タイトルまんま。
あるいはある靴の独白。

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私は吉田ヒロフミの学校指定運動シューズになりたい

 

 私は靴である。

 当然、名などあるはずもない。

 

 白とグレーのツートーン。ふた昔は前の野暮ったいデザインは、他の全てを犠牲にしてでも低価格と頑丈さを優先された、廉価の証明。中敷きを支えるには頼りない、薄っぺらなミッドソールがか細く描く、空のそれよりは少し深く映る青だけが、たった一つの彩だった。

 

 高校指定の運動シューズ。多分きっと、どれほど物持ちの良い人だって、一年以上履くことはないだろう、使い潰しの消耗品。

 

 それが私という靴だった。

 

 私と同じ、ハンドメイドの温かみなどかけらも知らない無味乾燥な工業製品たちは、皆均一にまじめ腐った顔をして、毎年四月の入学シーズンより少し前。新年よりは遅く、年度末よりは少し早い、一年で最も中途半端な時期に、ピカピカのと言うにはわざとらしすぎる新品未使用値札付きのまま、一斉に人々の元へ売られていく。

 そして大抵はその年の終わりまでに、サイズが合わなくなるかくたびれすぎて、買い替えられるのが常だった。

 

 だから私が、一年に満たない寿命と共にその人の元へ辿り着いたのは、まったくもって特別なことではない。ただ隣にあった26.5の靴よりは、少しサイズが大きくて、下にあった同サイズの靴よりは、少し手に取りやすい位置にあったというだけの、それだけの無意味な必然だ。

 

 けれどどうにも。

 無意味な必然が導いた、少し骨張って、傷を隠した細い指の感触を、私はその日からずっと、忘れられなくなってしまう。

 

 私は靴である。当然、名などあるはずもない。

 けれどそんな名もなき靴である私を履く、その主の名は知っている。

 

 彼の名は、吉田ヒロフミ。

 

 そのどこにでもありそうなありふれたの名前が、このどこにでもありそうなありふれた靴の、たった一人の主人の名だった。

 

***

 

 吉田ヒロフミは、ちょっぴり悪い男だ。

 伸びた前髪。耳にはピアス。酒や煙草はやらないけれど、面倒臭がって学校指定の通学革靴ではなく、この私(運動シューズ)を履いて日々通学路を歩くような、そんな悪い男だった。

 

「行ってきます」

 

 家に誰もいなくても、ヒロフミは必ずそう言って家を出る。

 それは多分、外に出るための儀式というより、忘れずに家に帰ってくるための呪文なのだと思う。

 放っておいたら、どこにだって消えて行ってしまえるような、そんなどこか危うい自由さと、憂鬱な希薄さに満ちた横顔こそが、吉田ヒロフミという少年だった。

 

 彼が後ろ手に扉を閉めるたび、私は少しだけ哀れに思う。

 それはもちろん、彼をではない。玄関の靴箱。開け放たれたままの引き戸の、その反対側。いつも二重に二枚分、扉に閉ざされた影で埃を被る、私と同じ日に買われた革靴をだった。

 

 本来、通学中の彼が履くべき靴は、私ではなく彼女のはずだ。

 磨かれた黒の皮は、今は少しばかり埃っぽいが、軽く払えばその艶をすぐに思い出すだろう。

 それはつまり、彼女がほとんど全くと言って良いほど、彼に履かれていないということを意味する。

 

 彼の通う高校は、規律に厳しいというわけでもなく、真面目な教師が辣腕を振るえるほど治安がいいというわけでもない。つまりどこにでもある普通の学校で、だから彼が運動靴のまま通学し、その授業を受けているとしても、それを咎められたことは一度もない。

 

 わざわざ硬い革靴で通って、校庭に出るたびにせかせかと履き替えるような、非合理な模範性を示したとして、得をできるわけでもない。

 だから革靴を履いて学校に通う生徒はどちらかと言えば少数派で、吉田ヒロフミという少年もまたその一人に数えらるわけではないと言うだけのことだった。

 

 そんな状況でも革靴の購入を強制されるのは、年に数度の行事に必要ということもあるが、それ以上に多分、利権というやつだ。

 大抵、それに振り回される「物」は、不用品として疎まれる。別段、そうなりたくて生まれたわけでもあるまいに。

 

 少なくとも彼が買った革靴は、その大抵に含まれなかったことは幸運だったが、しかし不幸中のと前置きをされるべきだった。

 疎まれもしない代わりに、興味を持たれもしない。買って一度履き慣らし、二度目入学式に使用して以降、それが履かれた日は一度だってない。

 週五日の通学のたび、その骨張った指が触れるのは、決まって私の踵だ。

 

 その度に、私は隣の彼女を哀れに思う。

 それは彼女の気持ちを慮ってのことでは、残念ながらない。悲しいことに、それほどの小さな善性でさえ、量産品の私には高級すぎる概念のようだった。

 

 私が彼女を哀れに思うのは、優越感だ。

 

 彼が隣の彼女ではなく、私の踵に指を掛けるたび、私はほんの少しだけ、自分が上等であるかのような錯覚を覚える。

 彼の指が、単価で言えば私よりも倍近く高く、また作りも丁寧な彼女より、安っぽくて野暮ったい私を選んでくれることが、私の心の檻に閉じ込めた暗く醜い怪物を堪らなくさせる。

 それを必死に鎮めるために、私はそれを捻じ曲げて、彼女を哀れに思うのだ。

 きっと彼女だって、彼に履かれることを心待ちにしているだろうに、手に取られるのは安物の私。

 ああ、なんて可哀想なんだろう。

 傲慢。見下し。醜い心根。

 私は心底、粗悪品だ。

 

***

 

 学校の中で、吉田ヒロフミという少年は独立している。

 孤立、とは言い難いのが、彼の独特な立ち位置だった。

 

 クラスに友人がいないわけではない。日常に会話がないわけではない。当たり前のように笑い、当たり前のように話し、当たり前のようにほんのちょっぴりサボり気味に、つまらなさそうに授業を受ける。そんなありふれた日常は、けれど吉田ヒロフミという少年からは、ほんの少しだけズレて見える。

 

 つまり、彼自身が、そんなありふれた日常から、ほんの紙一重遠ざかっているのだった。

 

 吉田ヒロフミは背が高い。そして目が悪いわけでもないので、必然、彼は決まって後ろの席だ。

 それは学内における彼のスタンスと、おおよそ全く合致していた。

 

 一歩引いて、境界線。ミステリアスな重力に、惹かれた獲物を虚しく区切る、見えず触れず頑なな壁。崩したいと願う人は多く見たけど、その夢が叶った瞬間を、未だかつて私は見たことがない。

 

 斜に構えているわけじゃない。人を拒むわけでもない。礼を失するわけでもなく、心を傷つけるわけでもない。

 

 ただそう。

 それは蜃気楼をつかむがごとく。手繰り寄せようと手を伸ばせば、虚に揺れて遠ざかる。

 

 何に対しても本気ではなく、誰に対しても本当ではない。それを誰もが薄々わかって、けれど一縷の望みを捨てられないのが、きっと愚かさという言葉の意味だった。

 

「吉田ってさ、素っ気ないくせにモテるよな」

 

 昼休みの断片。人の減った教室から、彼が動くことはあまりない。勝手に人が消えてくれるのだから、わざわざ移動する手間が省けて済む。その程度の理由。

 クラスメイトの一人が、窓の外を見つめる彼に言った。少しだけ、大きめの声。廊下の外で、ほんの少しだけ色めきだつ気配があって、音を立てないまま足早に遠ざかっていく。

 過ぎた気遣いかどうかの答えは、彼の心の中にしかない。

 

「そうかな」

 

 とぼけて答える。表情は見えない。いつだって、机の天板越しにしか、彼の声は聞こえない。それを悲しいだなんて思うはずもないが、しかし彼の思惑を、言葉少なに端的な、短く平たい声色からだけ推察しなければいけないのが、私には少しばかり難しかった。

 

「どう見たってそうだろ」

「でも、大和の方がモテるんじゃない? 確か、サッカー部でしょ」

「冗談よせよ。部活風情でモテてたまるか。つーか、サッカーじゃなくてバスケだし」

 

