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敵が追いかけてくる気配はなかった。
馬はやがて足取りを緩め、挙動の乱れていた荷台は落ち着いて、ぼくらも、張り詰めた緊張の糸を幾分か和らげることが出来るようだった。
村を離れ、野原を突っ走り、至ったのは、湖だった。ひとけのない、自然の湖。
今、時間はどれくらいだろう。
空は澄んで青いが、どこかしゅんと悲しげな色をしていた。
風が吹いており、その流れが触れる湖面は細かく波立っている。湖を隔てた向こう側には針葉樹の木が群がっており、その更に向こうは、岩肌のいかめしい重畳たる連峰だ。
少し休もう、敵もいないことだし、と、誰が言うでもなく、ぼくらは湖に寄り、憩いを求めた。皆、戸惑っていたし、疲れてもいた。
湖面が照り返す日が淡い。キラキラしていて綺麗だけど、どこか頼りない感じがあった。秋になったからだろうか。
食うか、とブルーノがパンを差し出した。彼はすでに食べていて、幾つかストックしているようだった。
ぼくらは水辺に並んで座り、くつろいでいた。
ぼくは、うん、と彼の働きかけに応じ、パンを受け取ると、一口齧り付いた。パンはおいしくもまずくもなかった。食べ物を味わう余裕がなかったのだ。ぼくに限らず、ブルーノも、心は、もっぱら荒廃した村の謎に囚われていたに違いない。
コンラートさんは、湖面に口を付けて給水している馬のそばで、その毛並みを撫でていた。
「みんな」と、ぼくは、独り言めかして呟く。「どこへ行ったんだろうね」
「さぁな」、とブルーノ。「殺されてはいないと思いたいが」
「人質ってこと? みんな、人質にされて、どこかで捕まって閉じ込められたりしてるってこと?」
「あぁ、捕まえた村人の村を管轄する金持ちに、身代金を要求出来るからな」
ブルーノは、どこか達観した風に、「まぁでも」、と続けた。
「その要求が突っぱねられでもしたら、人質はみな用なしになる。それがどういうことか、おれは敢えて言うつもりはない」
「えっ……」
ぼくは言葉を失った。
「ちょっと小便してくる。すぐ戻る」
ブルーノはそう言って立ち上がり、適当な物陰を求めてどこかへ消えた。
ミアが、仮にだが、誰か悪い奴ら――物質主義者で、私利私欲のために他者を蹂躙し、侵略するような奴らに捕まって、そいつらが、その身柄の安否と引き換えに、金品なり、村の自治権なりの譲渡を、政治家とか、将軍とか、そういう権力者に迫ったとする。そして……?
ぼくはミアの村の領主は知っているが、村を管轄するより大きい、リーザ嬢を送った城下町のような社会集団については知らない。ブルーノは知っているだろうか?
その社会集団が、ミアの村をどの程度重視しているかが問題になる。重んじていれば、敵の要求に対して出来る限り応じようという姿勢を取るだろう。
だが、反対に軽んじていれば……
ミアの命は、人権は、暴漢の手に渡り、そして……
コンラートさんが馬を撫でる手を止め、「ハァ」、と深いため息を吐く。
ブルッと、ぼくは身震いした。
寒いからではない。
決して、寒いからでは……。
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