短い夢だったな…
呟きと共に漏れ出た灰色の感情が、空気を白く濁らせる。
地面にこぼれ落ちた涙の跡をかき消すように、冷たい波飛沫が僕の足元を覆う。
こんなところで終わりだなんて嫌だ。
あの子に会えないまま死んでいくなんて嫌だ。
死、か。今更だな。
僕は幼い頃からずっと体が弱く、入退院を繰り返していた。
意識を失って倒れたことも、救急車で運ばれたことも、それこそ死の縁に立たされたことだって何度もある。
『死にたい』と願ったことだって、少なくはない。
普通の人間らしい「生」を送れないことに絶望した。
何一つとして成し得ぬままに生を終えると定められた己の運命を呪った。
でも、今の僕は違う。
今の僕には、生きる意味だって、生きる理由だってちゃんとある。
どうせ燃え尽きる命ならば、あの子の為に使おう。
あの子の為に生きて、あの子の為に死のう。
そう、決めた筈だった。
そう、覚悟した筈だった。
少年のそのささやかな夢は、いとも簡単に崩れ落ちた。
僕に、生きる意味なんてないのかもしれない。いや、きっと最初からそんなものなかったんだ。
だって、僕はこんな…
かじかむ指先をそっと耳に当てる。波の返す音が、風の吹く音が僕の体から切り離されてゆくように音を弱めてゆく。
キィーン。
強烈な耳鳴りが僕を襲う。
逃れるように一歩、二歩後ずさる。が、体はふらついて前へ倒れ込みそうになる。
「はっ、早まらないでくださいっ!」
力強く、それでいてか弱い震えるような大声が、夜の防波堤に響いた。
声の主はこちらへ駆け寄ってくると、僕の右足にしがみついて内の方へと引き摺り込んだ。
よろけそうになって、車止めに手をかける。
見たところ、僕と同い年くらいの女の子。
潮風に靡く長い桃色の髪に結ばれた、青と黄色の四角い髪飾りが灯台の光を反射して煌めいている。
僕のズボンの裾を掴む、その真っ白な手を包んでいるのはピンク色に白いラインの入ったジャージ。
何やら黒い物体を背負う彼女の背中は、微かに震えているようにも見えた。
「早まるって、何を…」
言いかけて、我が身の状況を振り返る。
夕暮れの海辺をじっと見つめて動かない、汚れた制服姿の中学生。
側には鞄ひとつ無く、両手に握りしめているのは壊れかけのカセットプレーヤーと、ぐちゃぐちゃに絡まった白いイヤホンだけ。
勘違いされても仕方のない場面だ。
「えっと」
向き直って理由を話そうとすると、彼女はより一層強い力で足元にしがみついてきた。
「し、死ぬのは、私の話を聞いてからでも、遅くない…です」
死ぬ?やはり彼女は何か壮大な勘違いをしているようだ。膝を折って地面にしゃがみこみ、彼女に目線を合わせる。
「…だから!」
「死ぬつもりなんかないよ!」
大声で彼女の言葉を遮る。
彼女は途端に目を丸くする。僕を縛る両手の力が少しだけ緩んだ。
「!…じゃあ、何でこんなところに」
被せるように次の言葉を重ねてくる。
カッと大きく見開いた青い双眸が、僕を睨むように見つめていた。
「少し海を見たい気分だった、それだけだよ。本当に、それだけ」
溢れ出しそうになる涙をグッと堪えて声を張る。
ひとかけの嘘も、偽りもない真意だった。僕に自死をする勇気など微塵もなかった。
しかし彼女は僕の言葉に納得しかねるのか、少しも僕を離そうとしない。
「それだけ…?もう1時間以上ずっと海を見つめて…ほ、本当は何をしようとしてたんですか」
そんなに長い時間が経っていたとは。道理で体が冷たくなるわけだ。
ならば彼女はこの寒い中、ずっと僕を見ていたということか。
それなら、僕が泣いているところも見られてしまったということか。
少し気恥ずかしくなって、思わず彼女の顔から目を逸らす。
「心配かけたなら謝るよ。でも、僕は大丈夫だから」
そう言って立ち上がろうとした直後、からりと音がしてポケットの中身がが地面に溢れ落ちた。
コンクリートの上に落下したのは、イヤホンでもカセットプレーヤーでもなく、薬だった。
「こ、これは….!」
まずい。これを見られたら…
「こっ、これは…まさか!かっ覚醒剤!この人は中毒症状で幻覚を見て自殺を…!止めないと!でもどうやって…そうだ!警察だ!でも、けい…さつ?警察なんか読んだら私も疑われて逮捕されて…! きっとすぐに実刑判決が出て刑務所に….刑務所でもひとりぼっちなんて嫌だ!...ってそうじゃなくて!捕まりたくない、牢屋に入りたくない…」
彼女は薬のシートを見るなり早口で捲し立てる。
…やはりこうなってしまったか。
あらゆる方向に動く顔のパーツが作り出すその表情は、もはや人間の原型をとどめてはいない。
「そ、それは、ただの痛み止めだよ」
不安と共に発したその言葉は、かえって不信感を煽る形となってしまった。
「う、嘘ついても、だ、騙されませんよ」
彼女はうめくような声を漏らしながら小刻みに揺れている。
この様子だと、多少の弁解で取り繕ったところで僕を解放してはくれないだろう。
