序幕
星海は逆転し、天は欺瞞に蝕まれ、旧世界の支配者が海淵へと貶められる。渾沌より飛来した王座の主によって元素の秩序が再構築された。冠を戴く玉座の王は4つの光る影を生み、ソレは天地開闢のごとき創造を目の当たりにした。
熾天の主は啓示を下す。そして天の治世が文明の隆盛を迎えた頃、原初の玉座へと新たな混沌が押し寄せ、天の定めし
激しい戦いの末に天地を貫く巨木の根は暴かれる。統一文明は光の届かない奈落へと失墜し、大地は天の寵愛を失った。
「主がワタクシ達を見放したのなら、どうして生き恥を晒せましょう」
雲の
原初の御方はその身を窶し、海淵に墜ちた同胞の祈りは届かず、陰惨たる大地は元素の秩序を失ってしまう。凡人たる少女は無力に喘ぎ、波の花に囲まれながら不条理を甘受していた。
儚き信仰は虚妄に捧げられ、敬虔は白痴に成り下がる。
生も死も別段大層なものではない。生の完遂こそが死なれば、顕界に執着するのは愚かなこと────だから少女は祈りを捧げ続ける。
ソレは少女を哀れみ、祝福と呪いを授けた。少女が千の夜を越した時、流れ落ちた涙は虚空で塩へと変わっていく。玉体は元素に満たされ、砂上の楼閣のように崩れ落ちた。
流離う風の如くその身は世界を巡る。祝福が死生を超克させ、呪いが齎した真実は少女として生きた一切を無価値と断じた。けれど嘆くものはいなかった。かつては凡人であった、彼女自身さえも。
───序幕───
「『地中の塩』からの使者だと? ……追い返せ」
刹那の思案の後、帰離集を統べる魔神は一切の情を見せず冷酷に告げた。
『地中の塩』と帰離原の距離は近い。だがそれ自体にさほど要衝としての価値はなかった。
彼が知る限り、現在の『地中の塩』は辛うじて集落の体裁を保っているに過ぎず、着実と勢力を広げつつある彼とその同胞には微塵も気に掛けるべき要素がない。
かかずらう必要はないだろう。応じてしまえば岩王帝君としての威信が揺らいでしまう。荒廃した『地中の塩』と、大陸でも随一に発展している帰離集とでは、あまり
(ましてや、かの地の実権は人の王が握っていると聞く。……魔神であろうと、最期は哀れなものだ)
モラクスは僅かばかりの憐憫を添えて、悟られぬよう小さく嘆息した。
テイワット大陸の覇権を巡り、魔神達はしのぎを削っている。それはモラクス自身も例外ではない。
数多の魔神を屠る圧倒的な武力と、契約の神として残酷なまでに公明正大な在り方は崇敬を集め、人間のみならず仙人たちも恭順を示し、果てには同格たる魔神すらも盟友として迎え入れていた。
故にこそ格が問われる。今やテイワットで一、二を争うほど強大な勢力を率いる自分が、人の王が統べる
モラクスはリアリストだ。統治者として非情になれるからこそ神なのである。
しかし、
「少し、待ってくれない?」
唯一、彼を諫めることが出来るとすれば、それは同胞たる魔神しかいないだろう。
「帰終か。女子会とやらはもういいのか?」
手が隠れるほどの長い袖を揺らす少女へ、彼は表情を変えることなく尋ねた。
そんな為政者然とした相好を崩さない盟友に対して、帰終と呼ばれた少女は呆れたように肩を竦める。モラクスの
知恵は力だ。人脈もまた然り。
けれど、帰終は不服そうに頬をプクーと膨らませながら袖を揺らしている。曰く、
「以前言った通り、
「以前? ……そう言えば、そんなことを言っていたな」
「もう、まだ耄碌しないで。これからやるべきことが山ほどあるんだから」
「む、失念していたわけではないぞ。些末事だと判断したのには合理的な理由が……」
「とにかく! まずは使者の話を聞いてみない? あなただって、彼女と会ったら考えが変わるかもしれないから」
と、帰終の宥めるような物言いに、今度こそモラクスは瞬きほどの葛藤すらなく頷いた。
それは全幅の信頼故だった。「帰離」と名付けたこの地で一蓮托生に戦禍を駆け抜けたからこそ、帰終という魔神が聡明であることをモラクスは誰よりも知っている。
帰終が意味もなく使者を受け入れることはないだろう。彼はそう判断し、先ほどの言葉を撤回して『地中の塩』からの使者を迎え入れるのだった。
◆◇◆
視界一面に琉璃百合が咲き乱れていた。地平線の彼方から曙光が差し込み、世界を覆っていた夜闇が祓われていく。かつての友人と初めて出会った時も、琉璃百合の花畑が朝陽に照らされていた。キラキラと朝露が煌めいて、開花を促す可憐な歌声が今にも聞こえてきそうな気がする。瞼の裏が朝焼けで透ければ、あの時の情景が鮮明に思い出せた。
それが今、
