2016年も4月になり、競馬のシーズンが本格的に到来した。
桜花賞に皐月賞も間近に迫り、まだ見ぬ未来の名馬たちに競馬ファンは心を躍らせていた。
2015年世代は4歳となり、古馬戦線を賑わし始めていた。
日本ダービー後、骨折をして休養中だったドゥラメンテは、復帰戦の中山記念を快勝し、ドバイSCに挑戦した。落鉄の影響もあり、結果は2着だったものの、十分力を示した内容であった。
また、菊花賞馬のキタサンブラックも、大阪杯を勝利し、本命の天皇賞春に向けて期待が高まっていた。
そんな輝かしい成績を残す同期の陰に隠れて、スペシャルラピッドは静養中だった。
2月のレースで剥離骨折と診断されたスペシャルラピッドは、療養と休養を兼ねて、生まれ故郷の新井牧場に帰ってきていた。
最初は骨折の影響か、体調が不安定になっており、勇作たちもかなり気を使っていたが、最近は落ち着いており、従業員たちも一息ついていた。
スペシャルラピッドも生まれ故郷には、大好きな洋子や裕子がいるため、肉体的にも、精神的にも落ち着いて休むことができていた。
「骨折の回復も順調に進んでいますね。もともと軽度なものでしたから、競争能力には影響はないでしょう。精神的にどうなるかは未知数ですが」
回復具合は順調であると獣医から報告を受けていた。全治は3~4か月程度と見積もられており、6月中の復帰戦が計画されていた。
「競走中止になった時は心臓が止まるかと思ったよ。ああいう光景は見たくないねえ」
「別の牧場出身の馬でも、見たくはない光景ですよね」
勇作と裕子は2月のレースの光景を思い出していた。
最後の直線で外によれながら減速をして、そのまま止まったスペシャルラピッドを見て、気を失いそうになったほどだ。
幸い、歩いて馬運車に乗っていく姿を見れたため、失神して倒れることはなかった。
ケガの診断を聞いた時も、命や競争能力に影響を及ぼすレベルのものではなかったため、一安心していた。
「ケガは付き物とはいえ、見たいものではないよ」
勇作は自分の牧場出身の馬が予後不良になった経験がないわけではない。それに、レースに出る前に処分せざるを得なくなったこともあった。死産や病気で死んだ馬もたくさんいる。
それでも、こういった馬のケガに慣れることはなかった。
「ぴょん吉も、全力で走り回ったり、暴れたりしないのが助かりますね」
世話を担当している洋子は、大人しくしているスペシャルラピッドを褒める。
「やはり賢いな。今全力で走ったり、暴れたりしたら、取り返しのつかないことになるってわかっているんだろうね。もともと大人しい馬ではあるけど」
「こうやってのんびりしている姿を見ると、本当に強い馬とは思えないなあ」
裕子に撫でられてご満悦な様子のラピッド。育て親同然の裕子には(洋子も)とても甘えていた。4歳の牡馬とは思えないほどだった。
それなのに、勇作が撫でると、「触るな」といった感じであしらわれてしまう。女性には懐くが、男性には懐かないという謎の性格には、厩舎関係者も含めて頭をひねっていた。
「大宮さんには懐いているのにな……」
「展示会の時から懐いていましたからね。運命でも感じたのでしょうか」
「それなら、生まれたときから近くにいる俺に懐いてくれてもいいのだけど……」
「彼にとってオーナーだけは特別なのかもしれないですね。性別女が好きなのは、多分元来の性格由来だと思いますが」
「そういうものなのかな……」
馬房から顔を出して、二人に会話を聞いていたラピッドを、「ぴょん吉はかわいいねえ~」と言って裕子が首元を撫でる。こうやって顔や首元を優しくなでられると、大人しくなるのである。
舌を出しながら見せるご満悦な顔つきは、とてもじゃないが、競走馬としてデビュー済みの馬とは思えないものであった。
「もう少し勇ましい顔つきになってもいいんだけど……」
「いいじゃないですか。大人しくてかわいい馬の方が女の子からも人気になりますよ」
「そうかなあ……」
「人気といえば、最近洋子がうちの牧場のことを動画にしたいと言っていましたが……」