第一、僕の右足を掴む手は楔を打ったように動じないままだ。
「理由を話したら、解放してくれる?」
もう一度彼女の瞳をじっと見つめて、ゆっくりと尋ねる。
その問いに彼女はこくり、と頷いてみせた。
ー1年前ー
冬。
冬だというのに、窓の外に映るのは雨でぼやけた灰色の景色だけ。
「雪が見たい…」
心の嘆きが吐息と共に漏れる。同時に、窓の外の景色はより一層ぼやけていく。
幸い、窓の内は暖かい。しかしその暖かさが空気と共に、僕の虚しさを膨張させていく。
トントン、と黄緑色の扉を叩く音が一人の病室中に響いた。
おそらく、看護師さんが点滴を取り替えにでもきたのだろう。
僕は両耳にはめていたイヤホンを外してから、扉に向かって声をかける。
「どうぞ」
「失礼します」
扉を滑らせてこちらへ向かってきたのは、予期せぬ人物 赤い髪を短く結んだ制服姿の少女だった。
「こんにちは、
大きな瞳を輝かせてにっこりと笑顔を見せる彼女は、喜多郁代。
僕の通うーーいや、所属する学校のクラスメイトだ。
明るく真面目な性格で皆に慕われ、委員長を務めているらしい。
調子はどう、と彼女の目が尋ねる。僕はそれに点滴針の取れない左手を挙げて苦笑する。
「雨なのにわざわざありがとう、喜多さん」
ーとは言ったものの、彼女が来るときは決まって雨ばかりだ。
「これも委員長の役目ですから」
そう言いつつ彼女はスカートを押さえながらベット脇の椅子に腰掛けると、カバンから茶封筒と白い箱を取り出した。
「はい、どうぞ」
二つの物を受け取って、膝に乗せる。茶封筒の中身は学校の書類だろう。けれど、箱の中身は検討もつかなかった。
「これは…?」
開けてみて、と語る瞳に促され、その白い箱の封を解く。
そっと蓋を持ち上げると、そこにはハート型に繰り抜かれた小麦色のクッキーが詰まっていた。
「ありがとう。でも、わざわざ作ってくれたの?」
「うん!私、お菓子作りが得意なの!それに、一くんも味付けの薄い病院食ばかりじゃつまらないでしょ?」
「助かるよ。ちょうど甘いものが食べたかったところなんだ」
「喜んでくれたなら嬉しいわ!」
いただきます、と挨拶してクッキーを小さく齧る。口内にまろやかな甘味が広がった。
「美味しい…」
「ほんと?よかった」
「喜多さんの彼氏は幸せ者だなぁ」
思わず口に出してしまった。
前に喜多さんが”一緒にいると友達から囃し立てられて困っちゃう”と、嬉しそうに話していたことを思い出したからだ。
「かっ、彼氏!?」
ピクっと喜多さんの体が跳ねる。何かおかしなことを言ってしまったか。
…もしかして、こうして僕の見舞いに来ていることを、彼氏さんに良く思われていないのだろうか。
そうだとしたら、申し訳ないな。
「こんなに美味しいクッキーが焼けて、明るくて可愛くて気が利いて…羨ましいよ、本当に」
そして、そんな彼女に釣り合うくらいの彼氏さんのこともまた、羨ましい。
きっと僕とは違って、心も体も丈夫で健康な人なんだろう。
きっと僕とは違って、聖人のように明るく優しい人なんだろう。
「かっ…可愛い?」
なぜか喜多さんが頬を赤く染めて恥じらっている。
喜多さんほどの美貌なら、飽きるほど言われていると思ったのだけれど。
「クラスのみんなにも、そう言われているんでしょ?」
僕がそう言うと、喜多さんは安心したような、がっかりしたような複雑な表情を浮かべつつ目を逸らした。
「そ、そんなことより…また、あの曲を?」
喜多さんは机の端にあるカセットプレーヤーに目を向けると、話を逸らすように呟いた。
「...うん」
「まだ、耳はよくならない?」
「…そうだね。だけど、先生はもう少しで治ると言ってくれた」
「そっか。じゃあ、よくなったらまた一緒に歌いましょうね!」
僕と喜多さんは小学校が同じで、休み時間にはよく2人で遊んでいた。
特に多く通ったのが音楽室。
そこで僕はぎこちない運指でピアノを弾き、そのガタガタなメロディを整えるように喜多さんが歌う。
時に二人で並んで座り、弾き方を教えた。歌い方を教わることもあった。
でも今はピアノを弾くことも、喜多さんの歌を聞くことも叶わない。
「うん。楽しみにしてるよ」
精一杯の笑みを向けると、喜多さんはそれ以上の笑顔で僕を照らした。
「じゃ、私はそろそろ帰るね」
「うん。ありがとう、喜多さん」
「またね、一くん!」
再び病室の人影が一つに戻るころ、冬の空はすっかり茜色に染まっていた。
春。
入院と退院の繰り返しだった日々が始まってから2年が経とうかという頃。
終わりは唐突にやってきた。
それは想像するより、遥かにあっけない終わり方だった。
来月には退院できると言われたのが半月前。喜多さんに報告して祝ってもらったのが一週ほど前。
そして今日。
未だ着慣れない私服を身に纏った僕は、待合室のベンチに腰掛けたまま母の迎えを待っていた。
