これは、私が地中の塩に辿り着くまでの旅路の追憶。
未だ帰終という名を持たぬハーゲントゥスの元を旅立って間もなく、魔神戦争が始まる前の、束の間の平和を享受していたかつての日。
魔神たちが降臨し始めたばかりの黎明期、幻想大陸テイワットの各地域が、独自の国や地方の呼称で呼ばれ始めたばかりの頃。
私は、山紫水明の清らかな渓谷───後世で沈玉の谷と呼ばれる場所を抜け、より一層に水元素が漲る地方───フォンテーヌと呼ばれ始めた国へと足を踏み入れていた。
行脚する中で多くの魔神やその眷属、そして元素生物や人間にも出会ってきた。その中で絶対に忘れられない、忘れてはならない思い出の一つこそ、エゲリアとの交友だった。
エゲリアは聡明だった。そしてとても慈悲深い魔神だった。流浪の民を己の弱さから受け入れてきた私とは違う、真の意味で慈愛に満ち溢れた存在だった。
ハーゲントゥス、そしてマハールッカデヴァータにも比肩する智慧の持ち主であるエゲリアとの交友は楽しかった。
後の世に、マシナリーや映影に繋がる科学技術と、私たち仙法からなるからくり仕掛けや洞天に関する知見の交換や、律令及び刑罰の討論。
そして人間の儚くも輝かしい生き様に憧れる純水精霊たちも、エゲリアが私を歓迎してからは、ローデシアを筆頭に態度を軟化させてくれた。
そんな一風すると順調なフォンテーヌでの滞在も、戦乱の気配が立ち込めてからは剣呑な肌感を漂わせ始めることとなる。
ゲストたる私はともかく、フォンテーヌを治める国主たるエゲリアは、しきりに『正義』について私に問いかけるようになった。
最初のうちは、私もありきたりで陳腐な回答を返していた。
世に遍く正義とは人道的、道徳的な社会契約おける究極の公正……のような、大袈裟なだけのありきたりな解答を。
けれど、エゲリアが求める私自身の答え……私の中の『正義』をどれだけ自問しても、当時の白痴な私は答えなど出せるはずもなく、ついにその日は訪れた……訪れてしまった。
「やっぱり、正義を謳うなんて胡散臭いと思う?」
「と、唐突ですね……標榜としてはインパクトがあるかと思います。ですが正義とは寛容には程遠く、相容れぬ者には厳しいものかと存じますが」
「そこは心配せずとも平気よ。私の方針も、一応は貴女と一緒で法治主義だから。それに道徳的な公正さのことを言ってるわけじゃないのは、ヘウリアも理解しているのでしょう?」
「……正義とは、天命に帰すことでしょう。少なくとも、このテイワットにおいては」
「その天命は、天理の傀儡として一生を過ごすこと? まあ現実的な解答だけれど華がないわね*1」
「アナタは違うのですか、エゲリア」
「天命は、天に強いられた運命を往くことじゃないわ。天に背くことになろうと、自らに課した使命を邁進することよ。たとえ、艱難辛苦に満ちた未来であったとしても───」
そう言って、彼女は薄く儚い笑みを浮かべた。顔を覆うヴェールは、まるで慈愛の中に潜む確固たる決意を隠すようだった。
「まさか、
「ええ、それが私の正義───あの子達が人間として『存在』すること、そして人々が自分自身という個我のもと『存在』することを肯定し、生きて、死ぬことを見届ける。きっと、これは神でさえも脅かしてはいけない生きる者の尊厳だと思うの」
エゲリアの言葉を、私は深く聞き入ることしかできなかった。
私もエゲリアも、一般的な魔神の範疇から逸脱した特異な生い立ちだ。
エゲリアは、今は亡き水の龍王……その権能にのみ焦点をおいて役割を与えられた後胤だ。原始の心臓、つまり原始胎海を管理する立場にある僭主の代理にも等しい存在。
そして私は、僭主の『神聖なる計画』におけるプロトタイプとして創造された
そんな二柱の魔神が、果たして僭主の怒りを買うことの意味を理解していないはずがない。少なくとも私は、エゲリアの思いを後押しする勇気はなかった。
「それとこれとは話が別です! 原始胎海の力を無断で扱えばどうなるか、アナタだって───」
「それでも、それでも私は決めたの。共犯者になって、なんて酷いことは言わないわ。だって、貴女は怖がりさんだから」
少し茶化したふうに、それでいてどこまでも慈しみが籠ったエゲリアの言葉。
私は、込み上げてくる非難の台詞を嚥下せざるを得なかった。
「でも、少しだけ力を借りさせて。僭主も、龍王も、アビスも、そして貴女を蝕む星神も……未来永劫、衰えないなんてことはないはず。だから貴女に
差し出されたのは、原始胎海の水を封じる小瓶だった。エゲリアと親交を深めたからこそ分かるが、もし、仮に、何かの運命の悪戯で、
私は震える手で受け取った。受け取ることしかできなかった。
この先、エゲリアとフォンテーヌが辿る末路を悟ってしまったから。けれど後戻りも諌めることもできない。自らの『正義』が定まっていなかったこの時の私が、エゲリアが貫こうとする『正義』を無下にしていいはずがないのだから。
「私は、罪過をもってしか正義を為すことが出来なかった。きっと後世にも業を継いでしまうはず。もしその時に、私が『存在』していなかったら───黎華、貴女が私の正義の行く末を見届けてちょうだいね」
これから審判を仰ぐ罪人とは思えないほどに、エゲリアはどこまでも澄んだ微笑みを湛えていた。