「ひっ」
緑光石の明かりがほんのりと道を照らす薄暗い坑道の様な場所──オルクス大迷宮の一角に、そんな怯えを含んだ小さな悲鳴が響いた。
「? どうしたの雫ちゃん?」
悲鳴の主──勇者パーティの一人である雫の突然のらしからぬ様子に、隣を歩いていた香織は、こてんと首を傾げて尋ねる。
「え、えっと……いえ、何でもないわ。あれよ、ちょっと天井から水滴がね、首筋に落ちてきたのよ、うん」
「そうなんだ。ふふ」
視線を逸らして、小さな悲鳴の原因を告げる雫。香織は、そんな雫の様子が水滴くらいで驚いて悲鳴を上げてしまった事への羞恥から来るものだと思い、微笑ましそうにクスリと笑う。
何時魔物が襲ってくるか分からない薄暗いダンジョンの中で、しかも現在いる場所が前人未踏の階層である事を考えれば、首筋へのヒヤリとした突然の感覚に驚いたとしても何ら不思議ではない。それでもそんな自分を恥じて視線を逸らす親友の姿が、とても可愛らしく見えたのだ。
……という事を思っているのだろうと雫は予想しつつ、チラリと香織へ視線を戻した。そこには周囲を警戒しつつも、すっかり普段通りの雰囲気を纏う香織の姿がある。
(……やっぱり気のせいなのかしら? いやでも、最近割と頻発してるし……香織がどうこうというより、単純に私が疲れてるだけなのかしら? いやでも……)
内心で雫はう~んと唸る。
雫が突然悲鳴を上げた原因。それは断じて首筋への水滴などでは無かった。それ位で平静を乱す様なら、前人未踏の階層で勇者パーティの切り込み隊長など出来はしない。
では、何が原因だったのかというと……
「ひゃっ」
「雫ちゃん?」
「雫?」
「シズシズ?」
再び、今度はさっきよりも大きく上がった雫の悲鳴に、香織だけでなく光輝や鈴までもが雫の名を呼ぶ。他にも龍太郎や、鈴の親友の恵里、永山重吾率いる野村健太郎、辻綾子、吉野真央、遠藤浩介のパーティ、檜山大介率いる斎藤良樹、近藤礼一、中野信治のパーティの面々が立ち止まって雫へと視線を向けている。
訝し気な彼等を前に、動揺した雫は自分が目撃したものをつい口走ってしまった。
「は、般若がっ! そ、そこに般若、いえ般若さんがっ!」
何故か言い直して般若に"さん"をつける雫に、光輝達は益々訝しそうな表情になりつつも、其々のアーティファクトを手にバッと身を翻して周囲へ警戒の視線を巡らせた。
「雫……何処だ? その般若っぽいていう魔物は」
光輝が油断無く、薄く純白の光を纏う聖剣を構えながら静かに尋ねる。周囲に目を配っても、技能である"気配感知"を使っても、近くに魔物の気配は感じられない。まさか、自分の"気配感知"にも掛からない程隠密に長けた魔物なのかと光輝のこめかみに一筋の冷や汗が流れた。
だが、光輝の緊張感を他所に、雫は何とも微妙な表情をしつつ香織へ視線を向ける。
「……えっと、香織の後ろに見えたのだけれど……」
「えっ私!? 嘘、どこなの!? 何かいるの!?」
雫の言葉に動揺する香織。まるで自分の尾を追ってくるくると回り続ける犬の様に、背後を気にしながらその場をくるくると回る。ゆったりとした法衣の様な彼女の戦闘服が動きに合わせてヒラヒラと舞い、まるでダンスでもしている様だ。
そんな香織のほっこりする様な言動と雫の申し訳なさそうな表情に、光輝達の身体から緊張感が抜けていく。
「ごめんなさい、見間違えたみたいだわ」
「まぁそういう事もあるさ、気にする必要無いよ雫。気のせいかもって見逃すよりずっといい。メルドさん達も口を酸っぱくして言ってたじゃないか」
雫の肩をぽんっと叩き励ます光輝に、他のメンバーもウンウンと頷いた。
この七十台も後半の階層──第七十八階層を探索する光輝達の傍にハイリヒ王国の騎士団長、皆の頼れる兄貴分メルド・ロギンスの姿は無い。
メルド率いる王国騎士の最精鋭達は、七十階層で待機中だ。存在しないと思われていた大迷宮内のショートカットである転移陣が七十階層と三十階層で発見され、メルド達は七十階層側の転移陣の警護に当たっているのである。
