ぴょん吉と呼ばれている鹿毛の仔馬が生まれてから半年以上が経過した。
すぐに風邪を引いたり、熱を出すといった体質の弱さを見せてはいたが、無事に離乳し、母馬と別離することができた。最初は嫌がっていたが、暫くすると母のことなど忘れたかのように新しい放牧地で走り回っていた。遅生まれが故に、身体は他の当歳馬に比べて未熟であったが、群れでいじめられたり、なじめなかったりといったことはなかった。
冬になり、雪が降り積もったことで放牧地が雪まみれになってもぴょん吉は外で走ろうとしていた。そして、風邪を引いて熱を出して、従業員たちを心配させていた。
よく食べ、よく寝て、よく動き回る。これだけなら、太鼓判を押すことができるのだが、とにかく体調を崩すことが多かった。
冬が明け、簡単な追い運動などが始まってからは顕著であった。
1歳馬たちが放牧されている広大な放牧地を、馬に乗った従業員が1歳馬を追い立てる。
すると、ぴょん吉は常に先頭で走り続けた。明らかに他の馬たちとは違うものを見せていた。ただ、そのたびにへとへとになって馬房に戻っており、高確率で熱を出していた。
致命的な病気やケガには見舞われていないことだけが幸いであった。
「出力の強さに、身体がついていかないのかな……」
「単純に手加減ができないだけかも。いつも必死で走っているように見えるよ」
体調を崩して、横になって嘶いているぴょん吉を、裕子と洋子が「大丈夫だよ~」といいながら撫でる。馬の方も甘えているのか二人の顔や腕を舐めまわしていた。
ぴょん吉は、気性そのものは人に懐っこいので、世話を担当している二人からはかわいがられていた。
勇作は、ほかの馬と差はつけるなと注意はしていた。しかし、素質があって、懐っこいが、どこか脆さを感じるぴょん吉に、目を向けすぎてしまうのは仕方がないのかもしれないと思っていた。
「素質は間違いなくある。ただ、外向の脚と体質の弱さがどうにもなあ……遅生まれはただでさえ敬遠されるのに」
「体質が弱くても、ダービーを勝った馬もいるし、足が曲がっていても強い馬はいくらでもいますよ。それに6月生まれで有馬記念を勝った馬だっていますし」
「それは結果論だからなあ……」
勇作には、若干の不安があったが、そのマイナスポイントに目をつむれば、強い馬になりそうなのは間違いなかった。
新井牧場はオーナーブリーダーではない。生産した馬を売却することで利益を得ている生産牧場である。庭先取引で馬を売ることも多いが、せりに出して、そこで売ることも多い。
勇作たちは、ぴょん吉を、夏のセレクトセールに出そうと考えていた。日高の一流馬が集結するせり市場である。
ゴーストミステリアスの繋養には、それなりの労力と資金を投入している。フジキセキ産駒の兄ともども、それなりの値段で売れることを新井達は望んでいた。
「ああ、心配だなあ……」
気が付けば、この鹿毛の馬のことを考えていたのであった。なんだかんだで勇作も一頭の馬に翻弄されているのであった。
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大宮貞治郎は、独り身である。年齢は66歳で、数年前まで都内で印刷工場を経営していたが、代表を退き、今は隠居中である。
ひょんなことから、数年前に中央競馬の馬主の資格を取得し、数頭の競走馬を所有している。幸運なことに、そのうちの1頭はオープン戦を勝ち上がり、重賞にも挑戦できる程度には強い馬であった。
仕事人間であった、大宮にとって、競馬は刺激的な世界であった。
彼は特別欲深い人間ではなかったが、所有馬が活躍する姿を見て、馬主として欲が出始めていた。「GⅠの舞台にたってみたい」という欲である。そのためには、能力のある馬を見つけて、所有する必要があった。
しかし、馬主としては影響力が全くといっていいほどない彼には、いい馬の情報など入ってくるはずもないため、自分の相馬眼を信じるしかなかった。
そんな零細馬主である大宮が一念発起してやってきたのが、2013年夏に北海道で開催される1歳馬のせり市場であった。