先日、長女の洋子が広報の一環として、新井牧場の様子を動画サイトに投稿したいといい始めていた。
「ああ、あれか。正直変なのが湧いてくるのが嫌だから、あまり賛同はしたくないけどなあ」
馬産は、畜産という生と死が身近にある産業である。競走馬は、経済動物であるため、事情を知らないものが聞けば悲惨な出来事も多い。このため、勇作は洋子の提案には難色を示していた。
裕子もそのリスクについては同意していた。
「動画サイトやSNSの影響力も大きいですし、広報として活用してみたいのは同感ですね」
「うーんそうだなあ……」
「それでさっき思いついたのですが、ぴょん吉の様子を動画にしてみるのはどうでしょうか。とても大人しくてかわいい馬なので、向いていると思いますよ」
「ぴょん吉の動画か。最初は大人しめの動画にして、反応を見てみるのもいいか。一応縣先生や大宮オーナーにも連絡してみるか」
この試みに対して大宮も縣も反対の意思を示さなかったため、休養中のスペシャルラピッドは動画サイトでデビューしたのであった。
洋子や裕子にデレデレしている様子は、競馬ファンというよりは、動物ファンに受けていたようである。
こうして、新井牧場でのスペシャルラピッドの日々は過ぎていった。
スペシャルラピッドにとって、この帰省は充実したものであった。最初の1か月ほどは痛みもあったので、あまり楽しい休養生活ではなかったが、ケガが治り始めた2か月以降は楽な生活であった。
大好きな洋子や裕子(+その人たちを我が物顔で管理している憎たらしい男)にお世話をしてもらい、穏やかで快適な生活を送ることができた。
全力で走り回れないのは残念だったが、裕子たちに「ダメだよ」と注意されていたので、それに素直に従っていた。彼女(癪ではあるが彼ら)の指示に従っていた方が、痛い思いをしなくて済むと考えたからだ。
しかし、このような快適な生活も終わりが来る。
ケガの完治は近かった。
新井牧場のスタッフと獣医の努力と、スペシャルラピッド自身が無理をせず、安静にしていた甲斐もあってか、怪我の回復は予定よりも早まっていた、
そして、2月初旬の怪我から約3ヶ月半後の5月中旬。スペシャルラピッドのケガは完治し、調教が再開されるときがやって来た。
新井牧場から美浦トレセンに運ばれ、縣の厩舎に入厩した。育成牧場で軽く調整をしてからトレセン入厩しても良かったのだが、縣がすぐに見たいという希望を出したため、牧場から直接トレセンに戻ってきていた。
久しぶりに映像越しではなく、生で見たスペシャルラピッドは、案の定太っていた。
「また太っているよ……」
見事なこしあんボディを見ながら、縣はつぶやく。
「なんか一回り大きくなったというか、身体の厚みが増したというか……」
森本も外見的にちょっと大きくなったように見えたラピッドの姿を見て、驚く。
「ただ太っているだけなんじゃないのか?」
「そうかもしれませんけど」
「とにかく、体重を落としていきながら、調教を進めていこう。焦りは禁物だ」
「またプールの日々が始まりますね」
ケガ明けなので、足元に負担をかけたくなかった。このため、プール調教が延々と行われることが容易に想像できたのであった。スペシャルラピッドは泳ぐのが得意なので、プールが大好きである。
ただ、プールから上がった時に、縣や森本にじゃれついて、彼らをずぶ濡れにするという嫌がらせをセットでやってくるので、彼とのプール調教は、あまりいい思い出ではなかった。
「縣先生、森本さん。ぴょん吉、スペシャルラピッドのことを頼みます」
「ええ。こういう形でお世話にならないように気を付けます。復帰レースのときは、見に来てください」
今回は、精神的にもろい面があるため、ラピッドの馬運車の旅に裕子が同行していた。このためか、輸送後でもそこまで疲労をしていなかった。
「じゃあね。がんばるんだよ~」
裕子が顔や首元を撫でると、悲しそうに嘶く。
「甘えん坊だな……」
縣は小声でささやいたつもりだったが、馬には聞こえていたようで、抗議するように、縣に嘶いていた。