彼等は確かに王国の最精鋭ではあるし、光輝達と大迷宮の未踏破区域を進む中でその実力を更に伸ばしていったのだが、流石に七十階層の後半ともなれば付いていけなくなった為、退路の確保に就いているのである。
遂に騎士達の庇護を離れ自分達だけで大迷宮に挑む事になった光輝達に、メルドはそれはもう「お前は母親か」というツッコミが入る程大迷宮でのノウハウを繰り返し言い聞かせた。
最終的には「ハンカチは持ったか? 拾い食いはするなよ? 変なモン食べたらすぐにペッしろよ?」と、大迷宮とは無関係な注意をし始め、更には「そんな装備で大丈夫か?」などと言い出す始末。聖剣を始め、最高位のアーティファクトを指して"そんな装備"呼ばわりするメルドの心配は止まる事を知らなかった。「王国から譲り受けた至宝でしょうが!?」と光輝達がツッコミを入れたのは言うまでもない。
結局、雫の見間違いという事で落ち着いた光輝達は、
「雫でもテンパる事があるんだなぁ」
「般若に"さん"つけて慌てるシズシズ……ご馳走様でした」
「鈴、そのうぇっへっへっへっていう笑い方止めようよ……」
等と言いながら探索を再開した。先頭を歩く光輝に続きながら、雫は傍らの香織をチラチラと見やる。
「ね、ねぇ、香織」
「何? 雫ちゃん」
「その、大丈夫?」
「?」
雫の質問の意図が直ぐには分らなかった香織は、キョトンとした表情を晒す。しかし一拍して何か思い当たった様で、サッと顔色を蒼褪めさせ動揺を露わにした声音で逆に雫へ尋ねる。
「し、雫ちゃん……もしかして、まだ私の後ろに何か見えるの? 雫ちゃん、何時から見る人になったの!? 私、何か悪いものに憑りつかれてるの!?」
「ち、違うわよ! 別に何も無いから!」
「ほ、本当だよね?」
未だ後ろをチラチラと振り返っては何かよからぬものがいないか確認する香織。シャワー等を浴びている時、不意に背後に気配を感じて振り返るが当然誰もおらず、しかし一度気になりだすともう止まらないあの心理状態である。幽霊等ホラー系が心底苦手な香織であるから、尚更親友が目撃したという"般若さん"が気になるのだ。
とその時、何度目かの“後ろをチラッ”を行った香織の視界の隅に、ゆらりと揺れる黒い影が映った!
「いやぁあああああっ! 般若さん出たぁあああっ!」
「えっ、ちょっ、へぶらぁあっ!」
思わず大迷宮にあるまじき悲鳴を上げながら目を瞑るという危険行為をしつつ、手に持っているアーティファクトの杖をフルスイングする香織。直後響いたのは、ドグゥッ! という何かを殴りつけた様なくぐもった音と、男子生徒の悲鳴。
「浩介ぇっ!」
「そんな所にいたのかっ!?」
「遠藤くんが飛んだっ!」
「なんて綺麗な放物線!」
そう。香織に"般若さん"と見間違えられて杖によるフルスイングを受けたのは永山パーティ一、否、或いは世界で一番影の薄い男として矛盾に満ちた称賛を受ける──遠藤浩介だった。なにせこの異世界トータスに来る前から、コンビニの自動ドアすら見逃してしまう影の薄さを誇っていた。
そんな彼の天職は"暗殺者"。
長年の友人である重吾や健太郎をして、すぐ隣にいても「あれ、浩介どこ行った?」「トイレか?」「……さっきから、ここにいるよ」というやり取りをほぼ毎日してきたのだ。召喚される前から最早超能力の域に踏み込んでいそうな影の薄さは、トータスに来てから更に磨きがかかった。
そう……ずっと雫や香織の後ろを歩いていて、何度も振り返る香織の視界の中にいながら一切気付いてもらえない程に……。
自分を素通りしつつも不安そうにちょっと涙目になりながら、チラチラと振り返る香織の表情は破壊力抜群だった。そろそろ眼前に晒される香織の表情に心拍数がヤバい! と感じた浩介は、場所を変えようとしたのだが……結果は言わずもがな。破壊力は抜群だった!