窓の外に見えるのは、相変わらずの雨だった。でも、イヤホン越しに聞こえる雨音は軽い。
「とうとう一度も見れなかったな...」
雪のない地面を眺めてため息を吐いていると、誰かがこちらに向かって手を振っているのが見えた。
「おーい!」
そう叫ぶと、彼女はタッタと駆け寄ってきて、僕の隣に腰を下ろした。
雨の匂いを打ち消すように、彼女の髪が放つ花のような甘い香りが鼻を通り抜ける。
「退院、おめでとう!」
長い髪を片側にまとめ、胸に留めた大きな赤いリボンを揺らしながら真っ白な歯を見せる彼女は、僕の幼馴染ー伊地知虹夏。
いつも明るくて可愛い、天使のような女の子。
同じマンションに住んでいたことから、小さい頃から付き合いがあった。
彼女は僕より一つ年上だから、学校でも一緒という訳にはいかなかったけれど、登下校は一緒だった。
風邪で寝込んだ日も、入院が決まった日も、いつもずっと僕の隣に居てくれた。
「ありがとう、虹夏」
僕がそう礼を言うと、虹夏は照れ臭そうに彼女の長い髪に触れた。
「でも、本当に体は大丈夫なの?」
「うん、しばらくは症状も出ないだろうって。耳が治るにはまだもう少し時間がかかりそうだけどね」
症状というのは、突発的に意識を失うこと。
小さい頃に脳の病気を患った僕は、長い間この症状に悩まされていた。
「...あのときのこと、覚えてる?」
虹夏は忠告するように呟く。
「うん…覚えてるよ」
あの時のこと。
2年前のあの日、僕は大怪我をしたらしい。らしい、というのは、後で母や医師から伝えられた話だからだ。
何でも、階段を降りている最中に気を失って転げ落ち、僕は頭から血を流して倒れていたそうだ。
その時に脳を痛めたせいで今もなお、耳には後遺症が残っている。
それでもこうして生きていられるのは、あの子が助けてくれたおかげだ。
顔も名前も知らないけれど、ずっと探しているあの子。いつか、会って感謝を伝えたい。
いつか、あの時の恩返しがしたい。
「もうあんな無茶しちゃダメだからね」
今度は落ち着た口調でたしなめるように呟く虹夏。
あの頃の僕は、確かに無茶をしていた。
病気というハンデを背負った劣等感から、皆に追いつこうと必死だった。
学習の遅れを取り戻そうと、夜中まで起きて勉強することも多かった。
落ちた体力を取り戻そうと、母や教師の反対を押し切ってマラソン大会に出場した。
階段から落ちたのは、その翌日だった。
今思えばあの怪我は必然だ。ただの自業自得だ。
つまらない見栄の為に、たくさんの人に迷惑をかけてしまった。
情けない僕の自己満足のために、虹夏に心配をかけてしまった。
「うん。わかってる」
あの子にもらった命を、無駄に削るようなことはしたくない。
「おーい、お二人さん!」
見上げると、母が手を振っていた。
「母さん」
母さんはこの僕の実の母親とは思えないほど、溌剌とした人だ。冬だというのに半袖のシャツを着て、平気な顔で立っている。
「ひとまず、退院おめでとう。一」
「うん」
「これからは、楽しく生きるんだぞ。今までやりたくてもできなかったことを、全力でやるんだ。母さんは、いつでも応援するからな…」
母さんは声を落として僕の横の椅子に目をやる。
いつの間にか、虹夏が僕の隣にピッタリとくっついていた。
見るなり母はニヤリと笑う。それを見た虹夏が慌てて距離をとる。
「お前も馬鹿なやつだな」
ハハハ、と母さんは豪快に笑う。釣られて虹夏もくすくすと笑いだす。
「何だよバカって…母さんはともかく、虹夏まで笑って」
確かに僕は、無茶をして階段から転げ落ちるバカだ。顔も名前も知れない人をずっと想う馬鹿だ。
でも、今はもっと別な…違う何かをバカにされているような気がした。
「気にするな、大したことじゃない。それより帰るぞ!星歌が酒を用意して待っているからな!」
母はまたしても豪快に笑いながら病院の扉をくぐる。全く、我が母ながら陽気な人だ。
「帰ろう、
なんて考えていると、虹夏に腕を引かれた。
右手に握る虹夏の手は、まるであのときの彼女のような暖かさだった。
「まさか、あの子が虹夏だなんてことはない…よな。」
瞬間、そんな想像をして、すぐに否定する。
母さんもあの子の顔を覚えていないと言っていた。もしもあの子が虹夏だったなら、忘れるなんてことはないだろう。
「え?」
「何でもない。ただの独り言だよ」
待合室の席を立ち、母の背中を追いかけた。
雨は止んでいる。
こうして、僕は何度目かの入院生活を終えた。
「それでは、一の退院を祝って 」
『カンパーイ!』
グラスのぶつかる甲高い音とともに、マンションの一室に四人の声が響き渡る。
「改めまして、おかえり。一!」
「ただいま。って、ここは僕の家じゃないけどね」
「いいのいいの、ここも一の家みたいなものでしょ?」
「…それもそうだね」
同じマンションに住むぼくらは、母と星歌さんの仲が良いこともあってか、頻繁に互いの部屋を訪れていた。