 何もかも間違ってんじゃねぇか。

 大和、と呼ばれたクラスメイトは、呆れて言った。

 

「……実はさ、どっかに本命、いたりするわけ?」

「さあ」

「さあってなんだよ、自分のことだろ」

 

 冗談と本音の区別は、それを言う本人の親切によってのみ明確になる。

 彼は、悪い男だ。

 

「ああ、うん、そうだね。そうだった」

 

 見えなくとも、それは明確な光景。

 どこか遠くを見つめるような、妖しく甘い黒の瞳。

 惹かれているのは、蝶か蛾か。

 

 多分それは、コインの表裏でしかなかった。

 

***

 

 表があれば裏がある。

 それは何も、コインとテストの答案用紙だけに当てはまる特権ではなかった。

 たとえば靴にだってアウトソールとインソールがあるように、たとえばナイフにだって刃と峰があるように、たとえば愛にだって与えると奪うがあるように。

 

 どんな人間にも、表と裏はある。

 

 吉田ヒロフミという少年も、その例外に含まれることはなかった。

 

 放課後。つまり、陽の傾きが長い影を作る頃。

 帰り道の正面玄関に、彼は立っていた。

 

 彼は部活動に参加していない。何度か、運動部に誘われてはいたけれど、そのどれもを袖にしていた。長ずればプロにもなれるだろう——なんて、まるで的外れなプレゼン。冷笑を返されなかったのは、つまり彼の善性がゆえでしかない。そのことを、誰もが無自覚でいる。

 だから本来ならばこの時間、私はすでにアスファルトを踏んでいる。けれどそれが、未だ校舎の玄関に止まっているのは、つまり彼が、特別な労働をしたからだ。

 

「手伝いありがとう。お疲れ様です、吉田くん」

「いえ、別に」

 

 日直の仕事。その一環として、教師の書類整理を手伝った。この手の雑事を避けることに関して、彼は天才的なセンスを持っていると言ってもいいが、今日に限ってそれを逃れることは叶わなかった。部活動に無縁であることは、ごく稀に不利益を生む。

 

 依頼者は、クラスの副担任だった。縁なし眼鏡と後ろで結んだ髪、勝気な瞳が特徴の、生真面目な女性、という印象。胸の辺りにネームプレートがあるが、彼はそれを読む必要を感じていないし、教師側もまた同じだろう。そもそも、それを律儀に下げている教師の方が少数派だ。

 学校、という空間では、大人はすべて「先生」というラベルを貼られていて、それさえあれば十分だと、誰もが割り切っている。

 しかしならば、生徒の方は。

 貼られたラベルの、裏側は。

 

「寄り道せずに帰るように」

 

 残らせた責任があるから、というつもりだろうか。それならば初めから、生徒を労働力の当てにするべきではないだろうが、そのような効率化を不思議と大人は避けたがる。

 立ち去る教師に、彼は「どうも」とだけ返して、靴箱の間をすり抜けようとした。

 彼の足には、私がいる。靴を履き替える必要がないから、立ち並ぶ靴箱には用がない。

 の、だけれど。

 

「…………」

 

 靴箱を、レターボックスと勘違いしたのだろうか。本来、私たちが納められるべきだろうその場所に、封筒がひとつ、収まっていたようだ。

 

 見上げる彼の手が、桃色の封筒を手に取った。ほんの一瞬目を細めて、彼はそれを開けることなく近くのゴミ箱に捨てる。

 

 もう、幾度も見た光景だった。

 

 私の底がアスファルトを叩く。校門は遥か背の向こう。あの手紙を置いた者は、果たしてどのような結末を夢見ていたのだろう? もはや知る由もないことだけれど、せめて早めに覚めればいい、と思う。傷の浅いうちに。夢の虚なうちに。もう二度と、思い出すこともないように。

 

 帰り道。帰路はまっすぐだった。このような日、彼は早く家に帰りたがる。おそらくは、脱ぎ捨てたいのだろう。日常を。俗事を。因縁を。煩わしく絡みつく、その鎖を。

 脱ぎ捨てて、彼は裏返る。

 その機会は、遅かれ早かれ。

 

 坂道。

 はじけた柘榴の饐えた赤が、焼けたオレンジに染まるアスファルトに虚しくへばりついていた。

 

 古来、峠とは一つの境界だった。いわんやそれが逢魔時となれば、なおのこと。

 

 この世界には、悪魔と呼ばれる異形が存在する。

 

 人の怖れ。怯え。恐怖。

 その象徴に顔が憑き、不気味な唸りを上げたなら、それが悪魔の正体だった。

 

 有史以来、人が悪魔によって滅びていないことは奇跡に等しい必然だ。

 

 悪魔は人の怖れによって育ち、恐ろしき雄叫びをあげ、畏るべき破壊と死を撒き散らす。

 

 つまり今、この焼けた影が伸びる通学路で、彼が相対するその異形がこそ、悪魔と呼ばれる超常存在。

 

 かつて人間だった残骸をベシャリと捨てて、それは振り返った。

 四つの腕に浮かぶ血管。真っ赤を越して黒ずんだ顔色。膨れた頭蓋は風船にも似て、けれど激情に歪んでいる。

 

 怒りの悪魔。

 

 人が「怒り」に対して抱く恐怖をもとに生まれた、異形の存在。

 

「お、オイッ!! おまえッ! そこのぉ、お前ェ!」

 

 癇癪を起こした子供の声が多重にハウリングを起こしたような、人間離れした下品な怒号が響く。

 

「お前ッ! ちゃんと見てろよォ肝心なとこをっ! ぶ、ぶっ殺してんだぞォ俺は! 今ァっ!!!!」

 

 意味不明な叫びを上げて、悪魔は民家のブロック塀に拳を叩き込んだ。バスケットボールよりもなお巨大な膨れた拳は、コンクリートブロックを砂の城のように容易く崩し、耳障りな破壊音を響かせた。家の住人が、悪魔災害保険に加入していることを願うばかりだ。

 

「やっちまってんだよ!! 俺はッ!! ちゃんとわかれよそれをッ!! わかってんだろォぉおお!!?」

 

 地団駄を踏むように四つの腕でアスファルトを叩いて、その表面を砕いていく怒りの悪魔。

 

「ちゃんとッ! 俺にびっくりして死ねよッッ!!」

 

 縦に裂けた口で叫びながら、それは飛びかかってきた。彼は心底嫌気がさしたように嘆息して、一歩、後ずさる。

 それは多分。

 柘榴のようにはじけた頭蓋の名残を、踏みつけることを嫌ったからだ。

 それは倫理的な死体への憐情や敬意なんかではなく、単純に。

 白い靴()についた汚れは目立ちやすいからというだけの、それだけの理由でしかなかっただろうけれど。

 

「『蛸』」

 

 峠とは境界。踏み越えれば尽く、裏返る現実の淵。

 逢魔時、果たして現れた魔は、どちらを指すか。

 

 指を重ねてくねらせて、彼はその名を呼ぶ。

 どこからか、艶かしく蠢く触手が彼を包んだ。

 規則正しく並ぶ吸盤。薄気味悪い、勘違った無様な雌蛸。

 人が蛸に対して感じる恐怖から生まれた異形の存在。

 蛸の悪魔。

 それが、彼の契約した悪魔の名だった。

 

「ぎっ、ぃいいい!?」

 

 人は悪魔に抗うため、悪魔の力を利用した。

 デビルハンター。その始まりが誰であったか、今を生きる人々には知る由もないが。

 しかしその末裔は今も、こうして契約により代償を捧げ、悪魔の力を借り受けることで、悪魔を狩り殺している。

 

 吉田ヒロフミ。高校生。男。

 本業、デビルハンター。

 

 裏返ったコインが、闇を受けて染まる。

 

 褪せた表情。虚な瞳。空虚に彷徨ううらぶれた偶像は、夕闇の中でこそ真に輝く。

 

***

 

 平均すれば、ひと月に五、六日ほど。彼は平日であるにも関わらず、私を履かない日がある。

 彼は悪い男だ。つまりそれは、彼にとって学校をサボることが、一つの日常としてさえ定着していると言うことを意味する。

 

 彼の指が私ではなく、彼自身の選んだ他の靴たちに触れたのならば、私は一抹の寂寞と共に、詰襟ではない垢抜けた上着に覆われたその背中を見送らなければならない。

 

 今日もまた、そんな憂鬱の一日だった。

 その指が靴箱の暗がりから攫ったのは、私のような廉価品とはまるで違う輝かしさの、ハイカットのレザースニーカー。タンニン鞣しの本革が放つ、重厚感のある淡い茶色が、彼の足元を伊達に彩る。

 

 それは見た目の美しさ以上に、確かな機能性を併せ持つ。

 せいぜい整備されたグラウンドを走るまでが精一杯の私とは違う、確かな実用性。

 足首までを保護するそれは、見た目の軽やかさを遥かに超えて頑丈で、重たい。

 ある種のミリタリーブーツのような、グリップの効いたアウトソール。その内側には、補強と重みを増すために厚手の鉄板が仕込まれている。

 ただ歩くためだけのそれではない、過剰なまでに攻撃的な見えない爪牙。彼が履きこなせばそれは、刃物よりもよほど鋭く命に届く、研ぎ澄まされた死神の鎌となる。

 

 なぜ、そんな凶器が必要だろう?

