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《彼》は、平凡な男だった。
年は二十を過ぎ、独身であり、それまでも大して劇的な出来事に恵まれた人生ではなく、むしろのっぺりとした、ひとに語って聞かせるにはいささか退屈な人生であった。
今も、うだつの上がらない細々とした労働者生活を惰性で続け、両親からは、将来出世する見込みがないということで、半ば見放されているような恰好であるが、彼は彼で、彼が成せる限りのことを成しているだけであり、彼のそのややもすれば憐れまれがちな生活に、特別不満を抱くということはないのであった。
そういうわけで、下男に過ぎない《彼》が、よもや多くの人々を一挙に翻弄する運命の渦に巻き込まれようとは、まったく思いも寄らなかったのである。
……。
フム、と気難しそうに片肘を突いて、手で頬を持って読み物をしているのは、事務所の所長だった。白いチュニックに黒いズボンという出で立ちで、中年なので致し方ないが、頭はすっかり禿げ上がって、両耳と襟足だけ髪が残っている。目付きはいかめしく、人相がいいとはいえなかった。
「最近、同じ問い合わせが多いな」
と、所長は誰に言うでもなく、読み物を読み終えたか、パッと軽く叩きつけるように机上に放ると、呟いた。
《彼》は、他の同僚と同じように、自分用の机について、彼らと比べると半分くらい少ない、その上に積み重なった書類を、一枚一枚確認しながら、所長のそんな様子をチラチラと目だけを動かしてこっそり窺っていた。
「どうされましたか」、と所長夫人が紅茶を持ってきて尋ねる。
「前に話したことだよ。ゲールフェルト村の件さ。今読んでいた手紙も、よその村からの問い合わせで、何か村の事変について知っていることがないか、知っていたらぜひ教えて欲しいというお願いだよ」
「あらまぁ。確か襲撃を受けたんですよね」
と、夫人は顎を指でさすって言う。
「そう。それで死傷者が出たが、数で言えば、行方不明者の方がずっと多いという話だ。おおかた人質に攫われたんだろうが」
「あちこちで話題になってるようですね」
「まぁな。予告も兆しもなくある日攻撃を受けて潰滅した」
《彼》は聞き耳を立てながら、先日届けて欲しいと依頼された手紙を返却することになった家のにんげんのことを思い出していた。老夫婦の住まう家で、今は少女が学校に通うということで、寄宿していた。彼女の出身が確か……。
「でも、そういう話はないこともない。みんな気になっているのは、誰がやったか、どこの領土の連中が主導しているのかということに関心があるのだよ。大体の場合は因果関係が何となくはっきりしているものだが、ゲールフェルト村は、そういうのがない。平和な村だったのだ」
「そうですよねぇ……」
夫人は夫と共にトレーを脇に挟んで考え込む様子だ。
以上のやり取りを何となくチラチラ見ていた《彼》は、ふと、所長と目が合った。
彼は会釈し、所長は最初きょとんとして、次に目を瞑ってため息を吐くと、目を開き、彼を呼び寄せた。
「オットー君」
「はい」
「ちょっと来なさい」
《彼》、オットーは立ち上がり、所長のデスクへと向かった。何となくイヤな予感がした。その根拠は、なぜか、他の同僚と比べて少ない机上の仕事の量だった。
「君に頼みたいことがあるのだがね……」
ゴクリと、彼はいやに固くなっているツバを飲み込んでかしこまった態度になり、厳粛に耳を傾けた。
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