黎華が軽策荘のふもとに辿り着いたのは三日後のことだった。
道中、旅の宿の歓待を受けたり、壊れた桟橋の修復を手伝ったり、腰を痛めた老人や空腹で倒れた旅人を助けたり……出で立ちこそ貴人然としていても、黎華の本質は何一つ変わることはなかった。
見過ごせない性分なのである。だからモラクスとハーゲントゥスの軍門に降るまで、分け隔てなく棄民を受け入れてしまい、自身のキャパシティを超えてしまうという本末転倒な運命を辿ったわけなのだが……そう易々と己の在り方を変えられたら苦労はしない。
時間ギリギリとはいえ、猶予なく待ち人を訪ねることに、黎華も後ろめたさを薄々と感じ始めていた。
恐る恐る、簡素な造りの仙廟へと足を踏み入れる。閑静な立地で人の気配は一切しない。野鳥のさえずり、木々のさざめき、少し荒い建物の作りのせいで廟内には隙間風が吹き込んでいる。境内に木霊するのは、枯葉を踏みしめる黎華の侘しい足音。
果たして、モラクスさえ厭世的と称する仙人と上手くやっていけるだろうか……自らが魔神という超越者でありながら、黎華はすっかり怖気づいてしまっていた。
「あの~……誰か、いらっしゃいますか?」
黎華の声が虚しく響いた。しかし立派に彫刻された木彫りの仙鳥が無機質に見下ろしてくるだけで、辺りには人っ子一人、獣やスライムといった生命体さえ感じられない。
ほっと一安心するも、陰鬱な雰囲気に急かされるようで焦燥感が増してきた。刻限を過ぎてしまったのだろうか。或いは魔神という身の上で警戒されてしまったのだろうか。黎華は人知れず冷や汗をかきながら、辺り一帯を神妙な面持ちで見回した。
「すう……すう……」
「あ、あの~。お嬢さん、こんな場所で一人は危ないですよ」
「ぅん~……しんくん~……えへへ」
いた。木彫りの仙鳥の陰で、身を丸めながら眠りこける小さい人影が。
幼子だ。人間でいえば4、5歳ほどの舌足らずな寝言を零す少女だった。なぜ人間で喩たのかといえば、その少女の頭には凡人ではありえない二対の角が伸びていたから。
蒼穹のように淡く澄んだモコモコの蒼い髪と、童子特有のふっくら丸々とした容貌。可愛らしい見た目とは裏腹に、少女の出生は極めて稀有な半仙だった。これには幾星霜を生きてきた黎華も、瞠目してしまった。
「ふぁ~。うぅん……ええ!? お、おきゃくしゃまですか!?」
「はい、
「ううぅ……お目汚し失礼しました。私は留雲真君の弟子の甘雨です。すぐに真君へ申し伝えますね。少々お待ちください」
嗜虐心と庇護欲をそそる少女だった。黎華が意地悪く揶揄って見せると、少女の雪のように白い肌が羞恥で赤く染まってしまう。
甘雨と名乗った少女が逃げるように去ってから数分後、一緒になってやってきたのは眼鏡をかけた人型の麗人であった。近寄りがたい雰囲気を纏っている。険のある怜悧な相好は成程、岩王帝君の「厭世的」という月旦評もあながち過言ではないと黎華は内心で納得した。
「随分と刻限間際に来たものだ。お前が
「は、はい。今は黎華とお呼びください。真君の噂は
「凡人の真似事はよせ。仮にもお前は魔神だろうに……なぜ妾が市井へ降りなければならんのだ全く。鳴海や歌塵の方が適任のはず」
留雲が頭を振って大きく嘆息する。そのすぐ側で、甘雨がモジモジとしながら顔をちょこんと出していた。
「し、真君。今回ばかりは帝君の勅命ですし……」
「分かっている。甘雨よ、お前は本当に愛い奴だな」
「ううぅ、見られてますから。は、恥ずかしいですよぅ」
これは中々に強烈だ。甘雨の恥じらいを照れと解釈する留雲の親馬鹿具合は、家族というものに疎い黎華だって理解できる。