可愛らしいぬいぐるみの揃えられたソファも、片隅に置かれたドラムセットも、全ては見慣れた光景だ。
酔って目をぐるぐると回す、母さんの姿も。
「おーい、母さん。大丈夫?」
「らいじょーぶらから、はじめはもっほふぁたへなふぁい」
全然大丈夫じゃないな。僕じゃなくて酒瓶に話しかけてるし。
「もう飲むのはやめなって」
母さんの手からグラスを奪い取ろうとするが、力が強く引き離せない。
まるで空中に釘で固定でもされているかのように固い。
「寝てるぞ、一」
「ほんとだ、もう寝てる。…ったく、僕と虹夏が料理してる間に何杯飲んだんだか」
「まぁまぁ、今日くらい飲んだって良いだろ」
「それはそうですけど…あ、布団借りますね」
「私も手伝うよ」
二人で布団を敷いて、母を寝かせる。
全く、こっちは今日退院したばっかりだって言うのに。
乾杯から十分とたたないうちに、椅子が一つ空いてしまった。
星歌さんは相変わらず夢中で虹夏の料理を口に運んでいる。
席に戻った虹夏は、それを嬉しそうに眺めている。
懐かしいな、この感じ。
昔を思い出して、しんみりしてしまった。
母は仕事で家を空けることが多かったから、僕はよく伊地知家で夕飯をご馳走になっていた。
「懐かしいね、この感じ」
虹夏に心を読まれた。
「またみんなで過ごせて嬉しいな」
「うん。でも、これは虹夏のおかげだよ」
というと、なぜか虹夏が僕の膝をポカポカ叩いてきた。
何かまずいことを言ったか?
「だから、二人に恩返しがしたい。…星歌さんも、僕にできることがあれば何でも言ってくださいね」
実際、僕にできることなど殆ど無いことは解っていた。それでも、言わずにはいられなかった。
膝に伝う衝撃の間隔が短くなる。
「何でも?」
星歌さんの声に、虹夏は手を止めた。
「言葉通りの意味ですよ。虹夏には返しきれないほどの恩がありますから。もちろん、星歌さんにも」
星歌さんには、僕の不甲斐なさも、それでも見栄を張ってしまう虚栄心すらも全てお見通しらしい。ならば、今更誤魔化す必要はない。
「ま、その時は頼むよ」
「はい、いつでもお手伝いし…
「ついてきて」
虹夏の声が僕の言葉を遮った。
「え」
チラリと時計に目をやると、短針はもう頂点を過ぎている。
こんな遅くにどこへ行くと言うのだろうか。
「してくれるんでしょ?何でも。」
そう言って僕の手を引く虹夏の不適な笑みになぜか、心臓の鼓動が速くなったような気がした。
マンションを出て、地下へと繋がる階段を下る。
ポッカリと開けられた穴のような暗闇が、僕達を飲み込んでいく。
そこに色彩はない。確かに感じられる虹夏の気配だけが、暗闇を無から引き剥がすばかりだ。
虹夏はポスターの貼られた分厚い扉の把手を掴むと、こっちだよ、と手招きする。
扉をくぐると、景色はさらに黒さを増した。
「今電気つけるから」
虹夏は慣れた様子でカウンターの奥へと入ってゆく。
パッと電球が灯った。
一瞬の明転の後、瞳孔に光が差し込んでくる。
眼前に広がるのは、仄暗く照らされるステージ。
その周りには電波塔の骨組みのような、なにやら抽象的な赤い装飾が施されている。
整然と並べられているアンプやエフェクターの類を見れば、今にも音楽が流れ出してきそうな雰囲気さえ感じ取れた。
ここは、ライブハウス”STARRY”。数年前に星歌さんがオープンした店だ。
僕がここを訪れるのは初めてではない。
けれど、どこか違う世界に来てしまったような、そんな不思議な感覚がした。
「あのさ」
虹夏の声に、僕は振り返って応える。
「これ、一に聴いてほしいんだ」
そう言って、一本のメタルテープを僕の掌に乗せた。
「これは…?」
僕はそれをひっくり返しながら眺める。
“20xx1225”
ラベルにマジックで書かれているのは、日付らしき八桁の数字だけ。
このライブハウスができるより昔の、古い日付だった。
「いいから聴いてみて」
虹夏にそう促され、ポケットのプレーヤーとイヤホンを取り出して、カセットを挿入する。
音量を最小まで下げたのを確認してから、赤い再生ボタンをカシャリと押し下げる。
モーターが唸りをあげて回転を始めた。
光沢のある黒褐色のテープが、スルスルと心地の良い音を立てて巻き取られていく。
三小節が終わるころ、聞き慣れた音楽が僕の両耳に飛び込んできた。
耳に馴染むギターフレーズ。どこか懐かしいボーカルの声。
どれも美しく、繊細で、それでいて力強い。
これは、間違いなくあの子の曲だ。
名も告げず去ったあの子が僕に残していった、一本のテープ。
その中にたった一曲だけ入っていた音楽に、とても似ていた。
あの子の曲は、もう一つあったんだ。
あの子が作った歌なのか、あの子の好きなバンドの曲なのか、今はそれすらも分からない。
けれど、何か重大な手がかりを得たような感じがして、気分は高揚する。
もしかしたら、あの子に会えるかもしれない。
しかし。
なぜ、これがここにあるんだ?