帰離集には未来があった。文明の火は人々を照らし温め、智慧を
何故なら彼女はこの地の魔神を知っているから。その魔神は彼女と同じで、強大な力を持っているわけではない。それでも脆弱な人間を慈しむだけでなく、導くことで彼女が失ったものを守り続けてきた。いざこうして現実を思い知ると、彼女は劣等感と罪悪感に苛まれてしまう。
「これが、今の帰離原なのですね」
ふとした彼女の呟きが聞こえてしまったのだろう。使節として同行している側仕えは苦悶の表情を浮かべた。
「……申し訳ありません。あまりに不躾でした」
「あ、謝らないでください! 我々が不甲斐ないせいで────」
慌てて弁明する側仕えに対し、彼女は首を横に振って否定する。
「アナタ達に瑕疵はありません。全ては戦火から逃げ続けたワタクシの責任です。民草の王にも……苦労をかけてしまいましたね」
「そのようなことを仰らないでください。御身のご意思を、王も我々も英断として受け入れています。でなければ土地だけでなく命すら奪われていたでしょう。そして今、この帰離の地に訪れることもなかったはずです」
側仕えは頭を垂れて噛みしめるように言った。忠誠心と信仰心が人一倍強いこの従者は、心から己を尊重している。だから彼女の罪悪感は更に増すばかりだった。
テイワット大陸で勃発した魔神戦争において、人間など塵のように儚い存在だ。たった一撃で地形すら容易に変えてしまう魔神もいれば、彼女のように力を持たず民を引き連れて逃げ続ける魔神も存在している。彼女がこうして縋るように帰離集へ訪れることが出来たのは、ただの偶然に過ぎなかった。
しかし退廃を甘受するだけの『地中の塩』と比べ、今の帰離集はどうだろう。この地を支配する知己の魔神は、彼女のように民へと不自由を強いてはいない。
それどころか琉璃百合の美しさはより一層増しており、人々には笑顔が満ち溢れていた。力の多寡が問題ではなく、魔神である彼女自身の在り方が愚かだと痛烈に自覚させられる。
「けれど、どうしても考えてしまうのです。ワタクシの民たちが、ワタクシではなく彼女の下へと辿り着いていたのならと」
それは意味のない自問だった。ともすれば彼女自身の民を蔑ろにした発言かもしれない。そんな『もしも』を拭いきれず、帰離集と比較してしまうのは彼女の弱さであった。
その人間的な、あまりに人間的な不条理への慟哭は空虚へと吸われていく。琉璃百合の花弁が舞い上がり、いつかみた薄明の彼方へと想いを馳せる。そこにいるのは『もしも』の世界に生きる彼女の民たち。奪われ続けてきた彼ら彼女らの姿を夢想すると、今の『地中の塩』にはあるはずもない笑顔で彩られていた。
「もっとも、それすらワタクシには許されない感傷かもしれませんね」
彼女は頭を振って諦観の溜息を漏らした。
側仕えを含め、民たちが彼女を慮っても失い続けた過去が癒えるわけでもない。無意味で、無価値で、不毛で、愚かに過ぎる妄想だ。超越者たる『魔神』であれば尚更に。
「黎華様……それでも、私たちは────」
「さあ、行きましょうか。もう振り返る暇もありませんから」
黎華は宥めるように苦笑する。痛々しい自虐的な微笑みだった。ただ、側仕えは何も言えないまま憂鬱に頷くことしかできない。無力な人間如きの懊悩など、悠久を生きる黎華の苦しみに比べれば取るに足らないと側仕えは自覚していたからだ。
一人と一柱は帰離原を歩いて回った。道中、すれ違う人々が奇異の目で黎華を見ては、視線が合うと慌てて目を逸らす。聞くところによると帰離集には仙人も関わっているらしく、市井へと姿を見せることは滅多にないらしい。貴人のような出で立ちをした黎華を仙人と誤解するのは致し方ないと言えた。側仕えが何か言いたげにしていたが、わざわざ軋轢を生むこともないと黎華は口を閉ざしたままでいた。
流離う風が、
「ここから先は神威に満ちています。アナタはここで待っていて下さい」
「どうか、お気をつけて」
瓊璣野の西端。田畑を望む小さな丘の麓で、黎華は側仕えと別れることにした。
丘の上には石造りの小さな宮殿が建っていた。
けれど数百年、あるいは数千年も昔の事だ。いくら魔神同士と言えど、落ちぶれた黎華のように友が豹変している可能性も捨てきれない。帰離集を訪ねて命を奪われていないのも、魔神の戯れであればそれまでのことだった。
────彼女は、私に失望してるかもしれませんね。
そんな卑屈な考えが頭に過ると同時に、黎華の胸がチクリと痛む。