 それはひとえに、彼がこれから歩む先に、それによって踏みつけるべき、相応の障害が立ちはだかることを意味している。

 

 そう、彼はデビルハンター。

 悪魔を殺す影こそが、真実の姿。

 

 その道行を、私が踏むことは許されない。

 

 トントン、と。軽くつま先を土間のコンクリートに打ち付けて、彼はドアを開け、外へ出た。いつもは彼よりほんの少し先に見るはずの日の光を、遠く拝むだけなのが、耐え難く歯痒い。

 

 彼はこれから向かうのだ。

 私では到底役者不足の、血と屍が咲く壇上へ。

 

「行ってきます」

 

 閉じ切る寸前のドア。背越しに呟かれる言葉は、いつもとまるで同じ響きで。

 凍てつくような横顔が、酷く、遠い。

 

 彼に履かれていない時間は、酷く長く感じる。それがたとえば彼が安らかに眠る時間なのなら、それでいい。けれど、今は違う。

 今、彼は何をしているのだろう。クラスメイトは教室。割れた砂時計が紡ぐような進まない時の中で、焼き増しのように昨日と同じ日常を過ごす。それはとても憂鬱で、けれど得難い退屈なのだ。

 

 彼に、退屈は似合わない。ひりつくような危険の中でこそ、彼はどこまでも甘美に踊ってみせるだろう。

 そう、人には向き不向きがある。安物の運動靴が、慣らしたグラウンドの上だけを走るべきように。二分の一を決めるコインが、自販機に収まるべきように。研ぎ澄まされたファイティングナイフが、臓腑を貫くべきように。壊れるほどに焼けた愛が、実らず砕け散るべきように。

 彼のように悪い男は、悪夢のように死の淵をこそ舞うべきなのだ。

 

 けれど、それでも。

 それでも私は、耐えられない。

 

 きっとそれは、私がそのように作られたからだ。

 ああ、なんて酷くつまらない、弱くて脆い押し付けだろう。

 学校指定の運動シューズ。変わらない日常を褪せた無色に染め抜くために、嘘のように白く塗られた私だから、こんなつまらない感情を捨てられない。

 

 今、彼は何をしているのだろう。どこで、どんな戦いに身を投じているのだろう。朝は過ぎ、昼は暮れ、夜が迫る。彼はまだ、悪魔と共にいるのだろうか。その頭蓋を踏みつけて、その臓腑を掻き分けて、その鮮血を滂沱と浴びて?

 その涼しげな横顔に、傷はついていないだろうか。その嫋やかな指先は、まだ同じ長さのままだろうか。そのほそらかな横腹は、まだ滑らかなままだろうか。

 

 その心臓の麗しき鼓動は、今も変わらず鳴り続けているのだろうか。

 

「——ただいま」

 

 誰ともなく呟かれる言葉だけが、ただ一つ。心を鎖す暗雲を、解き放つ鍵だった。

 

 帰宅の声が、日付が変わるよりも早いことは珍しい。もとより、彼は門限に縛られるような生活をしているわけではないけれど、それでもそれほど遅くなるのは、決まって「サボり」の日だけのことだ。

 そんな日にはいつだって、彼は酷く美しく見える。

 

 ああ、今日もまた。

 汚れた服装。肌の擦り傷。褪せたように生気が失せて、青白い憂鬱の相貌。

 いつもと変わらないはずの、消え入りそうなほど甘い顔立ちは、けれどどうしてだろう、夜の闇を越えるたび、怖いほどに冷たく、美しく変わっていく。

 何があったの、なんて滑稽。物言わぬ道具に聞けるはずもない。彼がどのような戦いに挑み、そしてそうも傷付き、その身をすり減らしているのか、私に知ることは許されない。

 研ぎ澄まされるように、残酷に。靴とは真逆に、悲しいほどに。彼は草臥れ、傷付き、身を削り、その度にずっと魅力的になって帰ってくる。

 私はそれを、ただ見ていることしかできない。

 そしてそれさえも、いずれは。

 

 ただ、夜が怖ろしかった。

 いつかその果てなく乾いた闇が、まるで暗いゴミ箱の底のように、ついには彼を連れ去ってしまわないか。

 そんな不安を嘲笑うように、彼は開け放たれた窓の向こうに、遠く月を眺めていた。長い睫毛が寂光を浴びて、金剛石のように煌めく。その様がぞっとするほどに美しくて、震えるようだった。

 

 ああとも、私は悪夢を見ている。

 彼のその指先は、明日も私を手に取ってくれるだろうか?

 いつだって、思う。もう二度と彼が帰ってこなくなる日が、いつか来てしまうんじゃないだろうか。

 私ではない靴を履き、私の知らないどこかへと。ふらりと幻想、掻き消えるように。月の光さえも亡き、深い深い闇の底へ。

 それはもしかすれば、今日であったかもしれない。

 

 遠く、ここではないどこかに焦がれる獣の肖像。それは郷愁でさえあるのだろう。彼の生きる世界は、きっと、ここではないのだから。

 ならばそれこそが自然の摂理だ。鳥は空の向こうへと羽ばたき、燃ゆる火はやがて溶け消える。

 

 それでも、どうか。

 誰でもいい、彼を繋ぎ止めてはくれまいか。

 月の重力に惹かれぬように、鎖で縛ってはくれないか。

 

 夜に揺れ、明けを羽ばたく翼の残影。消え入るような、傷だらけの偶像(ヴィーナス)

 その横顔が美しくなるたび、私はまた、酷い悪夢を見る。

 

***

 

「吉田くんって、いつもつまらなさそうに生きているよね」

 

 それが愛の告白であると聞いて、信じる人はどこにもいないだろう。

 

 捨てた恋文で焚き火が作れるほど人を狂わす才能に満ちた彼は、当然、それよりも少し身の程を知らない勇気を持ち合わせてしまった女子生徒によって、一ヶ月のうち学校をサボる日と同じくらいの回数、こうして無益な時間を過ごす羽目になる。

 

「……サボってる日、どこに行ってるの?」

「さあ」

 

 そっけない答えに、熱はない。

 それでも彼女は、もう一度だけ勇気を出した。

 

「あなたと同じ景色を、見てみたい」

「やめておいた方がいいと思うよ」

 

 結局、それで終わりだった。

 彼女の敗因はなんだろう? もしかすれば、月が出ていなかったことかもしれない。

 

 そのまま、同じクラスだという女子が去った後の屋上で、彼は座り込んだ。もうすぐ午後の授業が始まるが、どうやらフケるつもりであるらしい。

 勉強はするだけ得であるが、その恩恵を受けれる日が来るかは運次第だ。そのような腐れた理屈で判断したわけではないだろうけれど、結局、彼はその日、ずっと屋上で午後を過ごした。

 

「吉田くん、これ」

 

 渡されたルーズリーフを、彼は困ったように持て余した。

 

「えっ、何?」

「昨日、午後の授業出なかったでしょう? 私が迷惑かけたせいで、ごめん」

 