なぜ、虹夏がこれを持っているんだ?
まさか。
思考回路はテープと共にぐるぐると回る。
が、考えれば考えるほどに複雑に絡み合ってゆく。
疑問は黒い霞となって、そして四方へ散っていった。
曲が終わった。回転軸のカタカタと回る音だけが残り、うっすらと脳に響き続ける。
神妙な顔で僕の手元に目をむける虹夏に向き直り、意を決して声を出す。
「なんで、虹夏がこれを」
「私ね、夢があるんだ」
僕の問いかけに、虹夏は答えにならない答えを返す。
「へ」
突然の告白に、気の抜けた声が出てしまった。
「一も知ってるでしょ?私がドラムをやっていること」
「うん」
「一も思ったでしょ?素敵な曲だな、って」
そう言って虹夏は僕の掌のテープを指差す。
「うん」
「私もあんな風に演奏してみたい。私もあんな風に輝いてみたい。そう、思ったんだ」
「ーだから」
そう言うと、虹夏は大きく深呼吸した。
「いつか、夢を叶えられるかな」
輝く双眸が、希望と期待と、そして少しの不安が混ざった虹夏の心を僕に伝えていた。
◆
あれから半年以上の時が経った。
木々は葉を落とし、動物たちは巣に潜った。
教室の隅に佇む僕は、雲ひとつない冬の空をじっと見つめていた。
「いつか、夢を叶えられるかな」
その言葉が、脳に刻まれた刺青のようにまとわりついては離れない。
鳴り響くチャイムをかき消すほどに脳が思考を巡らせる。
虹夏の夢。
バンドを組むこと。
ステージで輝くこと。
武道館でライブをすること。
そして、STARRYをもっと有名にすること。
姉の意志を継ぐ為に頑張る
いつも日陰で寝ていた僕には見つけられなかった、”輝く”という夢に。
その眩しさにめまいがした。
虹夏の夢なら全力で応援したい。
全力で手伝いたい。でも、今の僕には何の力も知識もない。
だから今は、頑張るしかない。
虚しさに押しつぶされそうになりながら、ペンを走らせた。
「下村くん」
高い声が僕の名前を呼んだ。
廊下の窓に目を向けると、赤い髪がこちらを覗いている。
「喜多さん」
そう返事をすると、赤い髪は揺れながらこちらへ駆け寄ってくる。
「秀華高校を受けるんですって?」
「そうだけど…それがどうかした?」
でも、何か不思議なことでもあるのか?と思って、首を傾げる。
すると喜多さんは小さく微笑んだ。
「ううん、何でもない。それじゃ勉強、頑張ってね!」
それだけ言って、喜多さんは嵐のように去っていった。
確かに、僕のような人間に秀華高のような華やかな高校は似合わない。
でも、それはあくまで第二志望だ。第一志望は、下北沢高校。虹夏の通っている学校だ。
でも僕がそこを目指すのは、虹夏が居るから、というだけではない。
“あの子が下高にいる”、と聞いたからだ。
僕はあの日から、虹夏と聴いたあの曲を頼りにあの子を探していた。
あちこち駆け回って、唯一得られた情報は、あの曲を作った人物の妹が下高にいるらしい、ということだけだ。
確証はない。合格したとて、あの子を探す手段など持ち合わせていない。
けれど、そこへ行けばあの子に会える。そんな気がしていた。
もとより、その情報を僕に伝えてくれた星歌さんを疑いたくはなかった。
「おう下村」
今度は低い声に呼ばれた。
黒いスーツに身を包んだ長身の男性が教室に入ってきた。
「下村、去年まで入院していたのによく頑張ったな。この成績なら秀華高は余裕だろう」
僕のクラスの担任教師、上田先生が成績表をひらひらさせながら口角をあげる。
威圧感のある先生の優しげなその声に、僕はどんな顔をすればよいか分からなかった。
「ありがとうございます」
僕は無表情を保ったまま頭を下げる。
すると、先生はおもむろに僕の背中をぽんと叩いた。
「なんだ、嬉しくないのか?喜多の志望校と同じだぞ?」
「いや、別に喜多さんと同じ高校に行きたいというわけでは...」
首を横に振って否定すると、上田先生はその強面に似合わない、揶揄うような目線を向けてきた。
「…なんだ、二人で相談して決めたんじゃないのか?」
「いえ。喜多さんとは、そんなに深い仲とい訳でもありませんし」
喜多さんとはそれなりに長い付き合いだが、友達と呼べるほどの間柄でもないし、ましてや二人で同じ学校を目指すような仲でもない。
僕を気遣って声をかけてくれるのも、彼女が委員長をやっているという理由からだろう。
「そうなのか?俺には深い仲に見えるがな」
そう言って先生はガハハ、と豪快に笑った。
「ま、体にだけは気をつけろよ」
じゃあな、と背を向ける先生の後ろ姿に質問を投げかける。
「ちなみに、下北沢高校は...」
数秒の間をおいて先生はペラりと書類をめくり、何かを確認し始めた。
「あと一歩、ってところだな」
