跡地に向かい、自生する弱弱しい作物と共にはびこる雑草を根こそぎ取り除き、そこに、たんぽぽを植え、増やすつもりだった。農作業をしながら、わたしは、たんぽぽを調理することを想像し、焼いたり炒めたり、調味料で味を付けたりしたいと思った。
没頭していると、ふと、声がし、わたしは作業の手をとめた。
「――何してるの、フリッツ?」
振り向くと、きょとんとした目でわたしを見ているミアがいた。
「畑を作るのさ」
「畑?」
「うん。たんぽぽのね」
そう言って、わたしは雑草との格闘にまた取り組む。
ミアは呆れ顔でそこに突っ立っているだろうと、わたしはいささか気後れしたが、その想像に反し、ミアも畑作りに参加し、わたしのそばで、わたしと同じようにしゃがみ込み、雑草を手で引き抜いて除去し始めた。
「たんぽぽだけじゃ足りないでしょ」、とミア。「ニンジンだってジャガイモだっている」
「肉も欲しいなぁ」、わたし。
「じゃあ、牛か豚か鶏を飼わないとね」
「じゃあ家畜を飼うために、小屋が必要だね」
「小屋をたてるには、材木が要るわね」
「家だって要る。働くのは大変なんだ。休まなきゃ」
「飲み水だって必要よ。風が冷たいけど、こうやって作業してたら喉が渇いちゃう」
「水はばっちりさ。この辺は水量が豊かなんだ」
――わたしとミアの口から、欲望の言葉が連続して聞かれ、ひとつひとつのあったらいいもの毎に、夥しい仕事が付属していた。やることが盛りだくさんだった。きっと、わたしたちふたりだけでは、到底叶わない欲望が列挙され、しかし、わたしたちは全部叶える気概でいた。
わたしはふと思い出し、ズボンのポケットより、布の切れ端を取り出すと、そばに立つ一本の幹の太い焦げた木の残骸の、折れた枝の根本に、結わえ付けた。ブレイズの着ていた衣服の切れ端であり、メンドンまで大切にしてきた形見だった。
風が吹くと、その切れ端が女性の長い髪のようにユラユラと揺れてなびいた。何となく風流に見えて、結局わたしは、彼にまつわるものは何一つとして見つけられなかったけど、わたしにおいて、満足が行った。
わたしは笑みを浮かべ、ミアを振り向くと、彼女も、木の枝に括られたブレイズの形見を見て、破顔しているのだった。
行き止まりだったはずのわたしたちの目前には、いつしか道が開けていた。それは、荒っぽく険しく、平坦とは程遠い、ヘビのようにうねった困難な道だけど、とにかく道であり、わたしたちは、前に進むことを許されていた。
ここでまた、わたしは、ミアは、再びみずからの生を営んでいくのだ。今まで、世界の大いなる歴史の流れを、その中にどっぷりと浸かって見て、感じて、みずからの身を持って全て体験し、その喜びや快さを味わい尽くし、また、その苦しみや悲しみや惨たらしさを嘗め尽くしてきた。
世界は進んでいく。わたしたちも、進んでいく。それぞれの足並みは、互いに交わるかも知れないし、やっぱり平行線を辿るかも知れない。けれど、各々には行くべき行き先がきちんと用意されているのであって、わたしも、ミアも、その他の人々も、ただその行き先に向かって足を運んでいくだけだった。その過程で、喜びがあれば、苦悩もあるだろう。だが、全てはそれぞれの道のりに付与された運命であり、必然であり、間違いではない正しいものであり、わたしたちはただ、受け入れさえすればいい。
長きに渡ってさまよってきたわたしの旅の結末は、結末であって、同時に、始まりでもあった。最初にいてくれた母やブルーノはもういないけど、今はミアがいてくれる。わたしは決して、不幸ではない。
ふと、一匹の白い小鳥が、ブレイズの切れ端のある木にとまる。わたしは気付いてじっと観察したが、ミアは気付かずに作業に集中していた。
わたしはしゃがんでいるところ、立ち上がり、ゆっくりと近付いていったが、小鳥は逃げずに、枝と枝の間に引っかけるようにして作った巣の雛に、餌を口移しで与えているようだった。まだ産毛しか生えていない複数の互いに密接した雛が、ピヨピヨとかしましく餌をねだり、貪欲に食べる姿は、印象的だった。
滅び、死んでいるはずの場所に、こうして新しい命が芽吹いている様を目の当たりにするというのは、何とも感慨深いものだった。焦げた木の小鳥と雛と巣は、わたしにとって、とても象徴的だった。
終わりだと思っていた場所で、また新たに何かが始まる気がする。わたしたちが始めるのだ。
ふるさとという過去への道が、未来に通じている。命の火の灯る限り、わたしは弛まず、先へ向かって歩き続けていく。
(完)