「スペシャルラピッドの初重賞制覇に、乾杯!!」
新潟市内の居酒屋の一室に、酒を持った大人たちによる「乾杯」の声が響き渡る。ここでは、スペシャルラピッド陣営による宴会が行われていた。新井牧場の代表の勇作や、調教師の縣、騎手の秀明と大宮が参加していた。
その中でも、特にスペシャルラピッドのオーナーである大宮貞治郎は、ご満悦であった。自分の愛馬が、GⅢとはいえ歴史ある重賞で、8馬身差のレコード勝利という文句もつけようもない勝ち方をしたためである。
ゴール後、競馬場は騒然としていたが、馬主席でも同様であった。特に今回は、芝の重賞という舞台で、圧巻のパフォーマンスを見せたため、周りに与えた衝撃は計り知れないものであった。他の馬主や関係者からの羨望の眼差しは、大宮にとって快感であったことは言うまでもない。
「秀明騎手、今日は本当にありがとうございました」
スペシャルラピッドを勝利に導いた秀明は、数えきれないほど聞いた感謝の言葉を大宮から受け取る。
「いえいえ。こんなに素晴らしい馬に乗せてもらうことができたのですから。勝つのが騎手として当然の役目です」
酒を大量に飲んでいるように思えないほどクールな受け答えをする。ただし、縣曰、『先輩は酒が入ると逆に静かになる』とのことであるため、彼も完全に酔っ払っていた。
「オーナー。ラピッドはもっと強くなります。それだけは確信を持って言えます」
「今でも十分強いと思いますが……」
大宮は、馬がまだまだ成長して強くなるという秀明の言葉に、疑問を持つ。今日のパフォーマンスを見れば、十分成長しきっていると思うのも無理はなかった。
「それについては、私も同感ですね。スペシャルラピッドはもっと強くなります」
秀明たちの会話を聞いていたのか、縣が会話に加わる。その後も、騎手と調教師の二人で、いかにスペシャルラピッドが強くなったか。そして今後も強くなるであろうという話をする。
「そんなこと言われたら期待しちゃうじゃないですか……」
「大宮さんの夢、叶えちゃいますよ」
男子中学生のようなノリである。酒に強いはずの縣もかなり酔っぱらっていた。
「本当に?なら天皇賞の盾が欲しいとか言っちゃいますよ?」
大宮のいう天皇賞の盾とは、10月末に行われるGⅠレース『天皇賞・秋』で勝利すると、手に入れることができる盾のことである。東京競馬場2000メートルで行われ、『天皇』の名を冠する、伝統あるレースであった。そんなレースに、自分の所有馬が出走し、勝利するというのは何よりの名誉であった。
「天皇賞の盾ですか?奇遇ですね。自分もそれが欲しかったんですよ」
「じゃあ、次は天皇賞ですね。いやー期待しちゃうなあ」
「ラピッドなら、どんな馬も返り討ちにしてしまいますよ!」
そういって、二人の酔っぱらいは、大笑いし調子に乗り続けていた。それを勇作や秀明は、『あーあ、俺知らねえよ』という気持ちで見ていた。
二人のおっさんは、笑ったあと、妙に冷静になって真剣な話をし始める。
「まあ、まじめな話、関屋記念を勝利したら、天皇賞に行こうとは思っていました。今日の結果を見れば十分通用しますよ」
「そうですか。ただ、あくまでラピッドの状態を優先させてくださいね。不調だったら、放牧させても問題ないので」
体質が弱いという話は嫌というほど聞かされていたため、今日のレースの反動も大きかったのではと大宮は危惧していた。
「わかりました。何事もなく、10月30日を迎えられるように、乾杯しましょう!」
浮かれた大人たちによる、今日幾度目かわからない乾杯が響き渡る。
こうして、夜は更けていった。
そんな頭の悪い宴会の影響か、気の早い大宮は、天皇賞を勝ったつもりで8月、9月を過ごしていた。しかし、9月後半や10月に入ると、有力馬が続々とレースに出走予定であるという情報が大宮にも届いてくる。
『エイシンヒカリ、天皇賞秋出走決定!』
『マイル王モーリス、天皇賞秋へ』
『二冠馬ドゥラメンテ、天皇賞秋で復帰か』
『キタサンブラック、春秋天皇賞制覇に意欲!』
『ドバイターフの覇者、リアルスティール天皇賞秋参戦へ』
『ロゴタイプ、皐月賞以来の中距離GⅠ制覇へ』
『ラブリーデイ、天皇賞秋で復活なるか』
「おい、なんなんだよ。このメンバーは……」