「え? 遠藤くん!? わわっ、ごめんなさい!」
重吾達の声で、"般若さん"の正体見たり、遠藤くん! と理解した香織は、頬を真っ赤に腫らしながらまるで暴漢に襲われた女子の様に足を揃えて崩れ落ちている浩介に、魔術による癒しの光を掛けた。何処か遠い目をしながら、淡い白菫色の光に包まれる浩介。実に、哀れさを感じさせる姿だった。
ペコペコと何度も頭を下げる香織と、「そろそろ檜山達の目が怖いから、もういいよ。……それにこういうの、慣れてるし」と更に哀れを誘う様な事を言いつつ、重吾達に慰められる浩介。攻略組随一の斥候役が、あんまりと言えばあんまりな不慮の事故によりリタイアする心配も晴れて、一行は先へと進み始める。
「香織、ごめんなさいね。怖がらせて」
「ううん、私が過剰だっただけだよ。気にしないで」
騒動の原因が元を糺せば自分にあると謝罪を口にした雫は香織の許しを得てホッとしつつも、どうしても自分がここ最近何度も目撃しているものの事が気になって、先の質問を今度は言葉を変えて繰り返した。
「それで香織、最近変わった事は無い? ほら、時々なんというか、思い詰めた……という感じではないけれど、何か心ここに在らずというか、どこか遠くを睨んでいるというか……そういう事、よくあるじゃない?」
「ええ? 私そんな感じだった? 自分ではそんな意識、全然無いんだけど……」
「そう……」
やっぱり気のせいだったかしらん? と首を傾げつつ、香織が特に思い当たらないというのなら問題は無いのだろうと雫は自分に言い聞かせる様に納得しようとした。だがその寸前、香織が何か思い当たった様に手をポンッと叩く。
「あ。でも時々、変な感じはするかな?」
「変な感じ?」
「うん、うまく表現出来ないんだけど……」
可愛らしく「う~ん」と首を傾げながら視線を彷徨わせる香織は……直後、スッと表情を消した。何の感情も浮かんでいない無機質極まりない……そう、まるで能面の様な表情! そして、
「どこかの泥棒猫に、大切なものを取られちゃった……みたいな?」
「か、香織? いえ香織さん?」
「ふふふ、おかしいね? ふふふ……」
「香織ぃ! 私が悪かったわ! 二度と変な事訊かないから、こっちの世界に戻ってきなさぁーーい!」
おかしいねと言いながら、そして「ふふふ」と笑い声を漏らしていながら、しかし表情は相変わらずの能面。雫が「これアカンやつや!」と動揺のあまり、内心で下手な関西弁になりつつ香織に制止と現実への帰還の言葉を掛ける。
何でこんな事にと思うが、まさか今この瞬間、遠くで某魔王がとある吸血姫にじゃれつかれている事が原因である事に思い至る筈も無く、ただ親友の頬をペチペチしながら正気に戻すしかない。
「ねぇ雫ちゃん、何で私の頬をペチペチするの? やめてよぉ」
「戻ってきたのね香織! うぅ、よかったよぉ……」
ごく自然に香織はいつもの雰囲気に戻り、そんな香織を見て雫は安堵の息を吐いた。原因は分からないが、どうやら親友は遠くで起きている何か不愉快な出来事を、これまた何故そんな事が出来るのかわからないが察知してプチ暗黒面に片足を突っ込むという事を繰り返しているらしい。
ここは異世界。魔法があり、魔物もいて、おまけに神なんて超常の存在もいる。ならばそんな摩訶不思議な事があっても、きっとおかしくはない……筈。と、半ば強引に自らを納得させ、原因が分からないなら分からないなりに香織がブラックカオリになる前にこちら側に連れ戻せばいいとキョトンとしている香織を見つめながら、雫は決意をするのだった。
雫が微妙な決意をしていると、先頭を行く光輝が不意に立ち止まった。
「皆、警戒してくれ。この先に何かいる。"気配感知"に掛かった、反応は一つだ」
「先行して確認してこようか?」
「魔物が一体だけだろう? 遠藤が確認するまでもねぇ、速攻で袋叩きにしてやりゃいいじゃねぇか」
