高級クラブや星付きのホテルが軒を並べる高級飲食街であっても、数ブロックも離れればロアナプラという極悪都市に相応しいカオスな街並みが顔を出す。
そして、混沌としているのは街並みだけではない。
“アホの国際見本市”というのはラグーン商会の女ガンマンの言ではあるが、実際にロアナプラの外国人比率は高く、国籍も様々なものとなっていた。
その外国人達の需要に応えるべく、街の飲食店も洋の東西を問わず、多種多様な品揃えを実施するのは自然といえよう。
金詠夜総会からそう離れていない繁華街、その片隅にある屋台。
軒先にテーブルが3つほどあり、夕方に開店し朝方まで営業しているこの店は、閉店するまで客足が途絶える事はなかった。
安飯を賄う屋台にしては味が良い、という理由もあるが、どちらかといえば繁盛している理由はこの店舗の品揃えにあるだろう。
地元タイを含めた東南アジアのエスニック料理は無論、中華やトルコ料理、アメリカ人が好むファーストフード、最近では和食にまで手を広げている。
必然、表看板は当初の店構えから打って変わり、元々何の料理屋だったのか分からなくなるほど雑然としたものへと変わり果てていたが、ある意味では今のロアナプラらしい飲食店となっていた。
とはいえ、繁盛店でも深夜ともなれば客足がまばらとなる瞬間はある。
現在、テーブル席には三名の客しかおらず、内訳は女性が二人、男性が一人だった。
「はあ~……染みるますね……」
一人は、中華粥と
深く際どいスリットの
だが、彼女の生業はホステスとは程遠い職業──金で殺しや誘拐を請け負う
故国中華人民共和国は福建の地にて類なき
名はシェンホアという。
もっとも、この時は“仕事終わり”だからか、先刻まで発していたであろう怜悧な殺意は鳴りを潜めており、危なっかしい英会話を駆使する普段の様相にて粥を啜っていた。
タイ王国下とはいえ実質英語圏であるロアナプラで暮らすようになってから随分と経つが、シェンホアは未だに英語の発音を苦手とし、ボキャブラリーも相応に微妙に乏しかった。それ故に、彼女が忌み嫌う女ガンマンから“ですだよ姉ちゃん”という噴飯ものの渾名を頂戴していたが、これは余談である。
「最近はなんだかアレね。張
さっくりと揚げられた油条をもぐもぐと頬張りながら、数時間前に膾切りにした相手を思い出すシェンホア。
様々な理由で流れ着く者が多いロアナプラではあるが、得てしてそのような輩はこの街の
そのような次第で
「ところでソーヤーは何食べてるか? モツかコレ? あんだけ
「……」
「おお、相変わらず食べてる時はいい笑顔するね」
シェンホアの隣に座り、ニチャリとした笑みを浮かべながら豚の臓物を煮込んだファゴットを食すゴシックパンクファッションの陰気な女。彼女の前にはファゴットの他にスコーン、そしてイングリッシュティーが添えられていた。
彼女の名はフレデリカ・ソーヤーという。
国籍は不明だが、纏うファッションや食す好物、そしてイングランドの
そして、ソーヤーは街の住人としてはシェンホアよりも古株であるので、当然の如く真っ当な生業で生計を立てているわけではなかった。
ロアナプラは土地柄故に死体の出現頻度が高く、それを回収処分、そして殺人現場の清掃を行い、更には死体から臓器転売を行う専門業者が多数存在した。
ソーヤーはその中でも“掃除屋”としては非常に優良な業者だった。彼女曰く、墓荒らしが重罪の英国と違い、ロアナプラはなんて暮らしやすい街なのだろうかと。
シェンホアとこうして外食を共にしている理由は、そのアルバイトに精を出していたからであり、美味しそうに臓物を貪る彼女の足元にはデカめのクーラーボックスが置かれているのは言わずもがなである。
「これこれ、顔にモツがついとるます。行儀が悪いですだよ」
ソーヤーの口元についた臓物の欠片を、「やれやれしょんがない」と言って拭ってやるシェンホア。
もじもじと恥ずかしげに顔を俯かせるソーヤーの仕草は、ファッションも相まって不思議な愛嬌を見せていた。
「ン……シェンホア……ありガト……」
だがその可憐な口から放たれたお礼の声は、おどろおどろしい機械じかけのデスヴォイスである。
本人曰く、かつて遠い日の恋の過ちで声帯を無惨に切り裂かれたとのことであるが、それを補う為に人工喉頭を使用している為、彼女本来の声質とはかけ離れていた声色となっていた。もっとも、本人はそれを独特のキュートさがあると宣いそれなりに気に入ってはいたが。