フランスのGⅠレースのイスパーン賞で大差勝ちをしたエイシンヒカリ。マイルGⅠを4勝し、2015年の年度代表馬モーリス。宝塚記念前に軽い球節炎で休養に入っていた2015年クラシック二冠馬ドゥラメンテ。菊花賞、天皇賞春のGⅠ2勝馬のキタサンブラック。ドバイターフを勝利したリアルスティール。2013年の皐月賞馬にして、今年の安田記念でモーリスを下したロゴタイプ。前年の天皇賞秋を勝利したGⅠ2勝馬のラブリーデイ。
どの馬も実績、実力ともに現役最高峰の馬たちであった。
また、サトノクラウンやサトノノブレス、ヤマカツエースなど、重賞馬も多数参戦予定であった。
「楽勝なんてありえないなあ……」
天皇賞秋の特集が掲載されている新聞を置いて、空を眺める。
「ラピッドは頑張っているだろうか……?」
美浦トレセンにいるであろう自分の愛馬のことを思う。縣達がしっかりと管理し、成長していることを願っていた大宮であった。
大宮が空を眺めてたのと時を同じくして、北海道新冠町にある新井牧場では、勇作たちが汗水たらして働いていた。
「今年の牝馬もなかなか良さそうだな」
馬の健康状態が書かれた書類をチェックしながら、牧場長の新井勇作は、事務所で書類仕事に励んでいた。経営者として忙しい毎日を送っている彼の注目の的は、スペシャルラピッドの活躍と、その母、ゴーストミステリアスの産駒の状態であった。
大枚を叩いて牧場に連れてきたこの馬は、新井牧場に大きな利益を生み出していた。初年度産駒であるフジキセキとの仔は、オープンクラスにまで昇格していた。2013年目の産駒であるダイワメジャーとの仔も、未勝利戦を脱しており、条件戦で今も走っている。2014年目の産駒であるキングカメハメハとの仔も秋にデビューできるとの話を聞いている。2015年目の産駒であるステイゴールドとの仔は、元気いっぱいに放牧地を走り回っていた。2016年の産駒はジャスタウェイとの仔で、今のところは元気に育っていた。
「シンボリクリスエスとの仔もうまく受胎したし、本当に頑張ってくれるなあ……」
競走馬としてデビューした3頭すべてが勝ちあがり、1頭はオープン馬に、1頭は重賞馬になっていた。特にスペシャルラピッドが活躍すればするほど、弟妹達の評価も高くなり、セリや庭先取引で高く売ることができるだろうと考えていた。
「関屋記念は本当に凄かった。このままGⅠを勝てば、種牡馬になるかもしれないなあ」
圧巻のパフォーマンスをしたとはいえ、関屋記念はマイルのGⅢである。人気種牡馬になるためには、GⅠを複数回勝つ必要があった。もちろん重賞未勝利でも種牡馬として大成した例はないわけではないが、やはり好待遇を受けるためには、実績は必要であった。
「そうなればシンジゲートも組まれるかもしれないな。大宮さん、驚くだろうなあ」
両手で数えるほどの馬しか所有していない馬主が、いきなりシンジゲートを組まれるほどの種牡馬を所有する。夢のある話であった。産駒が何十億のシンジゲートを組まれるほどの実績を残したとなれば、ゴーストミステリアスの産駒が億を超えるだろうと、金勘定のことも考えていた。
そんな妄言を吐きながら仕事をしていると、それを聞いていた娘の洋子が怒り始める。
「そんな変な話をしていないで、さっさと仕事をしてください。来週はクロちゃん(ステイゴールドとの産駒)を見たいと、大手のクラブの役員が来るんですから」
「それはわかっているけど、夢くらい見たっていいじゃないか」
「はいはい。そうやって金儲けのことばかり考えるから、ぴょん吉に嫌われるんですよ」
「う……だが経営者としてなあ」
勇作も新井牧場の牧場長兼代表取締役である。家族や従業員を食わせていくために、金勘定で動くことは当然のことである。
「まあ、お父さんはそれぐらいでいいのかもしれないけどね」
父が金勘定を含めた、牧場の冷酷な部分を受け持ち、娘や妻たち従業員が、馬に愛情を注ぐ。そうやってバランスを取りながら新井牧場は発展してきたのであった。これは、彼の父親の代から続く方針である。
「俺も、馬のことは愛しているぞ。実際嫌われたのはぴょん吉だけだし」
「ぴょん吉は賢いし、人の機微がわかる子だから、お父さんの金のにおいに敏感なのよ~」