 どうやら、授業ノートの写しだったようだ。彼女は彼が起こしたボイコットを、自分の責任であると勘違いしたらしい。

 関係ない、と言おうとしたのか口を開きかけて、それも面倒臭くなったのか、結局彼は「どうも」とだけ言って、それを素直に受け取った。

 結局、紙切れ一枚だ。断る方が角が立つ。

 小さな善意は、突き返すとその三倍の悪意になって返るのが世の理だった。

 

「——吉田、答えてみろ!」

「はい」

 

 彼は前に出て、チョークを手に取った。

 ルーズリーフは、どうやらそれなりに有用だったらしい。

 教師のつまらないプライドか、あるいは懲罰目的か。わざわざご指名で出題された、昨日の授業を踏まえたのだろう意地の悪い質問を、彼は難無く答えて見せた。

 

「これでいいですか?」

「…………ああ」

 

 苦渋を眉に滲ませるだけで済ませられるあたり、彼はまだマシな人間である。そのような評価を下さなければいけないことが、つまり現代社会の悲哀だった。

 

 件の女生徒の机を通るときに、彼は腕を下ろしたまま小さくVサインを向けた。礼のつもりなのだろうけれど、そのような態度がこそ良くない因果を産むということを、彼はもう少し学習した方がいいだろう。

 トラバサミのようないたずら心を仕掛けられた少女は少しだけ顔を綻ばせて、同じように組んだ腕の下でだけ、秘め事のように二本の指を立てて返した。

 

 

 それだけで事が終わったならば、世に悪魔は蔓延らない。

 

 

 机の上の花瓶が、わざとらしい涙声を誘っていた。

 

「え〜……まあ。こんな報告をしなければならない事が、割と、その、なんだ。嫌な話だが。えー、わかるかな。いや、まあ、その、こういうことは初めてだが……ああいや、何度もあっても困るんだが、まあ……」

 

 広い頭皮に冷や汗をかいた教師が、青白い顔でもごもごと歯切れの悪い言葉を繰り返す。

 何度か躊躇うように呻き声を上げた後、ついに彼はそれを言い切ることに成功した。

 

「知ってるやつもいるかもしれないが————篠崎が亡くなった。今朝のことだ」

 

 ざわざわと、その言葉に室内が騒がしくなる。その原因に彼が含まれないことは、いうまでもないことだろう。

 そしてもう一人、それに含まれない生徒が一人いた。

 いや、一人いない、というべきだ。

 昨日、Vサインを向けた先には、今は花瓶が佇んでいる。

 

 篠崎、というのが、彼女の名前であったらしい。思えば彼女は、彼を呼び出したときにさえ自分の名前を名乗り損ねていた。

 人伝に聞いたその名に、彼は何を思っただろう。

 

「あー……それでその、学校としてもいろいろ後処理が……いや、あれだ。今の言葉選びは良くなかったな。うん……それで、とにかく、その……手続きが必要だから、今日は公休になる。というわけで、お前たちはさっさと帰れ」

 

 そう言って、彼はファイルホルダーをシッシと振って、生徒たちを追い散らす。

 

 教室のうち五割ほどは、その非現実的な報告を飲み込みきれなかったようだ。唯々諾々とその指示に従い、一人また一人と、足早に不吉な空気から逃げ去っていった。

 

 そして残りの五割うちの大半は、帰り支度をしながらも、不謹慎な噂話で悲劇を飾り立てる下卑た快楽の誘惑に、争う事ができなかったようだ。

 

「篠崎、学校で死んでたらしいよ」

 

 どこかの誰かが、意図せず悪意の封を切った。

 

「マジかよ、自殺?」

「殺されてたって」

「嘘……」

「学校の誰かがやったのか?」

「うちの生徒が見つけたらしいよ」

「屋上で死んでたんだって」

「両手両足がちぎれてたって聞いた」

「悪魔に殺されたんだよ」

「俺ちょっと覗いたけどめちゃくちゃ血残ってた。マジかも」

「ダルマじゃん。やばー」

「誰が見つけたんだよ」

「篠崎ってそんな恨まれるキャラだっけ?」

「知らない。あの子なんかお高くまとまってて嫌いだったし」

「お前死人だぞ」

「だからこそじゃん。死人に口なしでしょ?」

「中センとかがやってそう。いつも悪魔がどーたらってうるさいし」

「あの人先生じゃなくて警備指導でしょ」

「犯人誰だよー」

「休みにしてくれたのは感謝だな」

「見つけたやつって誰か知らない?」

「写真とか誰か撮ってないの?」

「このクラスの誰かが見つけたらしいよ」

「そいつ犯人じゃね?」

「だから目黒先生あんなビビってたのか」

「おい名乗れよ誰か」

「お前今日早く来てなかった?」

「いや俺は——」

「ねえもしかして——」

「どうせなら期末テストのときに——」

「私聞いたんだけどさぁ——」

「嘘言うなよ——」

「やっぱりお前——」

「あーあ、明日も誰か死んでくれりゃ——」

「見たんだって。嘘じゃない——」

「ここだけの話——」

 

 

「吉田が殺したらしいよ」

 

 

 シン、と。

 水を打ったように、喧騒が静まった。

 

 誰がそれを言ったのか。今となっては、それを探る意味もないだろう。

 

 無数の目が、彼を見つめていた。

 何かを期待するように、何かを忌避するように、その瞳はじっと待つ。

 

 けれど彼はいつもと変わらず。

 どこか遠くを見つめる、漆黒の瞳。

 奈落の底のような深い沈黙が、やがて喉を締めるような緊張に変わる。

 

 張り詰めた重圧。耐えきれず、誰かが引き金に手をかけた。

 

「…………なあ」

「吉田!」

 

 それを遮るように、教室の扉が開かれる。

 

「……お前ら、まだ残ってたのか。さっさと帰れ」

 

 顔を覗かせたのは教師だった。やつれた表情。まだ、汗をかいている。

 

「先生! あの——」

「悪いが今は忙しい。さっさと帰れ」

 

 生徒の声を断ち切って、彼は苛立たしげにいう。

 

「それから——」

 

 一拍おいて、一言。

 

「吉田は職員室へ」

 

 彼は引き金を引いた。

 

***

 

 学校と言う閉鎖空間は、酷く固く、そして脆い。剛性ばかりが高いその檻は、想定外の一撃には呆れるほど容易く砕け散る。

 

 職員室の奥。生徒指導室に待っていたのは、二人の警察官だった。

 

 第一発見者というのは、どうにも損な立場であるらしい。

 取調室に早変わりしたそこで、彼はお遊戯のような詰問を受けた。

 

「発見した時の状況は?」

「時間は?」

「なぜ屋上に入った?」

「誰か見てないか」

「庇ってるんじゃないか」

「お前が殺したのか」

 

「……なぜ彼女に近寄らなかった? クラスメイトだろう」

「靴が汚れるので」

 

 その答えに、警官は心底呆れたとでも言いたげにため息をついた。

 彼らの靴は酷く汚れて、草臥れている。

 

「あのな、君。いくらなんでもその態度は、人間としてどうなんだ」

 

 おそらくは。

 それを、人は正義感と呼ぶのだろう。

 つまりは、立場と権威を笠に着て、自分にとって理解できない存在を踏みつける行動。そのような暴力を、人はこの世で最も好む。

 正しい、と言う概念は、常にそれに反する間違いがあって担保される。相互作用が、この世界の成り立ちだ。

 

 それがわかるから、彼は何も言わない。何を言っても、意味がない。ただ、困ったように微笑むだけだ。

 人間らしさとは、果たしてどこにあるのだろうか? もう生き返らない死体に縋り付いて、泣き喚くことが人間らしさか? それは、己が感情に飽かせて人を殺す独善と、果たしてなんの区別がつけられるだろう。少なくとも靴の私には、見分けることができない。

 

 すでに、意味は全て失われているのだ。溢れた水は、地に落ちた時点で泥水である。失われたそれに、報いる術は永遠にない。

 けれどそのような悲惨な現実から目を逸らさなければ正気を保てない刑事たちにとっては、感情を逆撫でされるのも仕方のないことだっただろう。

 