ちなみにソーヤーはシェンホアが暮らすアパートの同居人である。街の古株であるので彼女自身の棲家は普通にあるのだが、紆余曲折を経て居候生活を続けていた。
シェンホアもシェンホアで野良猫が居着くようにいつの間にか居候を決めるソーヤーを追い出すつもりはなく、というより気鬱の病を患う(ソーヤーの毎日には抗鬱剤が欠かせなかった)この同居人を追い出したが最後、車道にしゃがみこみそのまま車両に轢殺されてしまうのでは? という心配しかなかったので、仕方なく同居を許していた。
「フ……麗しき
「死にたいかロットン。私まだそんなトシじゃないね」
ふと、シェンホアとソーヤーの微笑ましい光景を見てそう言った、シェンホアとソーヤーの対面に座る三人の客の最後の一人。
妙齢の女性に対し些かデリカシーの無い発言をしたことで迫真の三白眼で睨まれるも、男はそれを意に介さず、そっとコーヒーのカップを手に取った。
白銀の髪と深い色のサングラス。それらが映えるように漆黒のコートを纏う男の名は、ロットンという。通り名は“ザ・ウィザード”として知られていた。
「戦士の束の間の休息──闘いの疵を癒やす光景という意味で言った。気分を害したのなら謝ろう……この街の闇は深い……さながらこのブラックコーヒーのように……」
溢れ出す悲壮にして神秘なオーラを漂わせながら、ロットンは自身の深層に位置する暗い精神を映し出したかのような黒く濃いコーヒーを口にした。
「……」
「なにが闇深いブラックコーヒーね。やっぱニガいのニガ手じゃないですか。
一口コーヒーを啜ってからいそいそと砂糖とミルクを追加するロットンに、シェンホアは呆れ顔を浮かべてそう言った。
彼がここで食事をとっている理由は、お気に入りの格闘ゲームの対戦が一段落し、お腹が減ったからとりあえず屋台へ出向くと、ちょうど仕事終わりのシェンホア達と同席しただけであり、要はたまたま一緒になっただけである。
「ていうかロットン。アナタさっきまで誰とゲームしてたね? ソーヤーは今日一日私と一緒だたから違いまするよね? また私の留守の間に知らない人間ウチに上げてたか? 姿は見れてないけど私気付いてるですだよ。これ、ロットン。こっち見るよろし」
「……」
眉間をハの字に歪めたシェンホアの蛇のような視線を、ロットンは努めて無視するように並べられたハムサンドを咀嚼する。
心做しか冷や汗が出ている気がしなくもないが、彼は己の一挙一動を常に“クール”にキメようとしているので、余計な事は言わずただ悠然とサンドを口にするのみだ。
ちなみに彼もまたシェンホア宅の同居人であるのだが、これもまた紆余曲折を経た結果である。
彼らが出会う切っ掛けとなった一連の仕事で即日入院の重傷を負ったシェンホア。退院するまで憩いの我が家を空き部屋にするのを嫌った彼女は、医者まで運んでもらった恩義もあり、ロアナプラへ流れてきたばかりで定宿を決めていなかったロットンへ部屋の合鍵を渡していた。
無論、あくまでシェンホアが退院するまでの間、仮宿として住まわせるという条件であり、そこには男女の仲という感情は現在に至るまで存在していないのだが、彼は未だに同居を続けている。
シェンホアもシェンホアで野良猫が居着くようにいつの間にか居候を決めるロットンを追い出すつもりはなく、というよりこの同居人を追い出したが最後、その辺に落ちている変なモノを拾い食いしてコロリと逝ってしまいかねない危なっかしさというか不安しかなかったので、仕方なく同居を許していた。
そして、このロットン“ザ・ウィザード”という男、言動からも察せられるように実に奇妙な
落命しかねない危急の鉄火場であっても、彼は
一応、ロットンは殺し屋としてこのロアナプラへ来訪したのだが、上記の
自ら殺し屋を名乗っている(実に迂遠な表現ではあるが)わけなので、決して不殺の誓いを立てているわけではないのだろう。ただ撃つ機会を逃しているだけなのか、それとも何か理由があって撃とうとしないのか。ともあれ、何故だか彼は悪徳の都で発生する数々の修羅場を、一発の弾丸を費やすことなく生き延び続けている。それも、ほぼ無傷で。
余人が見れば、何故あれだけの酔狂な真似を続けて生存可能たらしめるのかは不可思議極まりないのであるが、そういった意味では彼はまさしく“
出自不明な住人が多いロアナプラでも、特別に謎が多い人物であるロットン。
それらを一言で言い表すのならば、彼は“変な奴”であった。