通常、魔物に見つかるより先にその存在を感知した場合は、浩介が先行して隠密技能を駆使しながら敵戦力の程度を測る。なので浩介は一歩前に出ながら提案したのだが、それを龍太郎が拳を打ち鳴らしながら否定した。
確かに、これまでも魔物の数が少ない場合は浩介が確認するまでもなく戦闘に入った事は何度もある。なので光輝は、龍太郎の意見を採用してそのまま全員で進む事にした。
やがて、薄暗い通路の先に見えてきたのは……
「え……人?」
光輝の愕然とした呟きに、他のメンバーも目を丸くして前方を見やる。その視線の先には、確かに人らしきものがいた。尤も、壁に体の半分以上を埋め込まれているという捕捉が付くが。髪が長く項垂れている為、表情どころか生死の確認も出来ないが、華奢な体つきから女性の様に見えた。
「た、大変だ! 早く助けないと!」
「ちょっと待ちなさい、光輝!」
もしや上層で魔物に攫われたか、或いはトラップに掛かった冒険者が捕らわれているのではと考えた光輝が慌てた様に駆けていく。それを制止する雫だったが、光輝の高スペックは既に自身を目的地へ運んでいた。
光輝が「君っ、大丈夫か!?」と声を掛けながら手を伸ばす。
その瞬間、光輝の足がずぶりと地面に沈んだ。どうにかバランスを取って転倒だけは回避した光輝だったが、慌てて視線を足元にやれば、いつの間にかそこは硬い地面ではなくぬかるんだ泥沼の様になっていて、光輝の両足を踝まで沈めて捕らえている光景があった。そしてその直後、光輝の周囲の泥が一気にせり上がると、一瞬で人型に変形する。
泥で出来た人型の人形──クレイゴーレムだ。
そのクレイゴーレム達は、これまた一瞬で両腕を鋭い鎌に変形させると、泥から抜け出そうと藻掻く光輝へ振りかぶった。
呻きながらも光輝は聖剣に光を纏わせ、全周囲を斬り払おうとする。右手による左薙ぎから、背中側で左手に持ち替えてそのまま右薙ぎに移行する──八重樫流刀術の一つ"水月"という技だ。がしかし、八重樫流の門下生として何度も練習したその技は、光輝自らの手によって不発に終わってしまった。
「っ! し、雫!?」
そう。斬り払おうとした相手が、雫の顔をしていたから。正確には、クレイゴーレムの顔がグニャリと変形すると一瞬で雫の顔になったのだ。勿論身体はクレイゴーレムのままであるから、それが雫でない事は一目瞭然だ。しかし、大切な幼馴染の顔が目の前にいきなり現れたのだ、思わず動揺してしまうのは仕方がない事かもしれない。
尤も、当然の結果としてその代償は高く付くかと思われた。が、
「疾っ」
「──"縛煌鎖"!」
光輝を取り囲んでいたクレイゴーレムの右半分が斬撃の軌跡と共に斬り裂かれて霧散し、更に左半分が白菫色に輝く無数の鎖に全身を絡め取られて動きを封じられる。クレイゴーレムは直ぐに体を泥化させて拘束を抜け出すが、次の瞬間には宙に描かれた真円の軌跡に両断されて崩れ落ちた。納刀状態から回転しながら抜刀し、全周囲を斬り払う──八重樫流刀術の一つ、"水月・漣"。行使者は当然雫だ。
「光輝、無事?」
「大丈夫だ。すまない、助かった」
香織の"縛煌鎖"に掴まって泥沼から抜け出しつつ、光輝が礼を言う。その時には既にあちこちからクレイゴーレムが湧き出し、光輝のみならず永山パーティや檜山パーティも取り囲んで、両腕の変幻自在な鎌により死に誘おうとしていた。
「くそっ、こいつらキリがねぇぞ! どうやったら倒せんだ!?」
「倒しても、直ぐに復活しちゃうよ!」
龍太郎が正拳突きでクレイゴーレムを吹き飛ばすが、直ぐに泥が集まって復活してしまう。それは他のメンバーの戦闘でも同じだった。
光輝が駆け回りながらクレイゴーレムを倒しつつ、どうすればと状況の打開方法を考える。すると、視界の端に雫が駆け寄って来るのが見えた。今度は見間違いない、確かに体の方も雫の恰好をしている。光輝は聡明な彼女の知恵を借りようと、湧き上がってくるクレイゴーレムを倒しながら自らも雫の下へ行こうとする。
だが、同時に気付いた。寄って来る雫の背後──光輝が捕らわれた人間だと思った壁の女が……いない、という事に。ゾワリと背筋が粟立った。奴はどこに? と雫から視線を外して周囲を警戒する。