前日展示から参加しており、選び抜かれた数多くの馬たちが集結していた。北海道とはいえ、夏であるため、汗をかく程度には暑かったが、いい馬がいないかと精力的に1歳馬を見ていた。
大宮が参加予定のセレクションセールは、1歳馬のせり市場である。ひだか地方で厳選された良血馬が数多く上場されるため、有力なせり市場である。大宮は2歳馬のせり市場と、秋のせり市場で馬を購入したことはあったが、夏のせり市場に来ることは初めてであった。
「やはり高いなあ……」
昨年のせり市場で取引された馬の値段を見て、大宮は唸る。
大宮は、中央競馬の馬主資格を持っているため、世間一般から見れば金持ちに分類される。しかしながら、彼の財力では、大馬主のように数千万単位の馬を毎年何頭も購入することはできなかった。
「レポジトリ?レントゲン写真とか見てもわからんなあ……」
「この馬の半兄は、去年は1億円だったのか……」
日本有数のせり市場に参加するということで、出品される馬については、事前に調査はしていた。注目している馬もいないことはない。
ただ、出品馬の血統表や兄姉の実績や価格を見ながら、唸っていた。唸っても予算は増えないことは知っているが、唸るしかないのである。
ちなみに大宮の最大の買い物が、1500万で購入した例のオープン馬である。馬主の友人なんかは、いい買い物だったとほめているが、1500万円はかなりの出費であったことは言うまでもない。
ただ、今回は奮発してそれ以上の予算は確保してきており、本気で挑んではいた。
「さて、次の馬は……」
ゴーストミステリアスの2012という鹿毛の牡馬であった。
父タニノギムレット、母ゴーストミステリアス。母の父がゴーストザッパーという血統の持ち主である。生産牧場は、新井牧場であった。
タニノギムレットはともかく、母の血統が面白い血統であったため、友人から見てみるのもいいのではと勧められた馬であった。
馬体はそこそこ大きく、黒っぽい鹿毛の毛並みは良好であった。額から鼻上にかけて父を彷彿とさせる白い流星があり、右後ろ脚には、白の足のマーキングがあるのが特徴的だった。目に留まった白色の足元から脚の付け根を見ると、やや外向きになっているように見えた。あまり経験のない大宮にも見て取れる外向の脚に眉をひそめた。また、かなり遅い誕生日が気になる要素であった。
ただ、女性従業員の指示にしっかりと従っており、急に立ち上がったり、変な動きをすることはなかった。歩様も乱れることはなく、しっかりしているものであった。
大宮がじっと見つめていると、馬の方もそれに気が付いたようで、顔と耳を向けてくる。
「大人しい馬ですね」
気になってしまって、隣に立っている女性に話しかけた。
「いつもはとても大人しいですよ。でも、放牧地だと元気いっぱいに走り回っていますよ。映像もありますよ」
別の従業員の持っているスマートフォンには、鹿毛の馬が放牧地を駆け回る様子が映っていた。群れの先頭を走るその姿はとても美しく見えたのであった。走る姿を見てからこの馬を見ると、妙に魅力的に見えるようになったのである。
脚の筋肉の付き方も素人目にもいい感じに見えるのである。遅生まれや足の形など、気にならなくなっていた。
「お、おおお~」
「あ、ダメだよ!」
極めつけには、大宮の顔をべろべろと舐めまわしてきたのである。隣の女性が止めるが、止めようとした女性の顔も舐めまわす。
「この子が男性に懐くのは珍しいですね……気に入ったのかな?」
顔つきも穏やかで、懐っこい性格。それでいて、映像にあった美しい走り。大宮は、この馬が欲しいと思ってしまったのである。
その後、他の馬の様子も見学したが、あの鹿毛の牡馬が彼の頭から離れなかった。
そして、せりの当日、予想以上の値段が飛び回ることに戦々恐々としていた。狙っていた馬は予想以上の価格になってしまい、あきらめざるを得なかった。
また、比較的価格が落ち着いている候補馬もいたが、今の大宮の目には魅力的には映らなかった。