「……おカわリ」
ギリギリと威嚇するようにロットンへメンチを切り続けるシェンホアを置いて、ソーヤーはモツ煮のおかわりを取るべく立ち上がる。
しかし、仕事の疲れからか、不幸にもシェンホアへもたれかかってしまう。
「おっと。ソーヤー、世界は震度7か8か? しゃんと両の足で立つまするか?」
「ン……シェンホア……ありガト……」
旗袍の上からでも形良く整ったシェンホアの胸元へ頭を預けるソーヤー。「やれやれしょんがない」と言って抱えてやるシェンホアに、ソーヤーは照れくさそうにデス声で礼を述べていた。
「……ロットン」
「何だ?」
しかし。
ソーヤーは何かのスイッチが入ったのか、実に気鬱げに同居人へ声をかけた。
「地震……超怖イ……何とカ……なラないノ……?」
そう声を震わせるソーヤー。
タイ南部ではこれといった活断層は存在せず、そしてソーヤーが以前住んでいたであろうグレートブリテン島でも大きい地震は極めて稀である。
だからだろうか。震災に全く慣れていないソーヤーはその恐怖を感じていしまい、若干気鬱のスイッチが入ってしまったのだろう。
不安げに自身を見つめるソーヤーに対し、ロットンはトレードマークともいえるサングラスをくいと押し上げ、知的でクールな雰囲気を漂わせながら言った。
「マグニチュード5とか中くらいの地震を何度も起こして地震エネルギーを放出させよう」
ソーヤーは応えた。
「させヨうって具体的にドうすルの。シムシティじゃなイんだカラ」
このようにロットンとソーヤーの会話は中身の無い残念な会話に終始するのが常であった。
シェンホアは美しくキレのある細目をことさら細めて、この変な同居人達を見つめていた。
「……おっきい地震、中くらいの地震で放出する、たいたい百万回必要て聞いたことあるますよ」
「なそ」
「ニん」
「おや」
茶番の最中、シェンホアはふと通りを走る車列を見留めた。
「こんな時間までご苦労様ですだね。あれ、
優れた動体視力を持つシェンホアは、その車列を形成する勢力を一目で把握していた。
金詠夜総会の方向から走ってきた車両はどれもスモークガラスが張られており、乗車する人員までは見えない。だが、見るまでもなく誰が乗っているか、シェンホアでなくとも容易に想像がついた。
「一体なんの会合してたかね。あまり関わりたくないですだ──ッ」
そう言った瞬間。
場の空気、特にシェンホアが纏う空気が変わった。
「……パッタイとシンハーを」
シェンホアは切れ長の瞳を鋭く光らせ、屋台の店員へ注文を告げる一人の男を見留めた。
短く刈揃えられた黒髪に、機械のような鋭い視線を持つ東洋人の男。ジャケットの懐が膨らんでおり、半身の姿勢を取っているその様は、まるで要人を警護するかのような警戒態勢となっていた。
一体、いつの間に。
茶番を繰り広げている間でも、殺人稼業の習性からか、シェンホアは常に周囲の気配を伺っていた。
故に、この男が自身の索敵範囲をすり抜けて忽然と姿を現した事実に驚嘆を隠せないでいる。更に言えば、男が初めから自分達を警戒しているような体勢──その“気”を察知できなかったことも、シェンホアの警戒心を高める要因となっていた。
「へ、へい。少々お待ちくだせえ」
「……」
不意をつかれたのは店員も同様だったのだろうか、屋台の店員にしてはやたらと大柄な肉体を翻し、慌てて料理の準備を始める。
男はその間も油断なく周囲を警戒していた。
目を合わせないように、シェンホアは男の気配を探り続ける。
殺気とは違う、機械のような冷徹な存在感。
「お、お待ち」
「……釣りはいらん」
「こ、こりゃあどうも」
店員へ多めのチップを弾むと、料理が載せられたトレーを抱えた男はシェンホア達から少し離れた席へと座る。
そのまま食事を始めた男へ、シェンホアは僅かに視線を動かして様子を伺った。
姿勢良く食事をする姿。手付きは屋台の安料理を食べているとは思えないほど優雅だった。
しかし、男からは一切の油断は感じられない。
何か危急の事態が発生すれば、目にも留まらぬ速さで懐から拳銃を取り出せることが可能だろう。
あれは、同類だ。
それも、かなり厄介な部類の。
まるであの時の
男から発せられる何かを超越した存在感。まるで天然の巨岩と対峙するかのような錯覚を覚えたシェンホアは、首筋から冷えた汗を流していた。
「シェン、ホア」
不穏な空気が伝播したのか、増々不安げな表情でシェンホアの袖を掴むソーヤー。