「そう、ですか」
あと一歩。
あと一歩で下高へ行ける。
あと一歩であの子に会える。
僕は共有する"一歩"の感覚に大きな乖離がないことを祈りつつ、右手にぎゅっとペンを握りしめた。
◆
「いってきまーす」
玄関に立つ母にそう告げて、駅へ向って歩き出す。
無理はするなよ、と後ろから母の声が聞こえた。
2月の気候は厳しい。
冬の青空に吹く風は、コートを着て、マフラーをしてようやく防げるほどに冷たかった。
ふっと吐く息が白い。けれど、相変わらず地面に雪はなかった。
今日は、下北沢高校の試験日だ。けれど、緊張は薄かった。
あれから努力を重ねたおかげで、なんとか”あと一歩”のラインを越えることができた。
あとは今日、普段通りの力を発揮するだけだ。
もうひとつ緊張を解す材料として、僕はすでに秀華高からの合格通知を受け取っていた。
先生の言っていた通り、僕は難なく秀華高の入試をパスする事ができた。
しかし、それはあくまでも万が一の時のための保険。
僕が目指すのは、あの子の待つ下高ただ一つだけ。
「結局、喜多さんには言えなかったな…」
1週間前、喜多さんに秀華高合格を伝えた時、僕はそれを伝えられなかった。
喜多さんは、僕以上に僕の合格を喜んでくれた。
とびきりの笑顔で、おめでとうを言われた。
彼女なりに、僕の将来を案じてくれていたのかもしれない。
万にひとつの可能性だが、同じ高校へ通いたいと思ってくれていたのかもしれない。
どちらにせよそんな状況で、”他の高校へ行くつもり”だなんて、とても言い出せなかった。
「下高に受かったら、ちゃんと話そう」
そう心に決めて、改札機を通り抜けた。
下高の最寄駅へ向かう急行列車の車内は、高校生、そして受験生らしき生徒たちで混雑していた。
もしかしたらこの中に、あの子が乗っているかもしれない。
手にする単語帳の間から視線を覗かせて、車内を見回してみる。が、それらしき人物は見当たらない。
そんなに簡単には見つかる訳ないか。
ひとまず探すのを諦めて、視線を戻す。とにかく今日は、試験に集中しないと。
キキィー。
ブレーキの甲高い音がして、列車が止まった。
開く扉に吸い込まれてゆく人の流れに乗って、ホームへ降り立つ。
なぜだろう、さっきまで冷静だったはずなのに、妙に落ち着かない。
風は確かに冷たいのに、汗が止まらない。
やはり試験には緊張がつきものなのだろうか。
もう一度気を引き締めて、右足を前へ出す。
改札を抜けて、大通りを渡れば会場はすぐそこだ。
妙に陽の光が眩しい。
反面、体は凍えるように冷たい。
変だな、コートを着ているはずなのに。
キィィン。
耳鳴りがした。
おかしいな、僕の耳はもう、完全に治っているはずなのに。
もう、イヤホンをしなくても大丈夫なはずなのに。
視界が鮮明さを失っていく。
周囲のざわめき声が大きくなっていく。
もしや、意識が遠のいているのか?
いや、違う。
確かに僕は地面に立っている。
両足で大地を感じている。
なのに、視界が暗い。
なのに、頬をつねってみても痛みがない。
まさか、僕は死ぬのか?
まさか、こんなところで終わりなのか?
まさか、虹夏との約束を果たせないまま死ぬのか?
まさか、あの子に会えないまま死んでいくのか?
知らない天井。…否、見覚えのある天井だった。
「気がついたか」
目の前で、母さんが呆れたような顔で僕を見下ろしていた。
「…だから無理はするなと言ったんだ」
右手に管が繋がれている。きっと、ストローが置いてあるだけだろう。
左手の指に挟んであるのは、紙を留めるクリップだろうか?
「なんでここに、母さんが」
僕は駅にいたはずだ。なのになぜ、ベットに横になっているんだ?
「とにかく今は寝ていな」
母さんは諦めたように呟く。
まさか…寝坊か?
「試験に行かないと!」
体に被せられた布団を払い飛ばして、下高へ向かう。
待て!と追いかけてくる母さんの声など知らない。僕を制止しようとする看護師の姿など見えない。
夢中で病院の扉をくぐる。
夢中で横断歩道を駆ける。
夢中で駅の改札を抜ける。
行き先も確認せず、やってきた列車に飛び乗った。
雨のせいか、車内に人影はまばらだ。
何かがおかしい。
窓の外に見える景色は暗い。ライトに照らされる線路だけが明るい。
まさか、僕はまた…
右手に点滴針が刺さっている。左手の指を、血中酸素濃度計が挟んでいる。
それらは、僕の身に何が起こったのかを明確に示していた。
終わったんだ。何もかも終ってしまったんだ。
あの子に会うためずっと頑張っていたのに。虹夏の夢を叶えるために頑張っていたのに。あの子に、お礼が言いたかっただけなのに。あの子に恩返しがしたかっただけなのに…!