半麒麟と仙鳥。血の繋がりこそないだろうが、母性や父性を刺激し、庇護欲をそそる甘雨の天性のそれも相まって、留雲の親馬鹿は更にひどくなるばかりだった。
やれ理水や削月は子育てを理解していないだの、甘雨がいかに聡明であるかだの、そんな甘雨の可愛らしさを一番に理解しているのはこの妾だの……隣で真っ赤に熟れた甘雨が気の毒になるほど、留雲の饒舌さは留まることを知らなかった。
「あれはつい先月のことだ。妾が洞天にいる間に、甘雨がまたもや清心の香りに釣られて奥蔵山を一人で降りてしまってな……気づけば尾根の一角で眠りこけていた。その時の寝顔と言ったら」
「や、やめてください真君! 反省していますから……も、もう、き、嫌いになっちゃいますよ」
「何故だ!? 妾はお前の素晴らしさを語っているだけで───」
「コ、コホン! その、甘雨ちゃんの可愛いさは十分に伝わりました。流石は真君のお弟子さん、その歳で素晴らしき見識をお持ちのようですね。では
このままでは歯止めが利かない。そう判断した黎華が割って入ると、恥じらいを見せていた甘雨は一転して思案気な表情を作った。
「……黎華さん、貴女は帰終の先達であるとお聞きしました。浅学菲才な私ごときの邪推を披露するのは気が引けてしまいます」
「帰終がそんなことを……いえいえ甘雨ちゃん、自分を卑下しすぎてはいけませんよ。風の噂によると、留雲真君のお弟子さんはアナタが初めてだとか。それがどれだけ栄誉なことか分らぬほど、ワタクシは衰えた覚えはありません」
「ほう、塩王は随分と耳聡いな。確かに甘雨は妾の唯一にして最初の弟子だが……ふん、お前も一廉の魔神というわけか。お前と違って妾の耳に聞き届いた噂*1とやらはアテにならないようだ」
留雲の切れ長の眼が黎華をジロリと射抜いた。対して、黎華は無言で微笑みを浮かべるだけだった。
ほんの数瞬、静寂の応酬に剣呑な空気が生まれる。それを打ち破ったのは自信なさげに言葉を紡ぐ甘雨だった。
「……黎華さんの情報では、炎元素を行使する魔神とのこと。実際、私たちが俗世に降りて確認したところ、件の魔神の縄張りで扱われる炎は魔神由来の元素力を感じることができました。ですが不思議なことに、その炎を扱っていたのは人間だけで、魔神の姿は影も形もなかったのです」
「なるほど、ワタクシが地中の塩に居た時から状況は変わらないようですね。これで噂だけでなく実態を知ることができましたが……その魔神が人間に炎を分け与えている、と見るべきなのでしょうか」
「恐らくそうであろう。だが懸念すべき点は多い。年々、魔神や妖魔による帰離原への侵攻は増え続けている。凡人たちが望めば、たとえ本意でなかろうと炎の魔神が妾達に矛先を向ける可能性も捨てきれぬ。軽策に近い地理ゆえ、いつまでも野放しにはできまい」
留雲の見解に、黎華もまた頷いて同意した。
帝君が螭を討伐した後、軽策は凡人たちによって数百年の年月を経て開墾された。誰も寄り付かず荒涼した地中の塩とは異なり、璃月の食を支えている軽策荘の近くに魔神が屯しているとなれば、今は敵意がなくとも何かしらの手を打たねばならない。
ましてや今回の件は、軽策荘と帰離原の兵站に関わる事案だ。郊外に位置する地中の塩などとは比較にならないほど、璃月という国家にとって無視できない事案ゆえに、岩王帝君は事ここに至って留雲と鳴海を派遣していたのだが……捕捉できていなかった情報を齎した黎華に対して、先ほど留雲が警戒したのは至極当然の反応だといえるだろう。