「人が死んでんだぞ? ふざけるのもいい加減に——!」

 

 ガタリ、と。刑事が椅子から立ち上がるその瞬間。

 

「——失礼」

 

 室内に、割り込む四人目。

 タイトなスーツに身を包んだ、メガネの女性。

 胸のネームプレートを見れば、それは彼のクラスの副担任だった。

 

「……事情聴取中です。勝手に入られては——」

「すみません。大きな音が聞こえたもので、何かあったかと」

「……いえ、まあ、少しね。なんでもないですよ」

 

 教師の疑念を受けてか、刑事はトーンダウンした。

 今、学校側の心象を悪くするのは困る、ということだろう。教師が態度を硬化させてしまった場合、警察も学内での行動がし辛くなる。閉鎖環境における特殊な権力構造というものは、なかなか厄介なものだ。

 

「そうですか」

「ええ、すいませんね。どうも」

「しかし、あまり長時間生徒を拘束されても困ります。早めに終わらせていただけると」

 

 冷淡な教師に対し、刑事たちはどうしたものかと眉を下げる。この教師を追い返して、取り調べを続けるという目もないではない。しかし、教師陣とは良好な関係を繋いでおきたい。

 結局、天秤は後者に傾いたようで、刑事たちは折れた。

 

「わかりました。詳しい話はまた後日」

 

 手帳を畳んで、警官はおしまいのポーズをとった。

 教師は冷めた目でそれを見て、次いで彼に視線を移す。

 

「吉田くんも、無惨な死体を見て動揺したとはいえ、無為に疑われるような言動はしないように」

「はい」

 

 流れで彼を連れ出ようとした教師だが、それを刑事が止めた。どうやらまだ連絡要項があるようで、ひとまず先にと教師だけを外に追い出す。

 

「……長い間、すまなかったね。後日、連絡をするかもしれないから、連絡先と住所を書いておいてほしい。それが終わったら、もう帰っていいよ」

「はい、どうも」

 

 出された書類に電話番号と住所を書き込んで、彼は立ち上がった。

 

「——ああ、最後に一つ」

 

 ドアの前に立った彼に、警官が最後の問いをかける。

 

「——犯人は誰だと思う?」

 

 彼は。

 その問いに。

 薄く笑った。

 

「——プロじゃあないでしょうね」

 

 それだけを告げて困惑を残し。

 彼は後ろ手に、扉を閉めた。

 

***

 

 寒々しい夕焼けだった。

 学校の屋上には、キープアウトの黒と黄色が言い訳のように張り巡らされている。まるで赤信号と同じように、その実態のない禁止令を容易く跨いで、彼は現場に踏み込んだ。

 血溜まりの跡は、まだ消えていない。

 現場保持、と言うやつなのか、あるいは単純に清掃が追いついていないだけなのか。いずれにせよ、朝見たそれに比べて、血が乾き固まっている分、歩きやすくはなっていた。

 

 死体は、今はもうない。

 それを求めて来たわけではないだろうけれど、ならばなぜ彼がこの場に訪れたのか。少なくとも新雪を踏みしめたがる子供と同じ思いではないことは確かだ。

 

「…………どうしてだろうね」

 

 誰にともなく。

 そんなことを言って、彼はフェンスに肘をかけた。

 逃げ去る茜を追いかけて、紫の夜が空を這う。

 

 冷たい風が吹いた。

 

 その横顔が、恐ろしいほどにいつもと同じ。

 解け消える星が眩むほど、凍てつくような美しさ。

 はにかむような微笑が、まるでドライアイスに放り込まれた花束のように、今にも砕け散りそうだった。

 

 取り出した携帯電話は、デザイン性よりも頑丈さを重視した、公的には流通していない軍事用の衛星電話。

 もちろん、それはファッションアイテムというわけではない。むしろ、彼が普段使いにしている最新式の薄型携帯がこそ、どちらかと言えばファッションアイテムだろう。つまり、擬態であるということ。

 

 彼は、その皮を脱いで電話をかける。

 

 視線の先は、未だ、空。

 宵の紫は、暮れなずむ陽の名残を惜しむように空の果てへと追い縋り、その消えゆく最期の断末魔を刮ぐように啜り貪っている。

 やがて目が開くように、ぽつりぽつりと星が瞬く。啓示にも似て月の光がその銀を磨き、薄緑の寂光が、獣の牙を照らすだろう。

 

「もしもし?」

 

 もう、夜が来る。

 

***

 

 始まりがあれば、終わりがある。

 それは生まれればやがて死ぬのと同じように。

 造られた物が、やがて滅び朽ちるのと同じように。

 

「行ってきます」

 

 扉を開けて、彼は外に出た。夜更け。出かける彼を、けれど私は見送らない。

 

 大胆不敵に、車道を横切る。

 深夜。交差路は無人。点滅する蛍光灯も、割れて砕ける荒びの光景。

 私は割れたアスファルトを踏んでいた。

 夜の淵にも、未だ彼が私を履いたままでいるのは、思えば初めてのことだった。

 

 日が暮れた世界を彼は歩む。白線の上を、綱渡りのように危うく、儚く。削れて煤けた白線の白と、私の地肌が交差して、ほんの一瞬、境界が滲むような錯覚。

 

 見上げる彼の横顔に、色はなかった。ただ澄んだ影だけが、彼の横顔を覆っている。

 

 すたすたと、迷いなく。断ち切るような歩みと共に、彼は無人の夜道を行く。彼はどこへ向うのだろう? 靴の私に、問うことはできない。

 けれど、あるいは、それは問うまでもないことだった。

 

 喪に服すような黒を纏っていた。

 

 彼が着ているのは、制服だ。あまりにも見慣れた、黒の学生服。

 洒脱な眦には、誰よりもそれが似合わない。

 だからこそ、それを彼が着る目的といえば、一つしかない。

 

「なんか、悪いことしてる気分になるな」

 

 なんて独り言に、もしも物言える口があったのならば、きっと「悪いことをしてるんでしょう」と返しただろう。

 制服を着て訪れる場所など、一つしかない。

 

 そう、吉田ヒロフミは悪い男だ。

 誰よりも。

 何もかも。

 悪くて、最低で、だから——その甘さを捨てきれない。

 

 音を立てずに、彼は施錠されているはずの校門を開き、その隙間をくぐり抜ける。

 彼が訪れたのは、学校だった。

 昼間のそれは、嫌というほど見慣れていたけれど——夜に見るそれは、何故だかひどく、不気味に映る。

 

 彼は平然と、夜の校舎に忍び込んだ。

 いや、忍び込んだという表現さえ。適切ではない。

 あまりにも堂々と、自然に。我が物顔で、彼は校舎の中を歩き回る。気配を隠すなんて、そんな思考さえ浮かべないまま。

 

 人気のない廊下に、足音だけが響く。

 非常ボタンの赤いランプ。リノリウムの床に鈍く映り込むそれが血溜まりのように見えて、蜃気楼のように、鉄の香を想う。

 

 やがて彼は、一つの教室の前で立ち止まる。

 

 見慣れた世界でも、昼と夜とでは、その印象は真逆に変わる。まるで等号の向こう側の世界のように。入れ替わった正負が塗りつぶす暗澹。彼は恐れることなく、ドアを開けた。

 

 月明かりが、窓辺から差し込んでる。

 窓際。最後列。誰が選んだわけでもない、彼の指定席。

 誰も侵せないはずのそこに、先客が、一人。

 

「……お待たせ、とかなんとか、言ったらどうよ」

 

 場違いなほど明るい声で、問いかける人影。逆光で見えないシルエット。やがて目が慣れれば、一人の少女が浮かび上がる。

 

「だって、時間通りだろう?」

 

 彼は肩をすくめる。

 時刻は、午前二時。光さえも寝静まる、夜の底。

 

「呼び出したら、普通は相手より先に着いておくのが礼儀ってもんだろ」

 

 そう言って、彼女は片手を上げる。その指先には、飾り気のない白い封筒。差出人は——吉田ヒロフミ。

 

「なるほど、勉強になるよ」

 

 なんて嘯きながら、彼は机の一つに腰掛けた。

 

 真夜中の密会、と題するには、張り詰めた空気が嫌に刺々しい。

 探るような、視線の交差。

 