全てが泡と消えた。
自然と涙が溢れ出してきた。一瞬で顔中がびしょ濡れになった。
窓に映る僕の顔は何よりも醜かった。
ファーン。
列車が警笛を鳴らして減速を始めた。目の前の景色が揺れる。体が右へ左へと揺れる。車輪がレールの継ぎ目を通るたび、心臓が打ちつけられるような痛みがした。
駅に停車してドアが開くと、乗客は全て降りてしまった。空っぽになった車内を見る僕に、強烈な虚しさが襲ってきた。
ああ、僕はなんのために病院を飛び出してきたのだろう。
ああ、僕はなんのためにこの列車に乗っているのだろう。
強張っていた手足が弛緩してゆく。列車がカーブを曲がる度、左右に揺れる。
その勢いのまま、体をシートに倒した。
沸き立つ深い絶望は、僕の身体を夢の世界へと誘った。
“ 次は終点、終点です”
自動放送の音に目覚めると、そこは名も知らぬ終着駅だった。
赤く腫れた目を擦りながらホームへ降り立つと、冷たい潮風の香りが鼻腔をくすぐった。
吹き付ける潮風が、あてもなく彷徨う僕に行き先を与えてくれるような気がした。
雨は止んでいた。
黒い空に哭く海鳥の声が響き渡る。視界の端を航く貨物船の明かりが波に揺れている。
「もう、あの子には会えないんだ」
自らの呟きに呼応するかのように、あのときの情景が走馬灯のように脳内を駆け巡る。
朦朧とする意識の中、あの子の声だけが聞こえていた。
強烈な痛みの中、僕の手をとる彼女の掌だけが温かく感じられた。
つまらない入院生活で、あの子の残したテープだけが心の支えだった。
その後の僕にとって、あの子は正しく”命の恩人”だった。
だから、あの子に会ってお礼を言いたかった。
だから、あの子に恩返しがしたかった。
それが、僕のささやかな夢だった。
◆
駅前の交差点を、地球と睨めっこしながらトボトボと歩く私。
その背中は、きっと何よりもちっぽけに見えていることだろう。
その背に担ぐ真っ黒なギターは、私を憐れんでいることだろう。
眼下を過ぎる白黒の縞模様が黄色に変わる頃、ふと空を見上げる。
白く輝く大きな月が、私に同情の淡い光を向けた。
白く輝く大きな月が、彼を天へと誘うように照らしていた。
あの人も、私と同じなのかな。
私の前をふらふらと歩く悲しげな背中に、共感のようなものを覚えた。
本来進むべき道を逸れて、無意識に彼の足跡を追う。
その地面には、幾つもの黒点が記されていた。黒点は途切れたり、留まったりを繰り返しつつ海へと続いていた。その点は、雨上がりのコンクリートに残る小さな水たまりと同じ色をしていた。
この点は、涙だ。あの人が落とした涙だ。
不意に、彼がこちらを振り返った。
私は慌てて木の影に身を隠す。雑草の揺れる音が広がるが、彼がそれに気づく様子はない。
あれ、なんで私が隠れているんだろう。何故、見知らぬ彼を追っているんだろう。
木の影から顔を出すと、彼は海を前にして茫然と立ち竦んでいた。
灯台の光に映し出される彼の姿は、ひどく痛々しい。
黒い制服はところどころが破れ、泥で汚れている。
頭に巻き付けられた包帯から、赤黒い血が滲んでいる。
そんな見た目とは裏腹に、彼は波に攫われそうなほど海に近い場所に立って尚、少しも恐れる様子がない。
まさか。
悪い予感が頭を過った。
『彼は、自殺しようとしている』
その想像はすぐに確信へと変わり、私の心を埋めつくしていった。
きっと、悪い人に騙されたんだ。きっと、悪い人に殴られたんだ。その悪から逃れるため、自ら命を絶とうとしているんだ。
止めなくちゃ…!
でも、どうやって?
彼の両足にしがみついて、力ずくで止める?
無理だ。体力のない私がそんなことをしたって、一緒に海へ落ちるだけだ…!
彼を言葉で説得して、気を変えさせる?
無理だ。コミュ障の私には、そんな能力は備わっていない…!第一、なんと声をかけて良いかわからない…
それなら、警察に…
だめだ。警察に電話なんてしたことない。ただでさえ人と話すのが怖いのに、相手が警察官ともなれば尚更だ。110と打った後、なんと言葉を発していいかわからない。駅を出てもう何十分も歩いてきた。自分の居る場所さえも伝えられない。下手なことを言えば、私が犯人と疑われてしまう…!そんなことをしている間に、彼が死んでしまう…!