人の機敏に聡い馬である。
「まあ、何はともあれ、これからもよろしくな」
縣の声掛けは、無視という反応で帰ってきた。
「やっぱり可愛くねえ」
縣への塩対応は、厩務員の伊藤にしっかり撮られており、『調教師に悪態をつくスペシャルラピッド号』というタイトルで投稿されていた。反応は上々であった。
そこから数週間後。
ラピッドの調教は順調に進んでいた。
太った影響でむっちりしていたボディは、少しずつたくましい体つきに変わっていった。
「なんか一回り大きくなったな」
「やっぱり見間違えじゃなかったんですよ」
3歳夏以降は、調教で負荷をかけすぎることができないため、510キロ前後でレースには出ていた。森本は、絞れば490~500キロくらいがベスト体重になると思っていた。ただ、今のラピッドの姿を見て、上方修正をする必要があると見ていた。
「ケガ前に使っていた鞍が使えなくなりました。腹帯もです」
「確かに太って入らなくはなったが、体重が落ちてきた今も使えないの?」
太ったことでケガ前に使っていた馬具が使えなくなったのかと思ったが、体重も絞れた今もなぜか使えなくなっていた。
「はい。彼専用に特注した方がいいです。これ多分もっとでかくなりますよ」
「しかし体高はそこまで変わっていないのになあ。……うん。やっぱ筋肉がやばいわ。ナニコレ……」
スペシャルラピッドは、プール調教で5か月の休養で体についた余計な肉を落とし、調教で筋肉のキレを取り戻し始めていた。なぜか以前よりも筋骨隆々となっていた。
「改めて見るとすげえトモだな……。新井牧場はエサにプロテインでも混ぜていたのか?」
「プロテインを取らせてもこんな感じにはならないと思いますが……」
「蓄えた栄養が全部筋肉に転換されたのかな。それはそれで恐ろしいが。というかパワーとスピードが付きすぎて逆に危険じゃないか……」
「復帰戦が怖いですね。これはかなり抑え込まないと怖いですよ」
「そこは能海君に頼みたかったんだけどな。ただ、彼のメンタルと成績がちょっとまずい状況だからなあ」
スペシャルラピッドの主戦騎手を勤めていた能海秀樹は、ケガから復帰して、騎手として馬に騎乗しているが、成績がかなり悪化している。縣厩舎の所属騎手ではあったが、馬主から乗せないでくれと言われるほどであった。
「気持ちはわからんでもないが、さっさと元に戻ってもらわんと困る」
縣は、秀樹が厩舎に所属している騎手である以上、監督責任も含めて、教育はしている。ただ、今回の問題は、最終的には自分で解決すべき問題であるため、強く干渉はしていなかった。
「そこは本人の問題ですからね。替わりの騎手は予定通り能海秀明騎手に?」
「ああ、その予定だ」
縣の先輩であり、ベテラン騎手の秀明が復帰戦の騎手として選ばれていた。縣厩舎の馬にもよく乗っているので、厩舎スタッフとの間でも信頼関係が築かれていた。
「秀明先輩も癖馬の扱いがうまい騎手だよ。ラピッドも抑えるのに苦労するレベルで癖馬だからね」
能海秀明騎手は、47歳であるが、お化けのような体力を持っている騎手だった。すでにベテランの領域に入っているが、騎乗数はむしろ増え続けているような騎手である。
素質のある馬に乗って、重賞を勝利することもあるが、デビューできるかも怪しいような馬だって喜んで乗ってくれる騎手でもあった。リーディングをとるような騎手ではないが、馬主や調教師から人気のある騎手であった。最低人気馬を上位に持ってくることもあり、穴馬党からも好かれていた。
「オーナーがそれで納得しているのであれば、私から言うことはありませんが」
「大宮さんも了承済みだ」
大宮にも乗り替わりの件は伝えてある。彼も最初は秀樹騎手でいいと思っていたが、さすがに騎乗成績が悪化しているいる状況なうえ、精神的に落ち込んでいる状態の彼を乗せるわけにはいかないと判断したのであった。
「次のレースは6月中旬頃かな。また条件戦を走らんといけんか……」
「次のレースで格上挑戦もいいと思いますが」