「奇怪なことよ。妾たち仙人、夜叉、帰終や帝君さえも知りえぬ情報を、地中の塩に隠遁していたお前が掴んでいたとは。『誡むるは面従にあり』……塩業とは一種の既得権益にも等しく、魔神が跋扈する以前より長らく寡占状態だった。そして今、凡人は七星八門なる集権構造を立ち上げ、お前が率いていた塩の民は銀原庁として塩業の寡占を引き継いだ。脆弱な塩の魔人にしては、俊英狡猾なる手腕だ。更にお前自身は、帝君の勅とはいえ凡人どもの律令をしたためる立場にある……ふむ、実に手際がよい。そうは思わないか、わが愛弟子の甘雨よ」
「し、真君。それは……そうですが……」
留雲が羅列した事実に、甘雨は遠慮がちながらも否定はできなかった。
モラクスの麾下に加わり魔神としての立場を捨てたにしては、あまりに都合が良すぎるのである。齢二桁に満たずとも年不相応に明晰な甘雨は、留雲が
神機妙算、まさに狡猾とは言いえて妙で、ここまで黎華の待遇が良すぎては、かつて帰終と親交を持っていたことすら打算だったのではないだろうか───そんな突飛すぎる考えが浮かんでしまうほどに、目の前で微笑みを絶やさない塩の魔神は無気味に過ぎる存在だった。
「自覚はしています」
黎華は今度こそ本心を露わにして悩まし気に嘆息する。
けれど確かな意思を持って、留雲の胸中を射抜くような鋭い眼光を真っすぐ見据えながら、黎華は続けざまに言葉を紡いだ。
「───ですが元より、法を敷くことは契約に含まれていました。だから岩王は、ワタクシを尚書令に就かせたのでしょう。象徴たるワタクシを無下に扱わなければ塩の民の懐柔が進みますし、その寛大な威光をもって璃月はますます発展していきますから」
「民の同化か……為政者ではない妾達仙人には理解しがたい」
「七星に関しては……ワタクシは一切関わっていません。凡人の中には、例えば神の目を授かるような非凡な才の持ち主も少なからず存在します。ヒエラルキー……階級的組織構造が成立するのは時間の問題だったはずです」
「確か、地中の塩の
「ええ、甘雨ちゃんの仰る通り、ワタクシは凡人の中から王を選定し、内政を任せていました。しかし法律を定めたのはこのワタクシ自身で、人の王は飽くまでワタクシの天意の代弁者にすぎませんでした。そして此度の律令については───3000年ほど前から帰終とワタクシが構想していたモノを軽く手直ししたに過ぎませんし、岩王も把握しております。岩王帝君は自ら天啓を授けますが、あの御方自身が律令と契約を遵守するからこそ人心は信仰を保つことができるのです」
「法が神をも上回るか……帝君は契約の神だ、否定はしない。だが法を崇めるあまり、凡人が増長しては元も子もなかろう。神仙への畏敬を蔑ろにしては、必ずや破綻する時機が訪れる。天理*2に囚われている妾達以上に、あ奴らは不完全な存在だ」
「留雲真君の懸念も当然のことと存じます。ですが凡人たちも白痴で無垢なままではありません。歩みは遅くとも着実に、確実に、彼らは前へと進んでいます。進むとワタクシは信じています。そしていつの日か、彼らは神仙の揺り籠から巣立つことになりましょう」
凡人が口にしたのなら不敬極まりないセリフを、魔神たる黎華は忌憚なく言葉にした。
甘雨は沈黙を保って無言に徹し、留雲は
甘雨と留雲だけに限った話ではない。殆どの魔神や仙人でさえも、黎華の言を絵空事として一笑に付してしまいかねないだろう。
魔神を筆頭に超越者同士の争いが年々激化するテイワットにおいて、人間というか弱い生き物は傘下に下ってこそ生きながらえることができている。そんな弱弱しい生き物たちが、神々から独立を果たして人の世を実現する……と言う黎華の根拠のない言葉を、どれだけの超越者たちが真正面から受け取ることができるというのか。
しかし───
「神仙の揺り籠……か。妾達も帝君も、帰終に出会う前ならばその口を無理やりにでも閉ざしていたであろうな」
「帰終には……意志薄弱なワタクシなど到底及びません。彼女は必ずや、岩王とともに泰平の世を照らし温めてくれるはずです」