「聞きたいことがあるんだけど」

「いいぜ、なんでも答えてやるよ」

「どうして、篠崎さんを殺したの? ——大和」

 

 問いかける、先には。

 緩く結えたサイドテール。高い背に、しなやかな体つき。少し焼けた肌が、健康的な印象を与えるけれど、この夜の闇にばかりは、似つかわしくなく。

 かつて、彼と話したクラスメイトの一人——大和翔子が、そこにいた。

 

「だって、あいつ、鬱陶しかっただろ?」

 

 何を当たり前のことを、とでも言いたげに、彼女は小首を傾げた。

 

「なぁんか、勘違いしてたよな、あいつ。吉田がそういうの嫌いって、見てたらすぐわかるのにさ。思い上がっちゃって、迷惑だってわかんねーのかな」

 

 ケラケラと、笑いながら。

 彼女は動機を詳らかに語る。

 

「そのせいでお前、授業休んじゃうし。本当、迷惑。あんなやつが近くにいたら、お前も気が休まらないだろ? だから、処分しなきゃな、って」

 

 微笑みかけて、言う。

 狂気さえ浮かばぬ、純の笑顔。

 

「それで、殺した」

「そう」

 

 まるでいつもと変わらぬ調子に、彼は言う。

 無感動に、無感情に、無関係に。

 全てを切り離したように、冷めた声で。

 

「私も聞きたいことあるんだけど、いい?」

「どうぞ」

「じゃあさ——なんで私だと思ったわけ?」

 

 別に、証拠は残してないと思うんだけどな、と。

 言って、彼女はわざとらしく顎に手を当てる。

 

「別に、確信があったわけじゃないよ。ただ——」

 

 思い返す。夕暮れの電話。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。それだけの、単純な話」

 

 工作に掛かった時間は一時間。ツテを辿って、手紙を出させた。

 違えば当然、わざわざこの場には来ない。

 ただそれだけの、当たり前の話。

 

「なるほどね。間抜けは見つかったぜ、ってやつ。シクったな。あれ、お前の直筆じゃなかったのか」

 

 おっえー、と吐き気のジェスチャー。なぜそれを取るのか、理由を知りたくはならないが。

 

「んじゃ、ついでにも一個」

「どうぞ」

「それでお前は、犯人であるこの私をわざわざ夜中に呼びつけて——一体何がしたいわけ?」

 

 皮肉げに、問われ。

 

 彼は。

 

「うーん、そうだな」

 

 言いながら、ポケットに手を入れる。

 

「実のところ、何がしたいってわけでもないんだよね」

 

 伏した目。月の光を避けるように、睫毛が瞳を庇う。

 

「人が死ぬって当たり前のことで、その原因がたまたま同じ人間だったからって、取り沙汰する価値はないと思う」

 

 そもそも。

 

「生きている人間が何をしたところで、それが死んだ人間に対して何か意味を与えられることって、多分、ないし。今更何をしたところで、終わったあとの現実を変えられるものじゃない」

 

 だから——

 

「これからすることは、多分——ただの八つ当たりだ」

 

 蛸。

 呟けば、四方八方。無数の触手が、群がるように少女へと伸びる。

 人体など容易く叩き潰し、血のシミに変える超常の膂力。けれどそれが触れる直前、彼女は残念そうに目を細めた。

 

「いいぜ。受け止めてやるよ」

 

 ぱぁん、と。

 音が立って、触手の先端が弾ける。

 蛸の悪魔は慌てて触腕を引っ込めた。

 

「すごいよな、悪魔の力って」

 

 ギョロリ、と。

 彼女の影に、瞳が蠢いていた。

 

「『視線の悪魔』って言うんだってさ、こいつ」

 

 蠢く瞳は、山羊のそれ。

 

「クラスのゴミどもも、あの警官共も、ひっでーよな。最初に見つけたのがお前だからって、あんなに疑ってかかってさ。本当、あの場で殺してやろうかって思ったよ。でも、お前に迷惑がかかるとよくないからさ」

 

 ぱちり。瞳が瞬けば、ごとり、と。

 虚空から、散らばる生首。

 

「家に帰ってから、片付けといた」

 

 絡みつくように粘性な声色。彼女は頬を染める。

 

「これからもさ、お前の周りにまとわりつく鬱陶しいものは、全部私がなんとかしてやるよ。大丈夫。私がずっと——『見てる』から」

 

 うぞ、と音が立ちそうなほど不気味に、うねり、昂り、浮き上がった影が、異形を象る。

 闇色の粘液は束をなし、作り上げられるのは人外の骨格。ヒョロ長い猿のような体に、足代わりか無数に生え伸びる、連なる眼球の球形触手。腕はなく、背から広がる三対六枚の蝙蝠翼。闇色のそれに浮かぶ瞳は大小無数。頭蓋は無貌にして無明。されど全身に開いた瞳は幾千幾万。数え切れぬ視線の渦が、ただ一人を見つめている。

 

「『スポットライト』」

 

 ぱ、と。

 

 光が、瞬く。

 

「墨!」

 

 叫ぶ言葉は、一瞬早く。黒塗りの煙幕。彼は無様にも床に転げ、瞬間。

 

 彼のいた場所を、光が差し貫く。

 

 照射は一瞬。振り返れば、背後。教室の壁はぽっかりと、光の当たった一点のみが、完全に消し飛んでいた。

 否、それは壁一枚の話ではない。その向こう側、さらにその向こう側。連なる教室のその全て、おそらくは外壁に至るまでが全て、ぽっかりと。一直線に、消し飛んでいる。

 

「目からビームって、反則だろ」

 

 一滴、冷や汗をかきながら、彼は自らの従僕が吐き出した闇に紛れる。ポケットから手を引き抜けば、握られる一本のナイフ。師匠譲りのCQCは、けれどレーザー相手にはあまりにも頼りなく。

 

「俺のこと、殺す気?」

「まさか。避けるって、わかってたよ。『見てた』から、わかる」

 

 ごくり、と生唾を飲み込む音さえも、暗闇にはよく響く。

 見ていた。あるいはそれはいつから、どこまで?

 気持ちが悪い、なんて常識の上に浮かぶ感情など遥か遠く、過るのは純然たる不明への不安。すなわち、こちらの戦法を、果たしてどこまで見切られているのか。

 

 身を屈めた姿勢のまま、彼は蛸に墨を吐かせる。もうもうと立ち込める黒が視線の払った闇を塞ぎ、再び教室内を暗闇で埋め尽くした。

 見計らい、彼は立ち並ぶ机と椅子の隙間を縫うように移動する。低い姿勢にありながらも、染み付いた技術と本能的なセンスが、足捌きをぶれさせない。

 足音すら立てずに私を操り、彼は彼女へと近づこうとする——が。

 

「やめてよ。よく見えないじゃん」

 

 ぱ。

 

 四方八方に広がる光が闇を祓う。じゅう、と音がして、伸ばしかけていた彼の腕が握るナイフごと焦がされた。

 

「うぉっ!?」

 

 と、叫びながらも冷静に。身を翻して腕を引き、蛸に墨を吐かせながら闇の中に身を埋める。居場所を悟らせないために、あえて時折だけ音を立てながら机の隙間を移動する。

 

 そうして意識を逸らしてから、彼は気配を消し、そっと窓から外へ出た。ベランダなどあるわけでなし、壁にある凹凸に足をかけ、無理やりに張り付く。

 その瞬間、墨が揺蕩う教室に、再び光が宿る。けれど四方八方に散らされたそれは先ほどの集中砲火に比べればはるかに低威力であるようで、壁を貫くこともなく、蛸の吐く墨と拮抗する。

 

 月明かりが照らしてようやく、私は彼の手を見ることが出来た。瞬間、ない肝が冷える。怪我は、少なくとも見た目には酷かった。火傷によってか手は真っ赤に染まり、痛々しくも爛れている。

 

 が、逆に言えばその程度という意味でもある。焦げ付くほどのそれではない、というのは、私にとってはそうでなくとも、彼にとっては胸を撫で下ろさせる水準であったらしい。

 

「……集中攻撃じゃなきゃセーフってとこか」

 

