さまよえるフリッツ【完結】   作:Yuki_Mar12

58 / 451
第58話

***

 

 

 

 牛を見かけると、ふるさとの村を思い出す。

 

 後、母のことも。

 

 あまり行き届いた世話は出来なかったが、おいしい乳を我が家に恵んでくれたあの牝牛は、結局、手放すことにした。

 

 母が亡くなって以後、ぼくの生活は根本的に変わることを余儀なくされたし、新たに家主となって家事を切り盛りして、その上更に乳牛の飼育まですることは、確かに考え得る展望ではあったが、まだしょせん子供に過ぎないぼくには、荷が重すぎた。

 

 牝牛は引き取り手を探し、託した。血も涙もない話をすれば、売り物にしてその対価として金銭を得るということが出来た。みなしごには等しく金銭というものが乏しいもので、手に入れられるなら是が非でも手に入れるべきものであるが、ぼくは情があったので、牛はじぶんが信用出来るひとを厳選して譲った。

 

 今頃どうしているだろう、と幌より顔を覗かせて後ろを見遣り、何となく、その顔付きや、瞳の潤いや、牛舎の独特の臭気などを思い返した。

 

「フリッツ」

 

 ふと呼びかけられる。リーザ嬢だ。

 

ぼくは、幌の中に顔を戻し、「はい」、と返す。

 

「何を見てるの?」

 

「特に、何も」

 

「……?」

 

 腑に落ちないという様子だ。無理もない。

 

「いえ、じぶんが来た方角に目を向けて、ちょっと郷愁に浸ってたんです」

 

「あら、ホームシックってやつ?」

 

「だったら、むしろいいのかも知れません。ぼくにとって、ふるさとはもうないのも同然ですからね」

 

 令嬢は沈痛な面持ちになる。

 

「悪いことを訊いちゃったわね」

 

「いいんです。気にしないでください」

 

 ぼくは指で幌をめくり、再び外を見た。今度はあの人混みだった。ぼくは白けるような、腹立たしいような、複雑な気分でその模様を彼方に見下ろすと幌を下ろし、軽くため息した。

 

「こう言っちゃ悪いけど」、と令嬢。「あなた、まだわたしとそう変わらないくらいの子供のくせして、よく郷愁なんて言えるものね」

 

「……おかしいですか?」

 

 ぼくがきょとんとして問うと、令嬢は力強く首を縦に振った。

 

「じじくさい」

 

 彼女はしかめっ面してそう言い放った。

 

 ぼくは、「はぁ」、といささか困惑したように相槌を打つだけだった。

 

「老けてるっていうことですか?」

 

「そうじゃなくて」

 

 令嬢は俯いて手で額を押さえ、呆れたように眉をひそめると、顔を上げた。

 

「わたしはね、フリッツ、これから城下町へ行くの」

 

「承知してます」

 

「城下町へ行ってね、親戚のお家にしばらくお世話になって、学校に通うのよ」

 

 ぼくは、ふんふんと従順に頷いて傾聴する。

 

「わたしにとって過去なんて、今は何の興味もないわ。今、振り返ったってね、せいぜい、まぬけ面したちっちゃいわたしが、四つん這いでウロチョロしてる馬鹿馬鹿しいシーンが見えてくるだけ。懐かしくも何ともない」

 

 そう言われ、ぼくはぼんやりと、リーザ嬢がまだ言語も覚束ない幼齢の時の、そのハイハイする様を想像してみた。すると、やはり微笑ましいと思うが、彼女自身にとっては、彼女の言う通り、どうでもよいものなのだろう。

 

「わたしたちが生きているのは今だし、これから生きるのは未来なんだっていうのは、当たり前のこと。過去はもう失われてしまったもので、後戻り出来ない。だったら、今という時間を、未来へと向かって生きる方が、郷愁に浸るより、有意義だし、有益じゃないかしら」

 

「仰る通りかも知れません」

 

 そう答え、納得し、ぼくはそこで、会話に区切りを付けようと思った。令嬢の意見を認め、唯々諾々と受け答えすれば、全ては平滑に済む。

 

 だが、ぼくの気まぐれか、「ですが」、と抗弁する形を取って、応じてしまったのだった。

 

「旅人であるぼくは、折に触れて、立ち返りたいと思う過去があるんです。きれいな山野の風景や、おっかない野生動物や、見たことのない模様の蝶や、忘れ得ない印象をくれたひとたちなどに……。ぼくのふるさとだった村も、そのひとつなんです」

 

 ぼくは言った後で、失言したという感じを覚えた。

 

 幾分かうろたえて、「そういう習性だというだけの話です」、と締めたが、目の前で足を組む令嬢は、意に染まないというような三白眼で、睨むように、ぼくを見つめているのだった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。