「雫、注意しろ! 壁に埋まってた奴がいない! どこかに潜んで──」
「馬鹿っ、目の前にいるでしょう!?」
警告を飛ばす光輝が、思いっきり鎧の首元を引かれて「ぐえっ」と声を漏らしながら後方へ倒れ込む。と同時に、光輝の顔面をふわりと風が撫でた。咳き込みつつ光輝が視線を上げれば、そこには顔も体も雫のままなのに右腕だけがそのまま伸長して剣になった雫の姿があった。はらりと舞うのは光輝の前髪数本。間一髪、首ちょんぱは回避出来たらしい。
「どうやらあれが親玉みたいね。他のと違って、体や恰好まで擬態できるみたい」
光輝の背後から冷静な声が響く。そこには、右腕以外は眼前の雫と全く同じ雫の姿があった。どうやら雫の言う通り、壁の女がクレイゴーレムのボスだったらしい。
クレイゴーレムのボスは左腕も剣に変えると、次の瞬間凄まじい勢いで攻撃を仕掛けてきた。
「そう何度も、いい様にやられてたまるかっ!」
両腕の剣が鞭の様に不規則な軌道を描いて飛来する。それを光輝は聖剣で弾き、或いは逸らして防ぐ。そして一気に踏み込もうとするが、寸前でボスの周囲から大量の泥の鎌が出現し一斉に襲い掛かってきた。半球状に光輝を取り囲む様にして振るわれる無数の大鎌。それも、斬り払っても斬り払っても次々と再生しては間断無く襲ってくる。
一応泥で構成されているので、一瞬の攻撃力とは裏腹に耐久力は皆無に等しい。その為左程力を込めなくても取り合えず当てさえすれば相手の攻撃を防ぐ事は出来る。ただ、周囲が全て泥なので手数だけは尋常ではない。それ故に光輝はボスの攻撃を防ぐので精一杯だ。他のメンバーも、次々と現れるクレイゴーレムの群れにやられはしないだろうが四苦八苦している。
光輝が"限界突破"を使用して纏めて吹き飛ばすという選択肢を頭の片隅に入れ始めたその時、ボスの背後に躍り出る人影を見た。光輝の口元が思わずニヤリとなる。
(流石雫! 頼んだ!)
(承知よ)
視線で会話しつつ、光輝が防戦している間に自慢の速度でボスの背後に回り込んだのは雫だ。ボスを防衛しようとするクレイゴーレム数体を纏めて斬り払うと、トレードマークのポニーテールを靡かせながら一瞬で納刀し、震脚の如き踏み込みでボスへと迫る。
刹那、ボスが変化した。──香織の姿に。
「っ!」
息を吞み、目を見開く雫。目の前にいるのは魔物だ。分かっている、頭では。だが、心まで一瞬で納得出来る程には雫とて成熟していない。普通なら、心が体を止めてしまうだろう。親友の顔を両断するなど……
「っぁあああああ!!」
裂帛の気合、或いは絶叫。己の上げたそれで、躊躇う心を捻じ伏せる。放たれるのは抜刀術による高速の逆風──八重樫流刀術の一つ、"登龍"。本来はそこから跳躍し空中回し蹴りと鞘による横薙ぎの二連撃が待っている技だが、今回は必要無かった。
文字通り、滝を登る龍が水流を真っ二つにするが如くボスを綺麗に両断した雫の斬撃は、そのままボスの内にあった魔石をも切り裂いたのだ。ドロドロと形を崩すボスの泥の上にポトリと落ちる魔石と共に、周囲のクレイゴーレム達も形を崩していく。
「やったな雫!」
光輝が喜色を浮かべて駆け寄って来る。それに対し雫は、ニッコリと笑顔を浮かべて「やったわね」と返した。そして光輝が同じ様に駆け寄って来る龍太郎達へ振り返り歩み寄って行くと、雫はそっと自分の掌を見つめた。そこには少しだけ、クレイゴーレムの泥がこびり付いている。雫はそれにぎゅっと眉を寄せ、少し乱暴に拭った。泥が落ち、綺麗になった自分の手。しかし雫の表情は……
「雫っ!」
「え?」
自分の手を見つめてぼうっとしていた雫に、光輝の突然の怒声。呆けた声を上げつつも、本能が鳴らす警鐘が背後に迫る死を告げる。肩越しに振り返った雫の視線の先──そこには、天井から糸を垂らし宙に浮かぶ大蜘蛛の姿があった。八つの赤黒い目が雫を捉え、毒々しい液体が滴る鋭い爪のついた足が今にも突き出さんと構えられている。