小さく震えるソーヤーの手を感じながら、シェンホアは努めて平静を装って口を開いた。
「ソーヤー、黙って食事続けるよろし」
「わ、わかっタ……」
先程までの緩みきった空気は霧散していた。
今この場にあるのは、異様な緊張感に包まれた空間。
シェンホアは男の一挙手一投足を見逃すまいと神経を尖らせる。
怯え過ぎか。
いや、しかし。
そう思うも、時間が立つにつれて畏怖が膨れ上がっていくのを自覚せざるを得ない。
長らく武の道を精進してきた彼女だからこそ、目の前の男が持つ異質さを正確に理解していた。
「……十三番目の男」
「えっ」
唐突に、ロットンがそう呟いた。
虚をつかれたシェンホアが反射的に反応すると、ロットンはサングラスを指先で押し上げながら続ける。
「そう……それはまさに神をも殺せる魔弾の射手……獣狙う非情の
いきなりなにを言い出すのかこのボンクラは。
シェンホアはロットンが始めた酔狂な発言に戸惑うも、魔術師は凄まじい集中力で自分の世界へ入っていた。
「この宵闇の街、悪徳の都に彼の者が現れた理由……果たして何者が彼に狙われる運命にあるのか。天秤を動かすに足るだけの罪を犯した咎人なのか、それともその守護天使か──面白い」
芝居がかった仕草でそう言うと、ロットンは持ち前の整った顔立ちを不敵に歪めた。
「こ、これ、ロットン」
変な事を言って変に刺激するなこのばかちん。
シェンホアはそう言おうとして目の前の伊達男を物理的に黙らせようとする。
「ッッッ!!」
しかし、シェンホアは見てしまった。
箸を置き、こちらへ鷹のような鋭い眼差しを向ける男の姿を。
「くっ……!」
シェンホアは忍ばせている飛刀へ手を伸ばした。
相手は銃を抜いていない。ただ視線を向けただけだ。
なのに、シェンホアは全身の細胞が粟立つような感覚を覚え、無意識に戦闘態勢を取っていた。
やるか。
でも、やれるのか。
いや、やるしかない。
シェンホアは履いていたヒールを静かに脱いだ。
彼女はどんな鉄火場でも必ず高いピンヒールを履いていたが、これはただの伊達や酔狂ではない。まともな"武”を修めた相手と対峙する機会が乏しいロアナプラで、彼女は己の腕を鈍らせまいと敢えて不自由な靴を履き、自らを
そのシェンホアが靴を脱ぐ時。それは、掛け値なしの本気を発揮せしめる時だけだった。
黄色い魔神──私の本気を見せてやる──!
「しかし今はまだその時じゃない。賛美歌十三番を詠い、祈りを捧げる時は……いずれ来るであろう救いの時は、まだ……」
しかし、ふとロットンがそう続けると、男が視線を外した。
同時に、シェンホアもまた動きを止める。
場に充満した殺気は霧散し、妙な沈黙が漂っていた。
「……」
ちょうど食事を終えたのか。空となったトレーを置き、男は黙って立ち上がると、そのままシェンホア達の後ろを通るように立ち去ろうとする。
「……
シェンホアは背中に怜悧な刃物を突きつけられているような感覚を覚えながら、小声でそう言った。
男が足を止める気配を感じる。そこで、英語ではなくつい慣れ親しんだ広東語で言ってしまった事に気付いた。
苦手な英語さえ使わずにいれば、彼女は持ち前の容姿そのままに玲瓏妖艶な美女としての居住まいを保てるのだが、この場合は男の“気”に呑まれまいと必死で抗う儚き
「……
男は流暢な広東語でシェンホアへ応えた。
数瞬、驚きの表情を浮かべながら動きを止めていたシェンホアだったが、男が立ち去る気配を感じると、やがて深く息を吐いた。
「なんだったね、ほんと……」
安堵しながらそう言って、男が立ち去った方向を見やる。
しかし、既に男の姿はロアナプラの闇へと消えていた。
一体何者だったのか。
これほどまでに心胆を寒からしめるとは。
僅かな間だったが、男との邂逅はシェンホアの心に深い爪痕を残していた。
とにかく、あの男については張大哥へ報告する必要があるだろう。
あれほどまでの使い手、もし三合会の者でなければ確実に脅威となる。
警戒は厳にするべきだ。
それに、ロットンが先程言っていた言葉も気になる。
あの男とは何か関係があるのか。
もし、あの男と何か繋がりがあり、それが危険なものだったら──
ロットン……私は、アナタを──
「ロットン……さっキのって、こないだ遊んだTRPGの設定ヨね……」
「うん」
そして、シェンホアはソーヤーとロットンの会話で盛大に突伏し、粥をこぼした。
殺し屋達の夜は更けていく──
ttps://youtu.be/liQG8_zqCQc