 呟いて、一息。厄介な相手ではあるが、決して無敵と言うわけではない。それが確認できただけでも、十二分である。少なくとも彼は、そう判断したようだ。

 

 踏ん張りの効かない足場で、彼は裏をかくべくしてか一つ上の階層を目指す。彼の足元にあるのが私だと言うことがこれほど腹立たしくなることは初めてのことだった。もしも私の粗製のせいで、彼が滑り落ちたなら。そうでなくても、私が愚図の安物なせいで、彼が不利になったなら、私は私を一生許すことができないだろう。

 

 張り詰めた私の心の糸は、けれど切れることもなく、彼は危なげない動きで一つ上の教室に移動した。

 窓から中に入り、着地。ふぅ、と一息ついた瞬間——

 

 浮かぶ眼球が、彼を見つめていた。

 

「——そこか」

 

 スポットライト。

 

 ぱ、と光線が迸る。じゅうと音を立てたのは、果たして床か天井か。転がる体はけれど間に合わず、彼の左腕に、光がかする。

 

「——っ!」

 

 息を呑む声。見れば、彼の左腕。二の腕から肩にかけてが、パックリと抉られていた。骨が見える寸前。どろり、とこぼれ落ちる血の塊。夥しい鉄香。はたはたと跳ねた雫が、床と壁を紅に染める。

 

「——な、もうやめにしない?」

 

 その声は、階下から聞こえてきた。ずろり、と視線の悪魔を引き連れながら、彼女は空いた穴を通してこちらの階に上がってくる。

 浮かんでいた目玉がぐちゃりと悪魔の体に取り込まれる。分裂。あるいは、()()の作成。なるほど、その手の曲芸ができる悪魔も、珍しくはあるが()()()()()()()()()

 

「私さ、別に、吉田のこと傷つけたいわけじゃないんだわ。むしろ、守りたくて頑張ってるわけでさ。なのにこのままじゃ、本末転倒だろ?」

 

 お前もさ、義理立てには十分だと思うぜ——なんて、彼女は他人事のように言う。

 

「吉田って優しい奴だからさ。意外と、責任感とかあるタイプだし。気にしてんだろ? 実は。ごめんな。私、配慮が足りてなかった。やるんならちゃんと、わかんないようにやるべきだったよな。ごめん。だからこの件は、私が悪いんだ。そういうことにしてくれよ、吉田。無理せずにさ、これは私のせいにして、それでおしまいにしておこうぜ。そんな大怪我までしちゃってさ、お前、もう十分頑張っただろ? そこまでしたなら、誰も文句なんか言わねぇし、私が言わせねぇよ」

 

 どの口が、と、それがない私でさえもいいたくなるような独善の妄言。吐き出す汚物のような言葉を、けれど彼は眉ひとつ動かさずに聞いている。

 

「目、曇ってるんじゃない? それって。俺は君にそう見えてるほどいい奴じゃないし、君が見たがるほど頑張って生きてるってわけでもない」

 

 多分、それは本音だ。

 だけど、それでも。

 彼はいいながら、ぶぅ、と蛸の吐いた墨の中に身を躍らせ、接近を試みる。

 

「全く、天邪鬼だよな。ま、いいさ。お前が気が済むまで、付き合うよ」

 

 たまには月夜の逢瀬も悪くない、なんていいながら、彼女は再び光線を放つ。しかしその先には——

 

「……触手?」

 

 ばら撒かれる光が照らすのは、けれど彼ではなくその従僕。八本の足をずろりとくねらせ、タコの悪魔が視線を遮る。

 

「……よく見えないだろ」

 

 苛立ったように言って、彼女は視線の光を狭める。じゅう、と赤熱する光線が、蛸の足を次々と焼き切っていく。

 稼げた時間はほんの一瞬、けれどその一瞬で十分だった。

 なにせ——

 

「は……?」

 

 ちぎれ飛んだ蛸の足。その向こう側に、彼の姿はなかった。

 代わりのように。

 

 窓辺。月夜を背に、窓枠に足をかける麗しの肖像。

 体の半ばを窓の外に出し、かかるつま先と窓縁を掴む指だけが、彼の体を支える全てだった。

 地面は遠く、びょうと風が煽る。

 

「何やってんだよ、お前」

「さて、なんだろう」

 

 ぶぅ、と。腕をむしられ、されど体は残る蛸の悪魔が墨を吐く。もうもうと立ち込める煙が断絶のように彼の姿を覆う。

 

「——っ!」

 

 彼女は慌てて視線の光を飛ばす。けれど——

 

「痛って」

 

 その光が指先に掠り、彼は危うく手を離しかけた。

 

「——っ! 馬鹿野郎!」

 

 彼女は慌てて近づこうとするが、その動きを彼は制する。

 私の片方が窓枠から外され、宙を揺蕩う。もちろんただの運動シューズである私に、空を踏む特殊機能は付いていない。

 片手片足だけで器用にバランスを取る彼は、あとひと押しでもされれば地面に叩きつけられるだろう。

 

「近づかないでね」

 

 言っとくけど、これ、脅しだから。

 なんて、彼は薄く微笑む。追い込まれた姿勢は、けれど最大のイニシアチブ。その寒気がするほど魅力的な笑顔がこそ、悪魔さえ蕩かす最大の武器。

 

「……どういうつもりだよ、八つ当たりじゃなかったのか?」

「うん、まあ」

 

 彼女が、一つ勘違いしていることがあるとするのならば。

 それは、もしも吉田ヒロフミと言う男を本当に守りたいのならば、その敵は吉田ヒロフミその人である、ということだ。

 

 いつだって。

 溶け消えそうなほどの儚さは、その内側から滲み出す。

 

「八つ当たりってのはさ、何かを得るための行為じゃない。むしろ——失うためにやるようなものだ」

 

 そういう意味では、きっとこれが正しい。

 

 ぱ。

 今度こそ、それは光の灯る音なき声ではありはせず。

 彼が、その手を窓から離し、虚空へと身を投げ出す形容だった。

 

「——やめろ!!」

 

 彼女は遮二無二駆け出す。

 落ちかけた彼の手を掴むため。窓枠の向こうへと、必死に手を伸ばし——けれど、それは空を切る。なぜって——その手は、彼に切り落とされるから。

 

「君の気持ちは、嬉しいってわけじゃなかったけれど」

 

 ぴたり、と。

 空中に、彼が静止する。

 

「……は?」

 

 うぞり、と、蠢く景色。

 彼女の顔が青ざめる速度に連動するように、空間が塗り替わる。

 

 一本、二本では、ない。もちろん、八本でさえも。

 うぞうぞと、蠢く。夥しいほどの小さな蛸。

 絡み合う透明な触手を繋ぎ合わせて。ネットのように彼の体を受け止める、生まれたばかりの仔蛸たち。

 

 彼の扱う蛸の悪魔は——雌だ。

 いと恐ろしきことにだが。

 恋に目を眩ませた女というものは、子供さえをもそれに捧げて喜ぶものであるらしい。

 

 生まれたばかりの蛸の体は、ほとんど透明に近い。その特性は、悪魔であっても代わりなく。激闘に紛れて四方八方にばら撒かれていた仔蛸たちは、窓の外で文字通りに体を張って、彼を受け止めるために待機していたのである。

 

 粗悪の私に、宙を踏む奇跡は起こせなくても。

 せめて命を踏み躙る残酷くらいなら、あるいは。

 

「ごめんね」

 

 呟けば、再び。

 色なきが蠢く。

 少女が振り返れば、そこには。透き通る仔蛸に纏わりつかれ、動きを止めた視線の悪魔。

 窓枠の細き壇上。命の縁を踊る彼から、目を離すことは許されなかった。それこそが、宿主の意思であったのだから。司る恐怖の形は、視線。それは断じて、全能の目にあらず。幾千幾万の眼であれど、向く先が一つであるならば、それは盲と違いなく。

 忍び寄る魔の手は、容易くそれを絡め取った。

 

 張り付く触腕が、悪魔の体を這う。

 無論、いくら悪魔の子とはいえ、一つ一つは手のひらよりも小さな蛸である。視線の悪魔を止められるほど、強い力がありはしない。

 だからそれが動きを止めているのは——

 