「あっ」と声を出したのは誰か。ほんの少し警戒を緩めてしまった代償は、あまりに高い。それが、それこそが大迷宮。死が隣人となってにこやかに挨拶をする。今生との別れの挨拶を。ここはそういう場所なのだ。
「──"縛光刃"」
尤も、今回ばかりは大迷宮の隣人も振られてしまった様だ。突き出された八本の毒爪が雫に到達する前に白菫色に輝く十字架が大蜘蛛を貫いて突き飛ばし、そのまま壁に縫い付けられてしまった。殺傷能力の無い捕縛系統の魔法であるから、大蜘蛛には大したダメージは無い。それでも壁に叩きつけられた衝撃で、多少は怯ませる事が出来た様だ。
間一髪、雫を救ったのは親友の魔法。同じ様に雫を障壁で守ろうとしていたらしい鈴が、「カ、カオリン、速すぎ……」と唖然とした様な表情で目を見開いている。
「香織……ありがとう、お陰で命拾い──」
雫が香織に礼の言葉を掛けるが、それを言い終える前に香織はスタスタと歩き出した。加えて、何故か脳内に「触らぬ神に祟りなし~」という声が響き、雫は言葉を止めてしまう。光輝達も、何となく香織の雰囲気に気圧されている様だ。
その香織は、壁に磔にされながらワシャワシャと動く大蜘蛛の前で立ち止まると、錫杖を掲げて光の鎖──"縛煌鎖"を呼び出した。それも夥しい数を。ジャラジャラと音を立てて地面から壁から天井から伸びてくる鎖の群れは、そのまま大蜘蛛に絡みつくと壁から引き剥がし、空中で幾重にも巻き付いて球体を形作っていく。
「あ、あの……香織?」
無言で作業を進める香織の背に雫が死にかけた恐怖も忘れて、何故か肌にぷつぷつと鳥肌を浮かべながら声をかける。
すると今度は香織も反応し、ベキッゴキュッバキッと中の大蜘蛛に生々しい音を奏でさせながら少しずつ縮小していく鎖の球体から視線を外して、ゆっく~りと振り返った。
──背後に、ゆらりと揺らめく鬼面を被った白装束の幻影を出現させながら。
「「「「「般若さんっ!?」」」」」
ここに、雫が幻覚を見ていた訳ではない事が証明された。光輝達が「ひいっ」と悲鳴を上げながら後退る。
「か、香織? いえ香織さん? その、あのね、後ろに──」
「ふふっ、おかしいね雫ちゃん。どうしていきなり“さん”付けなの? ふふふ、おかしいね。不意に……泥棒猫どころか泥棒兎にすらポジションを取られた様な気分になっちゃうくらいおかしいね?」
おかしいのは今の香織だ……とはとても言えない。だって背後の般若さんが、何処からか取り出した大太刀で肩をトントンし始めたから。親友は一体、どんな電波を受信しているのか。
まさかこの時、とある某魔王が残念兎の頭を撫でているとは知る由もない雫は、若干壊れ気味な親友の有様に、一人頭を抱えるのだった。
その後、また唐突にいつもの調子に戻った香織により大蜘蛛も完全に倒され、一行は先へ進んだ。
その後の道中、やっぱり不意に何かを受信して般若さんを出現させる香織を諫めたり、そんな香織を見て様々な意味で暴走しそうな勇者を諫めたり、やたらと吶喊しようとする脳筋にジャーマンスープレックスをかましたり、般若さんのご機嫌を取ったり、隙あらばセクハラ発言を量産するちっこい結界師にアイアンクローを決めたり、檜山パーティの自信過剰や楽観視を注意したり、般若さんにお帰り願ったり……
「私、禿げるかもしれない……」
オルクス大迷宮──魔物蔓延る死と隣り合わせのダンジョンに、そんな己の毛根を心配するうら若き乙女剣士の苦労の滲んだ小さな呟きが響いた。
クラス一苦労性な彼女の毛根を救う者は現れるのか……それは神のみぞ知る、そう遠くない未来の話である。
因みに、香織の影が何かに怯える様にカタカタと震えていたのだが、それは誰も知らない。
原作見てて思ったけどやっぱり雫さんは、苦労人ですね。
え、そんな彼女を支える人物?それは今後のお楽しみ。
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