「さすがに復帰戦は、条件戦にしようと思う。ここで大丈夫なら、次はオープン戦を使う。それも芝だ」
「復帰2戦目に芝はちょっと怖くないですか。2戦ほどした方がいいと思いますが」
「それもそうだ。だから、1戦目の様子と、芝コースでの調教の様子をみて判断したい。仮に足元に不安を感じたりしたら、このままダートを使い続ける」
「……わかりました。ここが分水嶺かもしれないですね」
「そうだな。ダート戦線に居続けるなら、12月のチャンピオンズカップか、来年のフェブラリーステークスが目標になる。芝なら天皇賞、ジャパンカップ、それか来年の安田記念だな」
「夢が広がりますね。まあ、ラピッドがちゃんと走ってくれればの話ですが」
「調教では問題ないんだ。それに走らせるのが俺たちの仕事だ。気張っていくぞ」
「ええ、気合が入りますね」
縣と森本は、一回り成長したスペシャルラピッドの様子を見ながら、気合を入れなおした。強くなったのは間違いないが、その出力に骨や関節が耐えきれるのかが不安であった。ただ、それでも一層威圧感を増した馬の姿に、夢を抱かずにはいられなかった。
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「うん、化け物だわ。この馬」
6月25日の東京競馬場第11レースの夏至ステークスに出走予定のスペシャルラピッドは、能海秀明を鞍上に、最終追切を行っていた。
「この馬を条件戦に出しちゃだめですよ。縣先生」
「そうはいっても賞金が足りないんですよ。このレースだって何とか滑り込めたのですから」
「正直オープンクラスどころか、重賞でも余裕で通じますね。というか一線級の馬とも戦えますよ」
「そうでしょう。ただ、脚部がもろいから、あまり本気で走れないからそこは注意してほしい」
「ええ、それは承知してます。ただ、本気で走らなくても十分勝てます。この馬はそういう馬です」
GⅠを10勝している騎手による、太鼓判の評価であった。
その後も、レースプランや馬の情報を話しながら、最終追切は終わった。
調教がひと段落ついたことで、秀明が休憩していると、縣がコーヒーを片手に休憩室に入ってくる。
ここからは騎手と調教師ではなく、先輩と後輩の関係であった。
「全く。こんな強い馬に乗れていたのに、あのバカ息子は……」
「そこはまあ、彼にもいろいろあるので」
「浩平。あまりアイツを甘やかさんでくれ」
秀明にとって秀樹は、最愛の息子であると同時に、同じ釜の飯を食う同志であり、ライバルであった。だからこそ妥協はできなかった。今回の乗り替わりも、以前に秀樹、鞍上を奪いに行くと宣言したことが実現しただけの話である。
苦しいのはわかっているが、それはそれであった。
「うちの所属騎手なんだから、しっかり育てられない私にも責任があるよ」
「そんなこと言ったら、騎手学校に入るときに、背中を押した俺にも責任があるわ。あいつは元々性格的に騎手には向いていねえよ。優しいし、優柔不断だし。むしろ厩務員とか、そっちの方が向いてんだよ」
騎手は馬を愛し、馬に敬意を払う必要がある。ただ、冷酷にならないといけないときもある。その匙加減ができないと、騎手として食っていくのは難しい。
「そうだなあ。もうすこし図太さがあってもいいと思うけどなあ」
「お前ほどの図太さは必要ないけどな。見ていてハラハラする騎乗ばかりして、先生や厩務員、オーナーをキレさせていた大バカ者だったからな。辞めて正解だよ」
「ぐうの音もでねえや」
「まあ、これからどうするかは、あいつ自身が決めることだ。それに……」
「それに?」
「俺は別にスペシャルラピッドの主戦になった覚えはないからな」
「え、それって……」
「じゃあ、またよろしく頼みますよ。俺は別の用事があるので失礼しますね」
そういって秀明は休憩室から出ていく。
残ったのは飲みかけのコーヒーと縣だけであった。
「意味深な言葉だけはきやがって。あれが実の父親とか秀樹君も大変だな。って自分で捨てて行けよ」
渋々と飲みかけの缶を捨てに行く縣であった。