「……さてな。甘雨よ、帝君と帰終の治世の下で生まれたお前の目に、凡人はどう映る?」
「私は……真君の仰る通り、人間たちは不完全で弱い生き物だと思います。けれど、その弱さや醜さだけが全てではなく、帰離原や軽策を拓いたように、多くの同胞が集えば私たちの権能にも匹敵する何かを生み出すこともできるのだと思います。そうですね……人間は、他者に『託す』ことが出来る生き物なのではないでしょうか」
悩まし気に絞り出した甘雨の言葉を、留雲と黎華は黙して聞き入っていた。
人間と麒麟のハーフ。人間でもあり仙獣でもあり、そのどちらの価値観にも染まらない特異な出生だからこそ、超然と構える留雲とも、人間に肩入れをしすぎる黎華とも異なる知見を、聡明な甘雨は持ち得ていた。
優秀な子だ。黎華は甘雨という年端もいかない少女に天稟を垣間見た気がした。
自然と黎華の口元が綻ぶ。厳格なモラクスや気難しそうな留雲に不安がなかったわけではない。
けれど、天涯の楽土を捨て去ってでも生き恥を晒した価値はあった。自身の見解を披露した後にアタフタとする甘雨を見て、黎華はそう確信することができた。
────知で教え、徳で約束し、骨を固く、心を一つ。この四つは『帰離集』となる。
それはまさしく、へウリアという魔名を賜る前に見た、決して届かない夢物語。
けれど帰離集を筆頭に、テイワットを転々としていた黎華は、草王に赤砂の王、純水の仁君や雷霆の双神など、凡人を庇護する魔神を多く見てきた。
その旅路の始まりはすべて、帰終との邂逅から端を発している。
黎華は悠然と微笑みを浮かべながら、運命的としか言えない幸運を噛みしめるばかりであった。
◯留雲借風真君
□原作
仙人。普段は鶴の姿をしているが、仙人の本質は元素生物らしい*1。
まだ俗世に降りることは少ないため凡人としての名を持っていない。
魔神戦争が始まる前から存命であり、閑雲の伝説任務にて、当時から既にその名が知れ渡るほどの仙人だった模様。
帰終と張り合えるほどの発明の才の持ち主。よくからくりについて語り、競い合っていた。
世を憚る性格で本人曰く「陽気な内向型」*2とのこと。基本的には洞天で一人、黙々と日々研究していることからも嘘ではないが、親しい間柄だと途端にお喋りになるので冷たい人物というわけでもない。
弟子には甘雨や申鶴がいる。が、あまり積極的に弟子を取るスタンスではない。
仙人に共通する三眼五顕の力も当然持ち合わせているが、仙人の中でも随一に『仕掛けの術』と『仙家呪符』に精通している。
弟子を取っていたことから勿論、料理の腕に関しても一家言ある……が、そこにからくり仕掛けの発明の道を見出したりもしちゃう割と忙しない御方。
詳しい彼女の能力や人となりは要検索。
■本作
あまりに手際よく、降伏した身でありながら要職に就いた黎華を警戒して、少し尊大な態度を取っていた。だが根っこの性格は原作通り、ツンデレっぽいお人好しで面倒見がいい。
あと完全に余談だが、プレイアブル前から作者が原神で一番好きなキャラ。閑雲の各種PVを見てください、というか見ろ、絶対に見なければならない。(鋼の意思)
甘雨 幼年期
□原作
現時点ではまだ魔神戦争が本格的に始まる直前の幼少期。成人後には既に戦火に身を投じていた。
留雲借風真君の弟子とされるが、恐らく彼女の縁故により多くの仙人、夜叉に武芸を師事している*3。
麒麟とは公式で明言されてない?が、半人半仙のハーフ。
子供らしく、まるまるふっくらもちもちしている。
■本作
年に似つかわしくないほど聡明。
まだまだ成長盛りで伸び代たっぷりな幼女。
ほっぺたがもちもちしてそう。