***
いい湯だったような、違うような……。
もやもや複雑な気分で風呂を上がると、母と約束した時間だった。
髪を濡らした女性が、お風呂屋さんの前の石造りのベンチに座っていたが、母だった。
「お母さん」
「あら、フリッツ。グッドタイミングね。わたしもちょうど今出てきたところなの」
ゆうべ目にしたシラミの斑点はなくなっている。やはり入浴は有効だったようだ。
「気持ちよかったわね」
「うん」
死相を見た気がした母の顔を、改めてまじまじと見つめる。
「……。」
その時のじぶんの表情がどのようなものだったのか知る由もないが、ぼくの視線は、母をいくぶん戸惑わせたようだ。
「何、どうしたの。わたしの顔に、何かついてるの?」
死相は、今は見えなくなっている。
「ううん。別に何も」
ぼくは首を左右に振ってそう答える。無暗に母を心配させたくないものだ。
ゆうべ見えたあの不吉なもの、ぼくに束の間危惧を植え付けた凶兆は、気のせいだったのだろうか。
「お母さん、今日は仕事は?」
そう訊くと、母はしばし考えるように低く唸った。
「どうしようかしらね。せっかくの休みの日くらいは、ゆっくりしたいと思うけど」
休養したいという人間的な自然な欲求と、空き時間はみっちり働くべきだという強迫的な義務意識がせめぎ合っているようだ。
――おい、お前。
入浴中、ぼくに話しかけてきた男だが、いったい何者だろう。彼はぼくより先に湯を上がった。
「とりあえず」、と母が言う。「しばらくゆっくりしましょう。髪も濡れてるしね。せめて乾くまでは、何もしないことにするわ」
「うん」
普段働きづめの母が休養を取るというのは、嬉しいことだった。仕事をしている母のそばで何もせず過ごすというのは、肩身の狭い思いのするものだ。
「フフッ」
上機嫌そうに、母が微笑む。
相変わらず、物悲しい陰翳が目蓋の辺を覆っているが、窮境に屈しない忍耐強い悦びが、同時にあった。
そういうわけで、ぼくらは当面、うちで過ごすことにした。
風が立ち、ぼくらのそばを通る。まだ濡れたままの髪の間を通る風は、温度を奪い、スースーする感じだ。
今日も晴天に恵まれた。雨の気配はない。いずれ降るだろうが、今日も大丈夫だろう。だからといって、出かけたいなどとはあまり思わない。お金がかかるし、わざわざ体力を消耗するのは、明日からの労働に不利になる。
道中、何やら荒い息が聞こえた。
息はすぐそばで聞こえる。
母の息が荒いのだ。
ぼくは顔色を窺う。すると、ほんのりその頬が、赤く火照っているように見える。気のせいかといえばそうとも言える感じだが、どうだろう。
「お母さん」、と小声で、恐る恐る呼んでみる。
「……。」
だが、母は気付かない。茫然と前を向き、心ここにあらずといった様子で歩を進めている。
姿勢はピシッとしているが、もしかして、しんどいのだろうか。