殺されることよりも、民を失うよりも、この瞬間だけは友に見放されることが怖くてたまらなかった。魔神として脆弱に過ぎる怯えの感情だった。この世界を彷徨い続けた果てに、堂々巡りでこの地に帰ってきてしまったことの情けなさは言うに及ばず、黎華
この名を与えてくれた友人に後ろめたさを感じずにはいられない。しかしなりふり構わず縋らなければ、黎華の民は明日の陽を拝むことなく地中で滅びを迎えるだろう。葛藤が頭の中で駆け巡り、黎華は自身の鼓動が早くなるのを感じた。
一歩、また一歩と階段を上っていく。脚が鉛のように重かった。踏みしめるたびに動悸が早まっていく。旧懐と悔恨とが背反して自身の感情さえ定かではなかった。
最後の段差を踏み終えると、そこには簡素な机と椅子が置かれていた。先客は二名。まるで黎華を待ち構えていたかのように、空席が一つだけ残されている。だが黎華の焦点は先客のうちの一人に当てられ、瞠目したまま動くことが出来ないでいた。
硬直して微動だにしない黎華の心情など知る由もなく……知っていたとしても対応は変わらないはずだ。髪を一房にまとめた男は、怜悧な相好を崩さずに言葉を放つ。
「まさか、『塩の魔神』が直々にやってくるとはな」
「ア、アナタ様は……」
震える声音。青ざめていく表情。黎華の人外じみた白磁の肌はさらに生気を失ってしまう。
そんな黎華をフォローするかのように、もう一人の先客である建物の主がポンポンと手を叩いた。ぶかぶかの袖に隠れた手では大した音を鳴らせるはずもない。それでも張り詰めた空気を
「はいはい。黎華、この堅物の事はとりあえず無視して。それにあなたも、最初から威圧してどうするの」
威圧とかそんなレベルではないと黎華は思った。何か粗相があれば一瞬で誅される、冷徹な金珀の双眸は生きた心地がしなかった。
そんな物騒な男の魔神とは対照的に、諫める声は掴みどころのない穏やかな声色だ。不快感はなく、人好きのしそうなその声の主へと視線を移した黎華は、ようやく平静を取り戻ことが出来た。
そして億劫そうに、気恥ずかしそうに、塩の魔神ヘウリアはかつての友へ語り掛ける。
「……久しぶり、でよいのでしょうか。ハーゲントゥス」
「
星空を織り込んだ袖口を揺らしながら、塵の魔神ハーゲントゥスは昔日と変わらない花のような微笑みを湛えていた。
◯塩の魔神ヘウリア 姫黎華(※オリ名前)
□原作
鍾離の伝説任務、古聞の章・第一幕で言及される、かつて地中の塩を統治していた魔神。彼女と二人称で呼ばれていたので女性。原作開始時には既に故人。
元ネタとなるソロモン72柱の悪魔はフラウロスと予想されているが、公式からの言及が無いため確証はない。
ストーリーの顛末や鍾離の主観による彼女の人となりは、wiki参照や該当の伝説任務のプレイを推奨。
★璃月では結婚式で、花嫁が来賓客に手毬を投げ、受け取った者はその立場に関する幸運に恵まれるという風習がある。この起源はモンドのバトルドー祭*1だとする説があるが、魔神戦争より前、塩の魔神が存命中に出来た風習だとする説もある。その健気で儚い由来は、原作内で登場する書籍【璃月風土誌】の第1巻を読み込むべし。てか読んでくれ。(泣)
■本作
稲妻式ではそのまま『ひめれいか』呼び。テイワット共通語では『リーファ』呼び。璃月で相応の立場のあるキャラからは『(姫)令君』呼び。詳しい原作キャラ達からの呼ばれ方は今後の更新をお楽しみに。
もしプレイアブルキャラとして仮定するなら表記は『黎華』でリーファ。(姓不明)行秋、鍾離(名不明)、(卯)香菱、(長野原)宵宮、(姓不明)千織のように読みやすさを重視。
元人間(?)でありながら魔神の格を与えられた少女。天理以外にも、『ソレ』という存在から何かを授かった模様。
原作と同様に、地形を変えるような武神と呼ばれる魔神ほど強大な力は持っていない。魔神としての格を与えられた後にハーゲントゥスと出会い、黎華*2という名前をプレゼントされ、その後にテイワットを旅した。
テイワットを旅する中、魔神戦争が勃発し徐々に増加する難民棄民を見過ごせず、自身の力量を超えて受け入れてしまう。武力闘争を避け続けたことで最終的には璃月に出戻りし、他の魔神の影響が及ばないよう地下────地中の塩に民達と共に引き篭もることを決断。
原作では、そのままとある騒動の後に勢力ごと死を迎える。しかし本作では民達をどうにか救おうと、決死の覚悟でハーゲントゥス……帰終との縁を頼りに帰離原に降伏することを決意。その選択によって、後の世にテイワットを巡る旅人の運命も、徐々に変化していくことになる。