『私が、助けるしかない』
木の影を抜けて、そっと彼に近づく。
潮風に煽られて、彼の黒い影が大きく揺れた。
「はっ、早まらないでくださいっ!」
無意識の願いが声となって夜の海を駆けた。
必死の思いで彼の右足に飛びかかり、力ずくで引き留める。
お願い、死なないで…!
瞳を強く閉じたままズボンの裾を掴んで、防波堤の内側へと引き摺り込む。
「えっと」
砂を踏む音がして、彼の右足が動く。それに負けないよう、より一層強い力でしがみつく。
暗闇を静寂が覆った。
目の前に視線を感じた。目を開けると、そこには彼の顔があった。
真っ赤に腫れた大きな瞳。頬には幾筋もの涙が枯れた跡。
「し、死ぬのは、私の話を聞いてからでも、遅くない…です」
「…だから!」
声を振り絞って叫ぶ。が、続く言葉は、彼の大声にあっけなく遮られた。
「死ぬつもりなんかないよ!」
死ぬつもりなんかない?嘘だ、それはただの誤魔化しだ。
私はそんなに簡単には騙されない。彼の背中は、確かに死を望んでいた。彼の涙は、確かに死を求めていた。
「!…じゃあ、何でこんなところに」
瞳を大きく見開いてじっと睨みつける。私を見つめる、その彼の体は今にも斃れてしまいそうなほど頼りない。
「少し海を見たい気分だった、それだけだよ。本当に、それだけ」
彼は私を宥めるように優しく呟いた。
「それだけ…?もう1時間以上ずっと海を見つめて…ほ、本当は何をしようとしてたんですか」
「心配かけたなら謝るよ。でも、僕は大丈夫だから」
そう言って立ち上がろうとする彼の服を掴んで止める。
からり、と音がして、何かがコンクリートの上にこぼれ落ちた。
月光を跳ね返して銀色に輝くそれは…見覚えのない薬品だった。
「こ、これは….!」
まさか、これは危ない薬なんじゃ…?
またも想像が私の心を支配する。
「こっ、これは…まさか!かっ覚醒剤!この人は中毒症状で幻覚を見て自殺を…!止めないと!でもどうやって…そうだ!警察だ!でも、けい…さつ?警察なんか読んだら私も疑われて逮捕されて…! きっとすぐに実刑判決が出て刑務所に….刑務所でもひとりぼっちなんて嫌だ!...ってそうじゃなくて!捕まりたくない、牢屋に入りたくない…」
恐怖と後悔が、私の脳内にぐるぐると渦を描いてゆく。
「そ、それは、ただの痛み止めだよ」
「う、嘘ついても、だ、騙されませんよ…!」
「理由を話したら、解放してくれる?」
彼は私をじっと見つめて、ゆっくりと呟いた。
その煌めく双眸は、もはや死など望んでいないようだった。
それから、彼は語り始めた。
持病があること。病院を飛び出してきたこと。
大切な人がいること。大切な人と、大切な約束をしたこと。
ある人に助けられたこと。ある人に、もう二度と会えなくなってしまったこと。
もう二度と、夢を叶えられなくなってしまったこと。
他人事のようには思えなかった。
私も、夢を失っていたから。私も、夢を諦めかけていたから。
…だから、諦めてほしくはなかった。
…だから、ありったけの想いを込めて叫んだ。
「大切な人と、約束したんですよね。約束を放って一人で死ぬなんて酷いです!」
「君に何がわかるって言うんだ!...それに、死ぬつもりなんて最初から無い」
彼は静かな怒りの炎を燃やすように、震える声を上げる。
「な、生意気なこと言ってすみません….しょ、初対面なのに…」
失礼なことを言ってしまったな、と少し後悔した。
彼の言う通りだ。私は彼のことを何もわかっちゃいない。
でも、気持ちだけはわかる。
もうすぐ中学も終わりだと言うのに、友達は一人もできなかった。クラスメイトとの会話すらなかった。
ずっとバンドをやりたいと思っていた。みんなからチヤホヤされたかった。
なのに、結局バンドメンバーは集められなかった。
文化祭でライブをするという夢も、叶わないままだった。
「だけど…!このまま諦めていいんですか!」
「…僕はもう、終わりなんだ」
そう言うと彼は、がっくりと肩を落とした。
返す言葉はなかった。
虚に揺れる彼の目線の先には、一本のカセットテープが落ちていた。
カセットテープ?
もう一度そこに目をやる。近くには、古ぼけたプレイヤーと白いイヤホンの姿もあった。
彼も、音楽が好きなんだ。
ならば、今の私にできることはたった一つだけ。
黒いケースのファスナーを弾く。
ストラップを腕に通し、左手にピックを持って構える。
私には、ギターしかない。
...否。私には、ギターがある。
波の音をかき消すように、六本の弦は震える。
彼の心を慰めるように、私はギターを弾き続ける。
「君なら、虹夏の夢を叶えられるかもしれない」
何かを閃いたような顔で、彼はそう呟く。
雪が降っていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
あなたが好きなのは?
-
後藤ひとり
-
伊地知虹夏
-
山田リョウ
-
喜多郁代
-
伊地知星歌
-
廣井きくり