そして、昨日出会った馬の番である。ゆっくりと登場した鹿毛の馬は、中央の展示台で大人しく立っていた。
遅生まれや、足の外向といろいろとマイナス要素もあるため、そこまで値段は上がらないかと高を括っていた大宮であった。実際、最低価格は彼でも手が出る価格であったが、すぐに値段が吊り上がっていく。どうしようかと悩んでいるうちに、想定していた予算を超えてしまっていた。
流石に無理か……と思ってあきらめかけていた瞬間、馬と目が合ったのである。
気が付けは彼は近くのスポッターに入札の意思を示していた。スポッターが「ハイ」と大きな声を上げ、大宮は入札となったのである。
「あ……」
『5800万~5800万~』
勢いでの入札であった。頭の中で、「5600万ならなんとかなる?」「これも縁なのでは?」などの、自らの行為を正当化する声が響き渡る。
「頼む、これ以上は……」
そして、5600万円で木槌のたたく音が鳴り響く。
「買っちゃった……」
5600万円。用意しようと思えば用意できる金額ではある。ただ、今後の馬主生活を含めた活動計画に大きな支障がでる金額であることに間違いはない。
「どうせ家族もいないしええやろ」と思いつつ、係の人と生産牧場の代表者がやってきて、購入の覚書を結ぶことになった。後日、支払いや保険加入のお知らせなどが届くことを大宮は教えられた。時間的には猶予があったので、それまでに金を用意しておかないとなあと思いつつ、生産牧場の人と話していた。
「ありがとうございます。昨日来ていただいた方ですね」
「いえ、昨日はお世話になりました。どうも昨日からこの馬のことが忘れることができなくてですね。気が付いたらって感じです」
「そうですか。もしかしたら大宮様とこの仔は何か縁があったのかもしれませんね」
「そうだといいですね。って、またかい」
馬の隣に立つと、昨日のように大宮の顔を舐めまわしてくる。
係りの人も含めて、この場にいる全員で苦笑しながら、記念撮影を行い、解散となった。
自分のもの(正確にはお金を支払ってからだが)になったと自覚した瞬間、この馬が妙に輝いて見えたのである。穏やかそうな顔つきも、賢そうな顔つきに見えるのであった。
これが親バカの心理かと思いつつ、残りの時間をせり市場で楽しんだのであった。
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「ぴょん吉が売れたよ!それも5600万だよ」
長女の洋子の声が響き渡る。
想像以上に高い値段で売れたので、満足な顔つきの勇作であった。
タニノギムレット産駒で母の競走成績は微妙、母父も日本では見かけない外国産馬。また、遅生まれや右後ろ脚や体質の件もあったので、昨年の兄の取引価格に比べれば安価であった。しかし、不安要素もありながらもこの価格だったため、勇作は満足していた。
すでにゴーストミステリアスは、2013年4月にシンボリクリスエスとの子供を出産している。そしてキングカメハメハとの種付けを済ませていている。来年は、億越えかなと余計な妄想を膨らませていた。
「意外と粘る人が多かったみたいです」
「そうか……値段を上げてくれた人には、感謝の言葉しかないな……」
「最後の一声!ってところで大宮さんが手を挙げたみたいでした」
「なるほど。それにしても大宮貞治郎か……知らない名前ですね」
「数年前から馬主として活動を始めた人らしいよ。2頭目の馬がオープンを勝利して、重賞にも挑戦しているみたい。運のいい人かも」
実際、オープン戦を勝てる馬は、僅かであるため、幸運であることに間違いはなかった。
「なら、大宮さんの初重賞馬くらいにはなってあげないとな」
こうして、ゴーストミステリアスの2012は、大宮貞治郎という馬主が所有者となったのであった。
大宮はその後、必死になって馬の代金をかき集めた。何とか期日までに支払うことができたので、よかったと安堵しつつ、二度とせりで勢い任せにならないと誓っていたのだった。
「1500万ならそこまで高くないかな」
→せり市場とか見ていると金銭感覚が狂います。