「そんなもんなのかなあ。縣さんや森本さんたちもあまり好かれていないようだけど……」
縣厩舎の男性陣は軒並みスペシャルラピッドから塩対応を受けている。体質が改善された最近では、噛んだり、足を踏んでくるようである。厩務員の伊藤には、デレデレらしいので、縣は高度なツンデレと呼んでいたりする。
「大宮さんだけには懐くんだよねえ。なんでだろう」
「やっぱりセリの展示会のときに、運命的なものがあったんじゃないかな。ぴょん吉を見ていたときの大宮さんの顔や目に感じたことがあったのかも」
「馬の目で判断する馬主もいるというが、逆もあるのか……?」
「逆指名って感じでロマンチックだと思うなあ~」
洋子は、目の前の決算書類を片付けながら、妙なことを口走る。ロマンチックといってもなあと勇作は思ったが、競馬にはそういう話がよくあるため、否定はしなかった。
そんな会話をしていると、机に片付けてあった競馬新聞が目に入る。1面は天皇賞秋の話題であった。
「次は、天皇賞か……」
スペシャルラピッドの次走については、縣達から聞かされていた。天皇賞秋というGⅠレースに出走することが決まっていた。出走するメンバーも強敵ばかりなため、勝利は難しいかもしれないと考えていた。
それでも、自分の生産馬がレースを勝つ姿を考えることはやめられなかった。
「ぴょん吉は元気なのだろうか……」
事務所の窓から空を眺めて、遠く離れた美浦トレセンで頑張っている馬のことを思った。
そんな馬を愛する二人の思いもむなしく、スペシャルラピッドは、美浦トレセンで問題行動を起こしていた。
同じ美浦トレセンに所属する二冠馬ドゥラメンテとの喧嘩である。
彼は、梅雨前に軽いけがをした関係で、宝塚記念は出走せず、そのまま天皇賞秋を復帰戦として予定していた。ドバイターフでは、落鉄もあり、実力を完全に発揮できなかった。そして、宝塚記念前のケガもあり、なかなか実力を発揮することができていなかった。
外厩での調整もそこそこに美浦トレセンに復帰し、来るべき大舞台に向けて、調教が進められていた。その日も、調教を終えて、軽い運動をトレセン内で行っていたのであった。
そこに鉢合わせたのが、縣厩舎のスペシャルラピッドとオティオーススであった。ドゥラメンテが、激しい気性であることは、トレセン関係者内では周知の事実であった。このため、縣たちも、あまり接触させないようにしていたが、偶然一緒になってしまったのである。
とはいえ、ドゥラメンテもいつでもだれにでも喧嘩を売るほどひどい性格ではなかったうえ、トレセン内で、馬同士が鉢合わせるということはいつものことなので、両陣営ともに大事になるとは考えていなかった。しかし、喧嘩は始まってしまったのである。
始まりは、ドゥラメンテが、縣厩舎所属の5歳牝馬のオティオーススにちょっかいを掛けようとしたことであった。ただ、同行していた関係者たちが、彼を諫めたため、問題はここで終わるはずであった。
ドゥラメンテの嘶きに反応したのが、普段は大人しいはずのスペシャルラピッドであった。自分の厩舎のボスである、オティオーススに喧嘩を売ったと判断して、喧嘩を買ってしまったのである。
そこからは、唸るような嘶き合いである。
【やんのか?】
【ぶち殺すぞ?】
両陣営も必死になって、お互いの馬をなだめるが、両者ともにヒートアップしていた。喧嘩の発端となったオティオーススは、『何こいつら、こわ』といった感じで、すぐにその場を離れていた。
結局、お互いの調教師たちも駆けつけて、何とか両者を引き離すことができたが、それ以降、スペシャルラピッドもドゥラメンテも、お互いの姿を見ると、吠えるように威嚇するようになるほど、犬猿の仲になった。
大喧嘩を終えて自分の馬房に戻ってきたスペシャルラピッドは、伊藤に、調教後のご褒美をねだる。伊藤としてもおやつをあげたいところであったが、「ダメだよ」と言って我慢させていた。
「んも~。そんな可愛い顔してもだめだよ」
【(´・ω・`)】
「あ~、そんな顔しないで」
縣が見れば、猫かぶりやがってといわれること間違いなしな顔をして、伊藤を誘惑していた。結局、おやつをあげてしまい、あとで森本から怒られるのであった。
ラピッド君は体質が改善されたことが原因か、ちょっとだけ気性が悪くなっています。