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牛を見かけると、ふるさとの村を思い出す。
後、母のことも。
あまり行き届いた世話は出来なかったが、おいしい乳を我が家に恵んでくれたあの牝牛は、結局、手放すことにした。
母が亡くなって以後、ぼくの生活は根本的に変わることを余儀なくされたし、新たに家主となって家事を切り盛りして、その上更に乳牛の飼育まですることは、確かに考え得る展望ではあったが、まだしょせん子供に過ぎないぼくには、荷が重すぎた。
牝牛は引き取り手を探し、託した。血も涙もない話をすれば、売り物にしてその対価として金銭を得るということが出来た。みなしごには等しく金銭というものが乏しいもので、手に入れられるなら是が非でも手に入れるべきものであるが、ぼくは情があったので、牛はじぶんが信用出来るひとを厳選して譲った。
今頃どうしているだろう、と幌より顔を覗かせて後ろを見遣り、何となく、その顔付きや、瞳の潤いや、牛舎の独特の臭気などを思い返した。
「フリッツ」
ふと呼びかけられる。リーザ嬢だ。
ぼくは、幌の中に顔を戻し、「はい」、と返す。
「何を見てるの?」
「特に、何も」
「……?」
腑に落ちないという様子だ。無理もない。
「いえ、じぶんが来た方角に目を向けて、ちょっと郷愁に浸ってたんです」
「あら、ホームシックってやつ?」
「だったら、むしろいいのかも知れません。ぼくにとって、ふるさとはもうないのも同然ですからね」
令嬢は沈痛な面持ちになる。
「悪いことを訊いちゃったわね」
「いいんです。気にしないでください」
ぼくは指で幌をめくり、再び外を見た。今度はあの人混みだった。ぼくは白けるような、腹立たしいような、複雑な気分でその模様を彼方に見下ろすと幌を下ろし、軽くため息した。
「こう言っちゃ悪いけど」、と令嬢。「あなた、まだわたしとそう変わらないくらいの子供のくせして、よく郷愁なんて言えるものね」
「……おかしいですか?」
ぼくがきょとんとして問うと、令嬢は力強く首を縦に振った。
「じじくさい」
彼女はしかめっ面してそう言い放った。
ぼくは、「はぁ」、といささか困惑したように相槌を打つだけだった。
「老けてるっていうことですか?」
「そうじゃなくて」
令嬢は俯いて手で額を押さえ、呆れたように眉をひそめると、顔を上げた。
「わたしはね、フリッツ、これから城下町へ行くの」
「承知してます」
「城下町へ行ってね、親戚のお家にしばらくお世話になって、学校に通うのよ」
ぼくは、ふんふんと従順に頷いて傾聴する。
「わたしにとって過去なんて、今は何の興味もないわ。今、振り返ったってね、せいぜい、まぬけ面したちっちゃいわたしが、四つん這いでウロチョロしてる馬鹿馬鹿しいシーンが見えてくるだけ。懐かしくも何ともない」
そう言われ、ぼくはぼんやりと、リーザ嬢がまだ言語も覚束ない幼齢の時の、そのハイハイする様を想像してみた。すると、やはり微笑ましいと思うが、彼女自身にとっては、彼女の言う通り、どうでもよいものなのだろう。
「わたしたちが生きているのは今だし、これから生きるのは未来なんだっていうのは、当たり前のこと。過去はもう失われてしまったもので、後戻り出来ない。だったら、今という時間を、未来へと向かって生きる方が、郷愁に浸るより、有意義だし、有益じゃないかしら」
「仰る通りかも知れません」
そう答え、納得し、ぼくはそこで、会話に区切りを付けようと思った。令嬢の意見を認め、唯々諾々と受け答えすれば、全ては平滑に済む。
だが、ぼくの気まぐれか、「ですが」、と抗弁する形を取って、応じてしまったのだった。
「旅人であるぼくは、折に触れて、立ち返りたいと思う過去があるんです。きれいな山野の風景や、おっかない野生動物や、見たことのない模様の蝶や、忘れ得ない印象をくれたひとたちなどに……。ぼくのふるさとだった村も、そのひとつなんです」
ぼくは言った後で、失言したという感じを覚えた。
幾分かうろたえて、「そういう習性だというだけの話です」、と締めたが、目の前で足を組む令嬢は、意に染まないというような三白眼で、睨むように、ぼくを見つめているのだった。