「蛸って実は、毒があるんだ」

 

 普段食べてるから、意識してないだろうけど。

 

 言いながら、彼は仔蛸の網を踏みつけて教室へと舞い戻る。

 

 ——毒。あるいはそれは、蛸のものだけとは限らなかったが。

 目に毒だ、なんてそれこそ、あからさま。

 

 片腕を失い、床に夥しく流れる血。自ら敷き詰めた、鮮血のレッドカーペット。そこへ片膝をつく少女は、悔しげに歯を食い縛る。

 

 彼はたった今、少女の腕を切り落としたナイフを再び掲げる。

 

「〜〜っ! 『スポットライト』!」

 

 彼女の掛け声に、視線の悪魔は懸命に答えようとした。

 震える目でナイフを見つめ、けれど——

 

「蛸の毒は嘴にある。大概は、人体に影響があるほど強いものじゃあないけれど、種類によっては河豚毒——テトロドトキシンなんかの、致死性の猛毒を分泌するやつもいるらしい。いずれにせよ共通するのは——」

 

 光が、ブレる。

 

「獲物の神経に作用する、()()()である、ってこと」

 

 麻痺毒。あるいは現実のそれそのものではあるまいが——悪魔の操る概念だ。

 それは神経という構造があるかさえも定かではない非現実の体をも、確かに蝕んで見せたらしい。

 震えた目は、ナイフを捉えることはなく。

 散らばった光が、あらぬ方向を照らす。

 

「——っ! スイッチオフ!」

 

 ブレた瞳が彼の体をさえも照らそうとして、反射的に彼女は攻撃終了の令を下した。

 

「ありがとう」

 

 いいながら、彼は一歩近づく。

 スポットライトは、もう灯らない。

 

「……私のこと、殺す気?」

「うん」

 

 まさか、とは。

 彼は言わなかった。

 

「……靴」

 

 彼女は。

 多分その時初めて、私と目を合わせたのだと思う。

 

「汚れちゃうぜ、多分」

 

 広がる血溜まりが、もうすぐそこに迫っていた。

 きっと私に喉と肺があったなら、小さく息を呑んでいただろう。けれど、そうはならない。私は靴で、人ではなくて、何より彼の——吉田ヒロフミの物だから。

 

「いいよ、別に。そのくらいは」

 

 結局のところ、それが答えだ。

 死体に駆け寄ることを厭うたのは、それに意味がないからで、逆説。

 意味があるなら、私のような安物を、惜しむ意味などありはしない。

 

 吉田ヒロフミ。彼という男は、捨てることができる男だ。

 何ものにも執着しない。あるいはできない。

 それはもしかしたら、自分自身にさえも。

 

 私の命は今日限り。家に帰ればゴミ箱に放り込まれて、それっきり。きっと私のことなど、一秒後には忘れるだろう。

 

 だから私はせめて、祈る。どうかこれからの彼の道行に、なるべくならば、苦しみが少なく済みますように。もう二度と、私が覆うことのないその足が、傷付く日など来ませんように。

 

 始まりがあれば、終わりがある。

 望もうが、望むまいが。

 

 それは生まれれば、やがて死ぬのと同じように。

 造られたものが、やがて滅び朽ちるのと同じように。

 ひとひらの願いが、やがて妄執に変わるのと同じように。

 

 生まれかけた小さな縁が、あっけなく断ち切られるのと同じように。

 

 始まりも、終わりも。共通項はただ一つ。その形を選ぶ権利は、当人にないという現実だけ。

 

 ならば、踏み越えた境界の向こう。最後に見る光景が、彼の勝利であるならば。

 それは私というこの取るにたらない靴一足にとって、決して悪くない最期だった。

 

 

 

***

 

 

 

 なんて、格好をつけて言ってはみたけれど。

 

 後日談、である。

 

 それを語るのが物言わぬ私からであるというのは、あらゆる意味で驚くべきことであろうが、ともかく。

 

 私は今、風呂場にいる。

 安アパート。タイル張りのバスルーム。壊れかけのシャワーヘッドから放たれる、肌を打つには強かに過ぎる流水が、私の表面()を洗い流していく。

 

 黒ずんだ血混じりの汚れた水が、音を立てて排水溝に吸い込まれていくのを、私はぼんやりと見つめていた。

 

 あの後。

 てっきり捨てられるだろうと思っていた私だが、なんの気まぐれか、彼は私を手元に置いた。

 

 そして今日。彼は私を風呂場に持ち込み、ブラシを手に取り。その時点でまさかとは思ったが、案の定。

 

 彼は今、私を洗っている。

 

 ざあざあと音を立てて流れる水と、ブラシの擦る音。それをなす彼の表情は、いつもとまるで変わらない。

 

 考えてみれば。

 

 いくらものに執着のない彼とても、別段、潔癖症というわけでもない。

 私のように、言ってしまえばどうでもいい靴を、たかだか血で汚れたというばかりのことでいちいち買い直すのも、そちらの方が馬鹿馬鹿しい、ということだろう。

 

 固形石鹸が作る泡は、決して私を削らないというわけでもないが、しかしゴミ箱に直行するよりは、寿命を延ばしてくれただろう。

 

 新品同然だなんてお世辞にも言えず、けれど少なくとも、血は落ちた。

 

 彼はそれに満足したのか、私の水気を軽く切ると、風呂場を出た。内側に古新聞を丸めて詰め込み、そのままベランダに置く。

 

 天日干し、だ。

 

 麗らかな陽気が、私に沁みた水気を飛ばしていく。爽やかな風が肌を撫で、遠く小鳥の囀りが歌を作る。時折翳る雲さえも、今は微睡むように心地よく。

 

 始まりがあれば、終わりがある。

 望もうが、望むまいが。

 

 遠いはずだった終わりが前触れもなく訪れてしまうのが現実だというのならば、必然、来るはずだった終わりが嘘のように立ち消えてしまうのも、また現実の一つなのだろう。

 

 あるいは私がいつ終わりを迎えるのか。それは誰にもわからない。

 早いか遅いか。一ヶ月後か、一週間後か。あるいは彼が制服に袖を通さなくなるその日まで、付き従うことができるのか。

 

 運命などまるでこの世にありはしない。

 

 踏みつけるもの、踏みつけられるもの。この世にはその二つがあり、けれどそれが入り混じる。踏みつけられるものが、踏みつけるものへと送れる最後の叛逆は、きっと穢れを残すこと。

 その隙間にあるのが靴ならば、せめて身代わりになれることだけが、唯一無二の誉と言うものだ。

 

 そう、私は彼の足を彩る色にはなれはしない。純白でさえない褪せた無色。けれどそれでも、せめて残された穢れから、彼を庇うことならば、あるいは。

 

 いつか、私も終わる日が来る。

 たとえばそれは、今日でさえあるのかもしれない。

 乾き切った私を彼が見て、やはり何かが気に入らなくて、私はゴミ箱に呑まれるかもしれない。

 

 けれど、それでもいい。

 それでもいいと、胸を張ろう。

 もう二度と彼の指先が、私の踵に触れないのだとしても。

 せめて確かな記憶を抱いて。

 

 たった一度であったとしても、私は彼のその足を、穢そうとする赤の疵から守ることができたのだと。

 

 粗悪品でも。

 量産品でも。

 いくらでも代えが効く、取るにたらない安物の靴でも。

 

 だからこそ、かけがえのないたった一つの、身代わりになることができるのだ、と。

 

 ありもしない胸を張りながら、どこまでも気安く死んで行こう。

 

 思い上がりも甚しくて、思わず笑い出しそうだけれど。

 

 笑う口もない私なのだから、せめて、そのくらいの自由ならば。

 





 吉田ヒロフミは窓を開けて、乾き切った靴を手に取った。
 買ったばかりの白を少しだけ取り戻したそれを、彼は靴箱へ戻しに行く。
 閉め忘れた窓から風が吹いて、彼は小さくくしゃみをした。
 きっと、明日もあるのだろう。
 かけがえのある、取るにたらない日常が。
 かけがえのない、一度限りの一瞬が。
 あるいは目が覚めてもまだ、生きている限りは。

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